こんなものか・・・
こんなものだったのか。
とてもざんねんだ。
こんなものでしかなかったのだ。
おれたちのだいすきなにほんが、すっかりわらいものだ。
すったもんだばっかしだ。
なんでちからをあわせてできないのか。
こんなときこそ、そういうことがだいじなのだというのに。
にほんのそうりだいじんをしてきたえらいひとたちはいっぱいいきているのに、なぜそのいけんをきくみみをもたないのだろうか。
そんなえらいひとたちはとっくにいないのだろう。
くにがほろびるとは、こういうことだろうか。
せんそうをはじめても、なんにもいえないたみがいるだけなのだろうか。
さいがいにあっても、ただみているだけなのか。おかねもないし、しんようもないし、なにがあるのだ・・・、このくにには・・・。
こんなものか。
こんなものか。
こんなものか・・・。
あしのひっぱりあいのうまいやつがけっきょくは、いばるということか。
つごうのわるいときはにげて、ちょっとわすれたころにまたわるさをするなんて、ひきょうきわまりないとおもっているのではないか。
ごほんにんがいちばんわかっているのではないか。でもいじめっこでしか、つうようしないとあきらめてとしとってもかわらないなんて、なんとかわいそうなんだろうか。
いつまでもひとのおかねでせいかつして、めぐまれたところにうまれたとごうごしているなんておかしいぜ・・・。
こんなものか。
こんなものだ。
でも、ゆるせないよな・・・。
そんなことは、なかまがくるしんでいるときにてをはなすようなことはできないのが、にほんじんではないのか。
にほんはこんなもんではないのだ。
きっと、どこかでみちをふみはずしているのだ。
でも、こんなものかもしれない・・・。
でも、いつまでもないてはいられない。
ちほうのじだいをつくっていくことがだいじなのだ。
こんなものではないのだ。これからは、ちほうのリーダーのでるじだいなのだ。
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