あらゆることの責任を背負う職務
すべての責任は私にある。
そう断言できるのは、内閣総理大臣ひとりである。
その内容は、内政から外交まで、庶民への貧困対策から富裕層への社会的貢献活動の普及拡大などまで、そして教育から公安対策まで・・・、とにかくなんでもかんでも責任はそこにあるというシステムなのだ。
だから、その職務に就くと、ひとではなくなる必要があるのだ。公務員は公僕という。その親分でもあるから、公明正大に公平に平等に主権者たる国民に奉仕することが、命題であるのだ。
でも、かつてそんな人物がいただろうか。
政界という閉鎖社会で権力を牛耳るちからがなければ、この国の経済を握る産業界は動かない。行政府も産業界もすべてを闇の中でコントロールできる全権を把握することができないと、首相という座にはつけないのだ。
もし、まちがって着くと、あることないこと、揶揄される。通常の精神では持たないようにいじめられてさげすまれてしまうのだ。でも、かといって先祖が殿さまだとか、大金持ちだとか、大成功企業の御曹司だとか言っても、そこに座るべき人格と教養が備わっていないと、簡単に陥れられるのだ。
だれが、この国を護るのか。
明治維新でそういう枠組みを作ったのではないだろうか。政治家は国民の意思で選ばれるが、時に変化する。だから、行政府の頭脳とシステムは最善のものにしておくことだという方針を作り上げたのではないだろうか。
官僚組織が、この国を護ってきたとも言える。
でも、争いごとでの国際間では、軍事力が不可欠だし、そういうアームを持つと、いろいろと口を出したくなり、立法、行政、司法へと枠を乗り越えて侵入してくることになるのだ。力を誇示することで、圧力と懐柔が繰り返される。
国民大衆は愚民であることが、大きな条件であった。教育レベルの向上は国益拡大のためには不可欠であり、この方針と矛盾する。だから、情報公開は最小限にして、一部の幹部で独占して闇の中に隠すことになっている。
ところが、どんどんと情報がグローバルになり、そんな島国根性では付き合いきれなくなってしまう。だから、その場しのぎで中途半端になる。
全権をもつひともそんな能力はない。だれも持ち合わせていないものを、そこに求める。それは、つまり組織なのだ。
意思決定のシステム上での役割を、あらかじめ決められたルールにのっとって判断するという役割なのだ。でも、最後は人間性が大事であり、国家の一大事なんていう場合は、国家の運命と国民の生命をそのトップたる総理大臣に託すことになるのだ。
そんな意識がほんとうにあるのだろうか。
そこに至る経緯は別にしても、そこにある以上は、やはり国民のためにいのちを捨てるという職務が最大のものであろう。
むずかしい。たしかに難しいことだ。
だって、みんな人間なんだから、何十年かかの時間がくれば、この世からいなくなるという存在は同じなのだ。
でも、なんとかしなくてはいけないのだ。困っているひとが、いつの時代にもいるのだ。国の総理であるあなたの助けをちからを待っているひとたちが、そこにいるのだ・・・。
辞するも、持続するも、みんなその決断は国民のためにいのちを捨てるということとの秤の上でのことなのだ・・・。
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