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東日本大震災に想う

だれものが思った。

こんなひどい惨状が目の前のテレビに映し出されていて、唖然とした。でも、どうしようもない。

ほんの数日前にもどれれば、1万5829人の死者も3686人の行方不明者も出さずに済んだはずでは・・・。もし、事前に惨状がわかれば、防げたのではないか。

なぜ・・・、どうして・・・、今までの惨事で対応してこなかったのか。明確な教訓があったし、戒めの石碑もあったのに、なぜなんどもなんどもそして今回の被災へとなったのか。

自然災害は仕方のないものだ。みんな知っている。

しかし、めったにこない。だから、たぶん大丈夫・・・。

目先の飯だねの方が大事。生活が先だ。

でも、いのちあってのものだねだ。そう教えてもらったのではなかったか。

いつの間にか消え去ってしまうのは、この社会の常識だったか。

だから、被災したひとたちは、自然災害にはいつもただ呆然とするだけなのだ。そして、またやるさ・・・という気持ちへとおのれとまわりを導いていくのだ。

あの惨状をみて日本のひとたちはみんなが何かできないか、おれたちにも何かできることはないか・・・と想ったのだ。私もその大勢のうちの一人であった。

何かしないと・・・いられないという気持ちになってずっとテレビのニュース報道をみてきた。でもなかなかできることはすくない。

現地は混乱している。

邪魔してはいけない。

阪神淡路の教訓で、日本全国でボランテイア組織の連携ができていることも分かった。我が静岡は岩手県の一部を支援することとなっているようだ。

支援ボランティアの募集もあった。申し込んだが、応募者が募集人数よりも多くては邪魔になるし、なかなか思うようには応募しても受け入れが整わないようだった。

つい、まあいいか、現地支援の意思は示したのだから、だって現地での支援活動は初めてだし、ひとりで勝手にいってそれぞれのボランティアセンターで受け入れてはいるようだが、経験がないし、けがしてしまって病気になって迷惑をかけるかもしれない。

だから、最初は初心者としての手はずを整えてから現地いりすることが大事だ。

作業はがれき処理とか支援物資の仕分け、配達、食事の準備や仕出しだ。

津波の被災はがれきの山だから、釘がありガラスがあり、そのた金属の破壊された断面でのケガも多いという。

現地のインフラは復旧していないから、水もトイレも、食糧もすべては自己完結で準備していかなければならない。そうでないところもあるようだが、初めてではわからない・・・。

・・・。ほんとうにもどかしいものだった。

なんとかしなくてはいけない。でも、あまりできない。

現地で被災者はむなしいだろうという気持ちでいると思われる。そこで、何ができるのだろうか。逆に神経に触るようなことをやってしまうのではないか。結局迷惑をかけるのではないか。そんな不安がもどかしさをさらに掻き立てるのだ。

まずはがれきの山を重機のとどかない家々のヘドロなどを手でかたずけることだと・・・。

現地は非日常が今の日常になっているのだ・・・。

もう戻れないというむなしさが充満しているだろう・・・。

でも、現地にいけばできることは、がれきの撤去ができる・・・。できた。あるNGOボランティアの支援活動に参加した。

はじめてのことだった。

素人ボランティアは、自衛隊や警察や、消防隊のようにはいかない。

でも、チームを組んでできることをやるシステムができていた。けがしたものはそこで帰すという鉄則もリーダーがいて組織だって実行していた。災害ボランティア保険加入も要件となっていた。

長靴はそこに鉄板がはいっているものか、金属の下敷きがないと、釘を踏み抜く危険があり必要なものだった。手袋も油っぽいヘドロの時はゴム製のもの、ガラスなどは革製のものと、軍手で保護したりする細かい決めごとがある。

活動場所では津波でごちゃごちゃになった家具やその他畑のハウスの資材など電化製品のがれきであったり、いろいろだ。マスクもアスベストがあるかもしれないので、注意が必要だ。ゴーグルも必需品だ。

