しゃきっとするスイッチがある
あんなに元気のないひとが、あるときには「しゃきっと」していることがある。
どうも、仕事をしているときが多いようだ。
毎日が日曜日と自虐的にいっていたりし続けると、それは本当に苦痛になる。毎日が日曜日ではない暮らしをずっとつづけていると、それは最初は新鮮に見えるが、実はとんでもないことなのだ。
やることはある。やれることもある。
でも、ないモノがある。
それが、しゃきっとするスイッチなのだ。
からだのどこかにあるのだが、見つけることも、なんとなくしゃきっとしない身にはわからなくなる。
そして、もてあますことになる。
隠居という職業があるようだ。江戸時代には、跡取りに店を譲って隠居生活が普通だったと聞く。でも、今はどうか。
大企業の関係会社への天下り、官僚の関係組織機関への天下りが、その隠居に当たるのだろうか。それが、現役時代の成果なのだともいう。如何にして、そういう組織を創っていくかが、腕の見せどころであり、隠居生活で、人事を握り、現役を支配するという仕組みのようである。
だが、ときどき破たんするらしい。
政党でも同様である。いろいろな派閥を構成し、そこに資金を集めて、政局をにらんで、動きを制御誘導していくために使うようだ。
政治家のしゃきっとスイッチは、やはり選挙であり、その資金源のご機嫌をとることであろうか。
官僚のしゃきっとスイッチはなんだろうか。公僕というレッテルではないか。決して天下りではないだろうし、出世ということかもしれない。
民間大企業のサラリーマンのしゃきっとスイッチは、なんなのだろうか。雑多な答えがあるだけかもしれない。一流企業というレッテルがそうかも・・・。
では、中小零細企業の労働者のしゃきっとスイッチはなんだろう。生きがいとか生活とか、労働ということではないか。
働くという意識が一番、そこに収束されるのではないか。自分の頭で、からだで何かを考えてひとつひとつ意思決定していく親方や社長は、やはりその年をのりきるために成果をあげることそのものが、スイッチになる・・・。
責任。社会への責任。
それが、一般社会における地域住民としてのしゃきっとスイッチである・・・と私は想う。みんなが、その生活の糧をうる立場をのぞけば、みんな同じ地域住民のAであり、Bであり、Cなのだ。
社会の一員として、なんとかしゃきっとして生きていかねば・・・、ねば、ねば、ねば・・・、いきて・・・、いかねば・・・ならぬ。
しゃきっ!!!
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