補償金におぼれる・・・
奪われてしまったのだ。
あの時に、生活の場を甘ごとにほだされて、お金に目がくらんだという言わないが、選択の余地は感情論だったのだ。
だって、だれだってもしも・・・ということを考える。
俺たちだって、同じだ。
それに、公共のためのインフラ整備なら、原発も埋め立ても、地先の漁場がなくなってもそれは仕方のないことだ。
反対しても、地域のため、公共のためと言われては、どうにもならない。最後は賛成するしかない。もちろん見返りとしての補償金がそのいいわけになる。
だが、生活の場は、おれたち世代だけのものではない。
持続的な空間が必要なのだ。そこで生まれて育つこととは、生活のための糧を得て、伴侶を得ていける土地のことだ。時間は、ずっと祖父母やその前から流れてきている土地だ。
生活の場、それをどうやって確保するか。
原発だけではない。いろいろなインフラをどうやって整備するのか、しないのか。
生活の場をどうするのか、自然の営みを阻害しないという方法もある。
だが、それは自然災害もいろいろだ。
津波もあれば、がけ崩れもある。
どこにいても、それはひとの暮らしがあるかぎり、付随するものかもしれない。
補償金で釣ってはいけない。また、つられることもいけない。
そこに理がなければ、一時的な利という補償金は、未来を保証はしない。
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