オウム平田容疑者の不可解な行動
だれでも逃げて逃げて逃げ伸びてきたのなら、これで万全だという時期はあるのだろうか。
特別手配なんてそうはない。
凶悪犯罪の容疑者にしか適用はされないものだ。
でも、オウムは終わった。これが日本国民の現実のようだった。警察も同じようなものだったということだろう。
それはさておき、なぜ出頭したのか。自発的に警察官を説得までしてなぜそんな行動にでたのか。
すでに言われているような東日本大震災の影響による心理的な変化もあるかと思うのだが、つかれたというのが本心ではないのか。
でも、そんな甘ごとでないかもしれない。
除去したはずの教条が嘘なら、それは教祖の命乞いとか延命とかいうことだともいえる。
そこにひとつのポイントがある。それは、そうではないと否定しているからだ。
真意に触れられないようにわざと遠ざけるのは常とう手段だろう。でも、それならだれでも想像し疑いをかける程度でしかない。
すでに死刑執行が決まっている昔の仲間の延命策とかいうのであれば、なんとも裁判が終わった程度で安心はできないと言わねばならない。
若者のこころの闇はだれにでもあるものだ。そこに食い込んだオウムの手口は不気味である。
いろいろな面での可能性を私たちは否定してはいけないだろうし、もちろん鵜呑みにすることはわが日本警察はしないだろう。でも、なんとなく古臭い人情的な話で終わりそうな気もする。
たしかに大震災と津波がヘドロやがれきとともに、ひとのこころをも掻き回したのは事実だろう。
だれもが、俺に私にぼくに、そして私たちに俺たちに何ができるかって考えたことは事実としてある。人間なら、ここに生きているものの責務としてそうせざるを得なかったということも決して否定はしない。ただ、人間はそう単純でもない・・・。
« 貿易障壁と空洞化 | トップページ | 石巻市小渕浜での捜索が・・・ »
「心と体」カテゴリの記事
- 分かり易い文章(2019.02.09)
- 片べりの靴の教えてくれるもの(2019.02.04)
- 年齢に比例するもの・・・(2019.02.02)
- 散歩仲間?(2019.01.07)
- 本音と建て前(2018.11.19)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント