競技審判の倫理
どんなスポーツでも、そこにルールがあり、そして審判がいる。
主審がいて、副審がいたり、その他のジャッジを専門に行うひとたちもいる。すべてが競技の公正な推移を検証するために存在している。
だから、選手は基本的に自分勝手な判断での抗議を行わないで従うことを基本としているようだ。だが、なかには、素人がこりゃなんだっていう場面もある。
その審判団の基本とはなんだろうか。
一方に味方しない。味方や敵という位置づけで見ない。当然だろう。だが、そこに伏兵がいるのだ。だから、同じ国のひとを主審などの重要な判断を行う職務にはつけない。第三者が基本となる所以だ。
審判の倫理というのは、やはり国や地域によってはシンドイだろう。競技とおなじようにスポーツを愛するというこころが、たしかな審判をつくることになる。
そこにも闇のちからが入り込む余地があるという・・・。
« 西高東低 | トップページ | 日本の総理も失敗を糧にしている・・・ »
「スポーツ」カテゴリの記事
- 弱者切り捨て・敗退濃厚(2022.11.21)
- 逆転はなぜ生まれるか(2019.02.11)
- J1(2019.02.07)
- 気合とは・・・(2019.02.04)
- 玉鷲関の優勝と貴景勝関の横綱への道のり(2019.01.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント