言葉で返せない悔しさ
子供のころの語いは少ない。
外国語の語いも少ない。
そんなところで悔しい想いをすることは多い。
なんでもないことが、その時の俺やあんたにとっては屈辱以外の何物でもない。
ひとこといいたい主張が表現できれば、人生は変わるかもしれないし、そうでないかもしれない。
そして、できないことはできない。今はできない。これからできるようになる。
できるようになれば、もう屈辱なんてなくなってしまうのが不思議だ。
不思議なんだ。
なんであのとき、屈辱と感じてこころが震えていたのかが、あとではわからなくなる。
感受性の変化ってやつかもしれない。
そんなことが大人になっても時々やってくる。英語でいじめられたらどうする。
どうせわからないからと、ばかにされている内容がよく理解できたらどうする。
まさか殴るわけにはいかない。だから、知らないふりをする。
母国語ではない・・・っていう。微妙なニュアンスはなかなかわからないものだ。相手の人格や品格への理解の上での話とか行動、反応でないといけない。
そのために何をする?
ひとを理解するように努める。
あの類のやからは、そういう行動をとるなんていうのは、すぐにわかるようになる。だが、それは内なるものであり、真実かどうかは、確かめるなんて必要はない。
要は、おのれの覚悟なのだ。
なんとでも言える。ことばは流暢だが、中身がない・・・・とか、無口だが思慮分別に長けているなんて・・・。言われることもある。
そんなときは、とてもどっかが落ち着かなくなるが、どっしりと構える。それでいいのだ。
崩壊はすべておのれから始まるのだから・・・。相手も同じと知るべしだ。
« 日本の政治の仕組みをつくる | トップページ | 詐欺の呼び名 »
「スポーツ」カテゴリの記事
- 弱者切り捨て・敗退濃厚(2022.11.21)
- 逆転はなぜ生まれるか(2019.02.11)
- J1(2019.02.07)
- 気合とは・・・(2019.02.04)
- 玉鷲関の優勝と貴景勝関の横綱への道のり(2019.01.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント