プロは災厄を避けるな・・・
何かと他者に秀でると、おごりがでる。
柔道の内芝選手は、好感度はすごくよかった。しかし、ひととしての優秀な運動神経がもたらす災厄を認識していなかった。
それは、ある意味でバランスかもしれない。
若いときは、とくに一芸に秀でた才能は、おれはなんでもできる、わたしもなんでもできると思いこみ、そこにこころを集中しすぎることがある。
その結果、ひとの身体とこころの限界を知る。それは、死であったり、ケガであったり、病気であったりする。
スポーツではないが、優秀なサラリーマンの営業マンは、決して寝なかったという。毎晩毎晩、付き合いで飲んだくれていても、仕事の成果を上げ続けることで、昇進した。
あるひ身体とこころが悲鳴をあげて、しまった。
そんなことが、モウレツと言われた四五十年前にはあった。みんながそうだった。長生きなんて話題にも乗らない。如何にタフに仕事をこなせるかがその生命線だったのだ。
でも、かれらは真のサラリーマンにはなれなかったのだ。猪突猛進型のフロントランナー、フロンティアとでもいえばいいのだろうか。
そこに気持ちのバランスをとるとか、ひとりの人間としての生き方には収支というか均衡が必要だということを、無視していたのだ。
だから、つけが回ってきたのだ。
生涯のつけとは、一気に収支を合わせることのようだ。
スポーツ選手には年齢的な限界がある。だから、若いときの栄誉がいつまでも続くような錯覚に陥って驕りにはまることもある。
それは、ごく少数であろうが、ほとんどの秀逸なスポーツ選手の胸には心当たりのあることではないのか。
有名人になる・・・。
それが、どういうことかしっかりと自分の人生や花の生涯において、証明していかなければならない。
そのために、若いスポーツマンは災厄を自ら進んで受けるという姿勢が大切なの考え方になるのではないか。おごりは感じてよいだろう。それだけの秀逸なスポーツでの功績があれば、許されるだろう。
でも、そこにひとりの人間としてのバランスを意識していく必要があると想う・・・。
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