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ひとという自然

このわたしたちのこころは、大自然の産物だ。

そして、このわたしたちのからだも、そうなのだ。

からだがあってこころがある。こころがないとからだももたない。

大自然にあるもの、それは山であり、川であり、村であり、そしてひとである。

ひとはそこで何をしていくのがいいのか。

山を荒らすことか、川を荒らすことか、そして村を壊すことだろうか。ひとを殺すことであるのだろうか。

津々浦々が地元だ。

この地球上でいきているものたちにとって、すべてのところが地元である。

地元を汚す恐れのあるものをどうする。どんどん導入するだろうか。せめて大切にしていかなければならないものは、地元である。そのすべての環境をそこにあるものたちのために残すということだろう。

宗教や文化もそうだろう。大きな道路をつくってどんどんとひとをおくりこみ地元を絶やすことに経済発展を夢見る時代は終わったのではないか。

どうする。地球という地元を捨てるという未来にむかって人類は進んでいるようだと、みんな知っている。いつか地球も太陽系も滅びる。その日のために、ひとは科学技術を手段として利用しようとしている。

ひとという自然は、やはりひとつのいのちであり、いつか滅びるというか、消滅するものではないだろうか。

生まれたら死ぬという法則は個別の生きる命だけではなく、種についても同じことを突きつけているのだと私は想うのだ。

だから、種の保存というものをそのDNAの中に埋め込んでいるのだ。でも、それを営む大自然の法則は、断ち切るというものでないのか。

更新していくということは、いつも存続を意味するものではないのだ。

一度、ひとつのものを終焉させて、次のものにしていく。大自然が続くという意味は、生き物のいのちとは違うようだ。

そこにひとという自然があるのではないか。こころとからだをもつひとという存在があるのではないか・・・。

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