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原子力の平和利用というあいまいさ

なんというあいまいな言葉だったのか。

核爆弾は反対。

そう言っている端から、平和利用ならOKっていっていたのではないか。

そこに反対する理由はみつからないから、それしか言いようがない。

戦争目的の軍事利用には反対という正論でもって、こころの負担は軽減されてしまう。そこへ、平和利用という新たな使い方への賛否を問われれば、戦争でなく平和のためなら、反対する理由はない・・・・、となる。

でも、安全かどうかという点については、原子力安全委員会という政府の組織があって、経産省の原子力安全保安院という専門機関がその審査にあたってもいるのだから、大丈夫なのだ・・・・というところで思考は止まっている。

それでなお不安であれば安心できなくなることが分かっているので、そこでほんとうに安全なのか?という疑問は辞めている。だって、答えは一杯用意されていてみな安全という結論を示しているのだという・・・説明が準備されているのだ。

安全神話にどうやって立ち向かうかは、極めてむなしい抵抗というほかはないのだ。だから、そこであいまいになってしまっていたのだ。

これは民衆のお上依存という体質にもよるので、私たちは大いに反省しなければならないところであろうか。

吉永小百合さんが、原発はなくなってほしいと発言しているとの報道があった。その通りであり、やはりあいまいで中途半端な理解でうやむやにしていたという思いがある。

技術的には、この3.11以前には、日本の国家的プロジェクトとして海外諸国への売り込みに精出すという予定だったのだ。

よその国に絶対安全です。実績も十二分にあります。柏崎の原発の耐震性も証明されていたのだし・・・、そんな思惑がすべて一瞬にうちに消滅してしまった。

福島原発事故という放射能漏れ事故が、すべての安全神話を崩壊させたのだ。地震はいつくるかわからないという前提で、他の原発の停止も大衆の不安解消のために強行された。

電力供給が問題でも、国民の不安というものは、天秤にかけることで解決はしない。こころの不安は解消しない。だから、すべてを停止するという方向性は正しいのだろうか。

石原都知事は言う。フランスにできてなぜ日本にできないのか・・・、と。

その理屈も屁理屈のように思う。とてもあいまいである。事故の影響は、単なる破損というレベルのものではないのだ。遺伝的な影響を残す恐れがあるのだ。だから、人類が場合によっては放射能汚染で消滅するという発端にあるのかもしれない・・・ということまでもが、否定はできないと・・・、ひとびとは考えている。

規模の科学というものがある。どんな大きなのものなら、大丈夫か・・・。

そんな議論があってもいいのではないか。ひとつクリアできれば、そこに必ず解決策があるはずだ。大きくてもその範囲が地球のバランスを崩すレベルでなければ構築可能だなんていうこと・・・もあるはずだ。

そこに安全への信頼性、つまり安心がうまれてくるということだろう。そしてほんとうの安心を得て行くにはそれなりの努力が必要でもある。

あいまいさを残したままでの、まあいいか・・・ではだめなのだ。

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