使い捨てのこどもタレント
まだまだこれからのポテンシャルを一杯詰め込んでいる宝物なのだが・・・。
あんなか弱いこどものタレントをマスコミはどう使おうとしているのか。
おかしい世の中である。
なにか大人はこどもを育てるという意識をどっかへ置き去りにしてしまったような気がする。
たしかにデキルコ、デキナイコがいて、使いたくても使えないという存在ももちろん多い。だが、こどもはこどもとしての権利をもっている。
大きなポテンシャルはその器用さとか不器用さで左右されるものであってはならないのだ。
だから、人気者の子供タレントはやはり大人の常識や世界の良識で慎重に判断していかなければならない。
たしかにかわいいこどもたちは、世間でも同じ評価なのだが、それはまたかけがえのない子供時代をみんな全員が過ごす権利をもっているのではないか。
ハナサカじいさんがはやめに咲かせてしまうのでは、だめだ。
こどもが成長して独自の判断ができるまでは、やはり良識に基づいて行動すべきであるのがおとなではないのか。
使い捨ての基準は、世間の人気だろう。ということは、そこで活躍していい評価を得るために子供はそのエネルギーを使い果たすことだろう。
それとも、遠隔操作でうごくだけのでくの坊になることを望むのだろうか。
過去の日本のマスコミの過ちをここでも繰り返しそうな状況を危惧してしまうのは、みんな同じではないか。
王家であろうが、皇族であろうが、貧乏家庭であろうが、そこにはこどもに自由な判断をゆだねる教育というものがなければならないのではないか。それは、ひととして生まれた権利ではないのか。
生まれながらの風来坊というひとも子供時代があったのだ。そして風来坊に自分の運命でなったのだろうし・・・・。
自由はあるのかな?愛菜ちゃんどうだろうか・・・。疲れてはいないかな・・・?
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