国民が自分を愛している・・・
世界の憎まれ者が、なんということをこころのなかで思っていたのかと唖然とした。
しかし、よく考えると、この世の中にほんとうの悪人はいないともいう。だから、いわゆる悪人は己は愛されている善人でありこの世の中をよくするために働いているのだと、信じ切っているのかもしれない。
カダフィ氏が、側近によると死亡間際まで、国民は自分を愛していると信じていたという。国家の主として君臨するにはそのぐらいの自負はないとできないだろう。でも、そこに言い逃れがある。
国民をあんなに苦しめてきたのに、それはほかの一部の国民だったのではないか。自分を頼っている国民は自分を愛しているということではないか。それは、つまり敵は殺すということになる。この世から自分を愛さない敵となる国民は抹殺するから、この世にいるのはすべて自分を愛する国民だという論理のようでもある。
はたして、この論理の一番のまちがいはなんだろうか。
それは多分に自分が国民を愛してはいない・・・ということではなかったのか。自主性のない行動では、成果は明確にはでない。
だから、そこには曖昧な社会しか存在しなかったのだ。反抗すれば退治するこらしめる殺戮におよび粛清もある・・・。そんな社会で、国民が自分を愛しているなんて想うのはよほどの情報音痴であろうか。
やはり自主性を持たない言葉を発する限り、そこに未来はなかったということかもしれない。
どこの政治リーダーも、民主的な社会であろうが、そうでなかろうが、おなじような過ちを犯して政治を行っているのではないか。
政治リーダー自らがまず国民を愛するのが、筋であろう。
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