浜岡原発のこと
東海地震はいつ起きてもおかしくないと言われている。
ずっと言われ続けてきた。
チェルノブイリの教訓から、その放射能の拡散シミュレーションもされており、民間での活動もある。でも、なかなか現実は否定できない。それは、水俣でも福島でも柏崎でも同じことだっただろう。
教訓が生きていたのは、実はJR新幹線だったと私は強く感じている。それは阪神大震災の時の印象が高速道路の一本足高架が数キロメートルだろうか倒壊して横倒しになったのだ。それで、日本のあらゆる高架は補強されてきており、新規の高架も同様の基準で水平Gの条件が強化されたのだ。
だから、JRの新幹線は被害がなかった。私は東海道新幹線に乗るたびに、そんな危惧をずっと阪神以後に感じていた。だから、ほっとした。そして、津波で潮位観測所が被災するとデータが取れないことから、新幹線ももし地震のP波の補足が不可能な事態になれば、大きな災害になると恐れていたのだ。そのおそれは今でも変わらないものだ。
それは、航空機に乗ったときの心境と同じだ。何か異常があれば、その結果は地上への降下、落下、墜落ということである。海上だったり、極寒の土地であったり、それはさまざまだ。
だから、福島の原発事故の報道を見て、浜岡原発の情報をくまなく探した。そうしたら、東海地震が現実に恐怖となっていることから、また、加えて南海と東南海と東海との悪の協奏曲のような事態が専門家の間で現実に起きる可能性が論議されているというのだから、驚いた。
そして、浜岡からこの自宅のある静岡との距離をみるとゆうゆうと100km圏内であり、この地域の風向は西風が多いのでもろに風下になることを確認した。そんな鳥瞰的な目でみると福島との距離も400kmぐらいだろうか。日本は南北に長いというか細長い国土であり、幅は想ったよりも狭いのだと気付いた。
そしてフォッサマグナという昔から有名な糸魚川ー静岡構造線がある。これは、またフィリピンプレートという伊豆半島を本州に押し込んでいるプレートとの境界にある。太平洋プレートと北米プレート、そして日本海のユーラシアプレートとの協奏曲であった東日本大震災よりも厳しい状況だと素人にも感じられるものだ。
なぜ、東海とその南海、東南海の危険性が叫ばれてきており、東日本が緊急でないと結論付けられていたのかはよくわからないが、研究そのものは地道に行われてきており、近々発表する予定だったようだ。
でも、こういう自然災害の場合は、その予定がわからないことが多い。予測はかなり進んでいるもののあくまでデータ収集というセンサーの感度とかその信頼性がある。センサーは機械だ。だから、壊れることがある。メンテが大事になる。メンテはヒトが行うものであり、ヒトはまたエラーをするものであることはみんな承知していることだ。
では、そこにある原発という機械が浜岡の場合、福島に比べて立地条件はどうかと言えば、ひとことで「福島第一より怖そうだ」ということではないか。決してよくはない立地条件だ。
だから、ここでできることをやるのは当然のことだ。地元というか近辺で影響を受ける範囲に住むものにとって、福島原発周辺の住民、とくに30km圏外で退避を勧告されつつある地域のヒトにとってはやりきれないことであろう。
災害はそこに補償が必要となるものであり、日本の場合、途上国のように放置はできないのだ。しっかりとその被災を受けた直後から復旧復興への道のりが定められているのだ。災害後の初動の遅延がいつも問題になるのだが、やはりひとのいのち、住民の生活を第一に考えること、そして、できるならば時間を一年戻して、必要な回避とか、非難とか、削減とか、移転とか、リスクへの対策ができたのではないだろうか。
災害に要する時間と費用を考えたら、街をつくりなおすこともまた一つのインフラ更新として重要な位置づけになるのではないだろうか。
技術に携わるものとして、その陳腐化と更新の問題はとくに重要な課題であるといつも思うのだが、まあいいかと先送りになる。その背景には、まだ大丈夫ではないか・・・という甘い誘惑があるからだ。
そんな時に浜岡原発についての考えと来る災害発生の事態を想うと、おなじようにもう一年早かったらとか、あと十年の余裕があればとか・・・・その年月の長さではなく、後悔は先に立たずでしかないのだ。
そんな教訓を本当に活かしきれるのかどうか、はなはだ疑問である。それは、まだまだというのは、すぐそこに来ているのかもしれない。プレスリップが感知できなかったら、どうするという問題ではない。ただ、地震の規模は同じでも、津波の被害は小さかったなんていうこともあると・・・、とても危険な考えをすることも・・・・。
いずれにしても、とどまることはない・・・議論は議論でいい。そこに、後悔先に立たずという紙を一枚張り付けておくしかない・・・。
本来、原発ビジネスは国策で行うものではないのか。私企業での株主利益を携えてすべてをまかない切れるものだろうか。それは疑問だ。とすると、そういうビジネスを続けることが可能かどうかは疑問の余地もない。
だから、国家がある・・・ということだろうか。
私企業であれば、それは利益追求であり、自由競争の原則が通用しないなら、独占私企業は料金を利用者に転嫁してくるのが常識であり、利用者はそれを阻む手段を常に、その社会システムの中にもっていなければならないのだ。
私はこんなふうに考えている・・・。
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