ただ悲しむだけでいいのか・・・
南アの有名アスリートであるピストリアス選手の事件が世間を騒がせている。
あんなに社会を世界を感激に導いたアスリートたちが、落ちぶれていく姿や報道をみること、きくことはとても悲しい。
だが、それだけで、悲しむだけでいいのだろうか。
我が国の柔道選手でも、りっぱな家庭をもっていても、ふとそのメダリストという立場が過去のものとなると、栄光はいつまであるらしく、ひととしての見識を超えてしまうらしい。スーパーマンになり、偉そうなひとになってしまうらしい。
有名なほかの種目の選手でも、男女拘わらずに、そんな人生のめぐりあいによって、落ちていくひとたちもいる。
あんなに華やかで清楚なひとが「なぜ・・・」としか思えない。
だから、スポーツ界における道を究めることや、ひととして大成することがまずはどんな種目でも一番だと考えて指導者も選手もそこを克服して、会得して、そして技を鍛えることがいかに重要かがわかる気がする。
でも、勝利第一主義、成果主義、金メダル第一という目的が、選手のひととしての目標を掛け違えさせてしまうことになっている。
弱くても、正選手になれなくとも、そこでマネージャの仕事とか、支援する仕事に懸命になって尽くす部員もいるのだ。
強い正選手も、ケガや病気であきらめざるをえないこともある。
だから、自分と他者という存在を、やはり「ひと・・・」としてみることが大事になる。
ただ、そうなってしまった状況を悲しむだけでよいという論理は、おかしい。
大新聞のコラム欄といえども、あまりに状況の理解や把握に普遍性が欠けているとしか言えないと、私は想う。
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