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暑い夏と寒い冬

日本人は1年で夏の暑さに備え、そして冬の厳しい寒さに準備を整えて暮らしをたてなければならい。

四季があっていいですね。常夏の国々でよく言われる。

そうか。

多少、身体とこころの年輪の中に影響しているのだろう。

この1年という単位がいつも行動や考え方の基本になっていることに気がついたのは、こんな問いかけがあったときからである。

たしかにそうだ。

そう言えば、自然災害も忘れたころにやってくる・・・というのが常識だ。いつかはわからないものの、必ず忘れただろう時期に表れることは歴史が証明している。

ときに不意打ちもある。

ありえない・・・と、わたしたちは想う。

でも、そういうことはよくあったのだ。ただ、人間社会での争いも歴史的にみていくと自然災害以上にいろいろあり、征服されたり侵略したりの連続だったのだ。

どっちも今ある社会が破壊されたり壊滅したりするのだから、そこで立ち直ることが必要になる。

社会そのものが崩壊して消滅することがあっても、いずれの場合も、忘れ去られたりするのだが、いろいろな環境の変化、資源が発見されたり、開発によって、再び、社会が構築されることもある。

今を生きることに、やはり優先度が集まるのだ。

あんなにひどいのにどうしてまた同じ過ちを繰り返すのか。忘れることと、今を生きるという競争社会の現実があるのが理由ではないか。

でも、日本は1年に2度、どう生きるかという準備をさせられて育ってきた国民がいる。

その中で、自然災害も同様だとみんな思っている。できれば安全な土地で安心して暮らしたいと思う。でも、そのリスクは多様だ。

その判断が社会全体で共有されているなら、ある程度のリスク回避は可能だろうが、世の中は歴史が教えるだけのものではないのだ。常に変化しているので、やはり柔軟な対処が重要なのだ。

海岸付近は津波が心配、そして丘の上は土砂崩れが心配だ。台風などの風水害もあるし、どんなところがいいのかこの安全安心の評価結果で決めることはとても困難であろう。社会がそういう方針をもって先導することが必要になる理由だ。

個人的にはいつも経済的な要素が大きい。多少危険でも経済的な価格で入手できるなら、我慢というところか。

でも、我慢も妥協もできないのは、原発などの放射能汚染事故などの発生であろう。それはもう論外となる。居住すること自体が敬遠されるのはもちろんだし、人道的な見地からもそんな宅地造成販売はゆるされないだろう。

災害はなくならない。だから、社会のシステムとして、そこに防災という視点を大きく取り入れることが公益になると考える。

必ず来る。いつか来る。備えはどうする。

厳しい冬の到来にむけて、ここで考えよう・・・。

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