スポーツ指導者の叡智
スポーツもプロのレベルになると、それは商品の製造と同じだ。
本人はもとより、その製品そのものであり、成果としての活躍が期待されて当然という状況を生み出す。それが、プロである。
サラリーマンも同じだ。知識や技術を活かすために働く。その報償の多寡ではない。
どっちにも指導者がいる。
スポーツの場合、指導者という立場がある。もちろん、同じ種目の成功者が多いのは、技術が半端ではできないというところに理由がある。
だが、中には素人だったというひとも少ないがいる。
それは、指導者としての叡智をつかんだ賢者であろう。
教えるということの普遍的なものをつかんだのだ。指導者の叡智がそこに見える気がする。もちろん、技がすごい研究熱心な選手がそのノウハウだけでなく、その背景としての努力、才能の活かし方、考え方を伝えることはとても重要である。
そういう一流の選手を目の前でみていることは、いいものに触れることで大きく成長する糧になるのだ。
スポーツは人生のワークショップだと言える。選手はいくら上達しても学ぶひとたちであり、指導者はその人たちに目的や目標を認識し、気付きを与えるファシリテーターであるということであろう。
仲間づくりということもワークショップの大きな枠組みである。才能ある中の天才たちの能力をさらに伸ばすには、その能力を認識させて、世界にもっといる多くのより優れた選手たちに立ち向かうための工夫、創造、そんな力を与えることが、最高レベルにある指導者の役割ではないのか。
宝の山をどうするのか、コクミンの期待は、選手の自主的な才能の発揮への努力ということかもしれない。お前はいうことを聞かないから、選手にしない・・・なんていう恐喝はとんでもないことだろう。
基本に帰ろう。ワークショップとしての世界一のものを、指導者はつくる立場に現実にいるのだ。そんな恵まれた環境は、そうはありはしない・・・。
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