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反移民思想というもの・・・

日本は単一民族だから、わかり辛いことがあった。それが、他民族という存在である。

人種差別という用語は、もう忘れかけていた気がするが、確かに今でもある。

日本人も中国や韓国では、戦争で嫌われているのだ。それが公になるのは、ニュース報道での国際的な関連事件がなされた時である。領土問題でも紛糾とか、差別問題が持ち上がるとそこで世論が興奮し、敵視政策がとられたりするのだ。

ノルウェイでのテロ事件で多くの死傷者がでた。その背景にあるのが反移民思想だという論評をみた。やはり、どこかでヒトのこころの中には、他民族とか人種の違いを蔑視する傾向があるのだ。

宗教問題もそうだ。

こころの問題とでもいうのだろうか。そういう軽蔑するこころは、尊敬するこころとか、うらやむこころとかと大きく関連しているのだが、自分ひとりの範疇ではそう大きくなることはないのが普通ではないのか。

そこにグループがいて、同じ思想で統一されることで仲間意識ができて、時代の置かれている空間と時間を共有するという錯覚に陥ることになるのではないか。

自由とその意味は、不自由さを一部には我慢させるということになるのだ。

自由の良さは、不自由さがあってはじめてわかるものだとは・・・、言いたくはないが、世の中は悪いこととよいこと、正しいことと不正なことが、ひしめき合っているのだから、どんな考え方をして生きるかは、とても大切なことだ。

ただ、そこに自己というものを唯我独尊という立場でみてしまうと、それはおごりとなり、破滅につながるように思うのだ。

そんな困難な答えのいくつもあるような問題に対処していくために、わたしたちには知能があるのではないのか。考える力というものは、そんなところからはぐくまれるのではないか。

駄目だという結論は、頭の中ではいいのかもしれない。ただ、それが関係のない人たちをも巻き込むことになるというなら、それはテロであり、安保理がいうように、とても正当化できるものではなく、憎むべきテロ行為そのものになってしまうのだ。

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