そこまでチームでそろっていくのだが、道路も側溝があいていたり、一部抜けているという危険なところを通っていかなければならない。

行こうと決めてから、名古屋での説明会にいって、東京新宿からのバスに乗って、全行程9日間のボランティア活動になった。

石巻だった。そこは学生のころ友達の網本の紹介で田代島の巻き網にのせてもらった想いでの地である。

活動はインフラが整備されていないから、もちろん外出禁止である。作業時間以外は、チームでの食事が主だった。まだまだ余震の続く中であり、もしまた大きいのがきたら・・・という不安はあった。逃げる・・・海と反対へ逃げる・・・。それだけだとこころで想ったものの、地理不案内では心もとない。チームのメンバーと助け合うことだ・・・。

汗びっしょり。ぐちょぐちょだ。でも洗濯なんて論外だ。

シャンプーだってできないし、食事のサラだってサランナップで包んで洗わなくていいようにしなければならないし、ゴミも持ち帰りだし・・・。

散々な目にあった・・・。これが正直な感想だ。でも、行かないではいられなかった。どうしても行かなければ過ごせなかっただろう。

震災の3.11の後、すぐにボランティアのことが頭に浮かんだ。でも、実際に参加できたのは、なんと5月中旬であった。2カ月が過ぎていたのだ。

全行程をなんとか無事に終えて家に帰った。

現地のことが頭から離れない。また行かなければ・・・という想いと、一度いったからいいやという無責任さも頭をもたげる。

ちょっとやはり違うのではないか。ちがうやり方でやるべきではないのか。おれにできることはないのか。

技術士としての活動には技術士会でのプログラムもある。でも、震災の復興復旧の中身は広範だし、これといってピンポイントに今できることはなかなかない。

いや、実際に行動に移している人たちもいるのだ。何かいい手立てはないか。

あの被災地の現状をみてしまうと、ここで家を離れてまたいったら、東海地震も叫ばれているこの地域で・・・、不安は倍加している。

それよりも、東日本での教訓というものをわたしたちは、今、なんとかしていかなければならない・・・との想いも浮かんできた。どっちも大事なことだ。

灯台もと暗しというジレンマもあるし・・・。

やはりはじめてのボランティア活動の意義は何だったのか。それは、踏み出したことだろう。

災害支援ボランティアには、いわゆるだれでもできることと、プロボノと呼ばれる専門知識を活かすボランティア活動があることを、知った。よく耳にする医師や看護師や弁護士などの活動である。

でも、情報がない。組織が整っていない。そして、自分自身の技術で何ができるのかという不安も大きい。やれるといいながら、実はできないなんていうプロとしてのできそこないではしょうがない。

やはり、被災地での復旧復興ニーズを行政や地域住民のひとたちとともに考えていくことが大事だし、「一番困っていることはなんですか?」とか「私にお手伝いできることはないですか?」とか言うのも、困りものだ。

「何しに来たんだ?」とか「邪魔だよ。あんた何ができんだよ?」と言われてしょんぼりというところが関の山ではないか。

だって、あまりにも狭いのだ。何ができるの?という質問が一番怖い。ひとりで何ができるのと・・・言われたら、どうする?だれにもこたえられない。ひとりではだめだ。

被災地でのニーズはもちろん復旧復興である。それは企業の再開であり、地域の産業の復旧復興である。

そこでのひとりの技術者の役割は何か。この日本における災害はかならず繰り返しやってくるのだし、そこに被災の程度も地域の対応の程度や災害の規模によって大きく変わるものだ。だから、柔軟に臨機応変に非日常を日常とする心構えで暮らしの基礎を整えていくことが大事なのではないか・・・。

そのためには、現地で一番困ること、不足していることについて支援するということである。どうやって?

それは、被災地での様々なひとたちのこころが落ち着いたら自立のための仕事を作り上げることであろう。そのためには、まず今まであった企業の事業を継続できるようにすることである。

それが、地域における産業の復旧復興につながり、地域コミュニティでの活動の継続をもたらすことなのだ。

いわゆる地域防災計画におけるプロセスをよく理解していなければならないし、新たな視点での被災後の復旧復興ということも考えなければならない。

これまでの100年と被災後の100年はまた新たなスタートになるものであり、今ここに生きている私たちの次の子供たちの世代へのバトンタッチの形でもある。

BCPとCCPという視点での災害対策が大切であると、私はこのはじめてのバボランティア活動を通してはっきりと理解できたように想う。

ひとりではできないことが、仲間があつまればできる・・・。

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