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まるでいじめっ子の論理、日本政界の姿

いじめっ子は、考えた。

あいつをやめさせるにはどうすべきか。

脅してやるか。

いじめるか。

こうしないと、こうなるぜっていうシナリオをいくつも用意しているのが、いじめっ子である。

しかし、一番のポイントは、いじめられる側が弱いやつだっていうことだ。そうでないと、逆に自分がいじめられることになる。

昔の日本は、当事者でいじめる側といじめられる側がはっきりしていた。しかし、最近は国民の目というものがあって、そこで観客席の評判をようく気にしていかないと、とんだしっぺ返しを受けることになる。

だから、見た目のいいものを表にたてて、ずるい親玉はその影に隠れて操作することになる。ちょっと形勢が悪くなると、親分は印の顔を変える。頻繁に変えると、そこに隠れている姿が見えたりする。

国民はがっかりする。選挙にさえ興味を示さなくなる。ごく一部のひとが、この世の中の決めごとをする代議員、すなわち国会議員とか地方の議員などを決めることになってしまう。

それでうまくいくわけはない。

忠告は恐喝ではないという。つまり忠告なら犯罪ではないということだ。恐喝する実体をごまかすことで、政権を奪うなんていうのは、クーデターを起こすのと同じようなことではないのか。

これでは、国家予算の赤字体制をごまかすことに翻弄してしまうのかもしれない。国民の嫌いなことは、税金の増額だと思いこんでいるのではないか。

経済が成長しないのは、そこに成長という仕組みの全体像が見えないからではないのか。もともと妥当性のないプランで成長を継続しているのは、他国の犠牲によっていたからではないのか。

いじめるものがいなくなってしまうと、搾取できずに、枯渇するということだろう。

コングロマリットなんていうのは、どうなんだろうか。

どっかで利益をどこかに集積してしまうことの仕組みではないのか。

この国での政権交代は、たったの3年で幕を引くことになりそうだ。だが、はたしてこの3年を民主党は大切な次の政権担当へのこやしにできたのだろうか。もう二度と政権を担当するなんていう怖ろしいことはしたくないと思っているのではないか。

野党が気楽でいい・・・という代議士も多いのではないか。

どうも自民党をみていると、そんな気がする。たしかに気楽にいじめているようだ。庶民はの宰相という世襲総理ではなかった管総理はなにか二世議員たちに煮え湯を飲まされて、こうしないと法案を通さないぞ・・・と脅されていたのは、だれの目にもあきらかである。

政治が悪いとマスコミはいうのだが、本当のところは国民の意識が政治家から遠ざかっているのではないか。

行政が専門的になりすぎて、庶民はそこに近づけないというのではないか。

いじめの問題は、昔も今も変わりはしない。ただ、いじめられたら死ぬ気で喧嘩するぐらいの意地をもてと昔は言われた。負けて帰ってくるなと言われていた・・・。だから、みんな負けず嫌いだった。

だから、ほかの国と喧嘩してしまうことになったのかもしれない。

いじめられても、叩きのめされても、じっと我慢、ガマン、がまん・・・ということが、敗戦国としての当然の報いなのかもしれない。

日本政界は、国民の目があまり真剣身を帯びていないことをいいことにして、なんと自分たちの仲間うちでシャンシャンシャンという手打ちをしようということかもしれない。

いじめっ子の役割を演じるこどもたちは、どうやってつくられるのか。こどもは、ひとりひとり親たちとか大人の二番煎じではなく、新たな命と知的生命体であることを想えば、そこに歴史の教訓なんていうものを生まれながらに持っているはずもなかろう・・・。

学校でのいじめ問題は、まさに国会へと反映されてきている・・・と、あなたは感じないのだろうか。

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