いつから考えられるようになったか・・・
全体をみて判断せよ。
そんなことを子供のころにきいた気がする。
そのころ、まったく意味がわからなかった。
だが、まったく関係ないことだという意味にとっていたかもしれない。どうせ、ひとりだけではなにもできはしない。いてもいなくても世の中の動きは変わらないという・・・ものだった。
だが、そうではない。そう想ったのはいつごろからか。
ずっと朝から晩まで仕事に追われてきゅうきゅうしていたが、それはそれで幸せな日々であった。自分で過ごす時間はつまらないのは嫌だというのがひとつの主張である。だから、いつもつまらなくはない。
だが、飽きてくる。
そんなとき、非日常的なことを想ったのだろう。うなされた。毎晩、寝汗をかいていた。これではしょうがない・・・。そう想った。
そのころから、いろいろと考えるようになった。
ひとの一生とはなんだ?
ひととはなんだ?
家族とはなんだ?
社会とはなんだ?
選挙権とはなんだ?
ひとりの行動がどんな意味をもつのか?
俺はなんだ?
あんたはなにものなのか?
常識とは現実離れしているってこともあるな?
非常識ってちまたに転がっているのはなぜだ?
現実はいつも正しいのか?なぜ正しいのか?嘘ではないか?
いつもそんなことを想っているわけではないものの、いつのころからか、自分のこころのなかの表象を文字で表すことに興味をもったのだ。なぜだったのか。
明日がない・・・。かならずちかいうちに消える命だ・・・。そう心に言い聞かせて過ごした日々が、わたしを無鉄砲にしたのではないか。それは、それまで必要のなかった考えるという機能を活用することだったように想う。
希望の持てないということは、命が通じていない時間軸のことである。どんなつまらないひとでも、それはおのれのこころがあっての話しなのだ。
どんなに強面のひとでも、それはおのれの命があってのことなのだ。
そういう大切な命のともしびが淡くとも見えたから、わたしは人並みに考えるという行為を必要なものと認めることができたようだ。
そんなときが、だれにも訪れては去り、そういうことを繰り返すのではないか。
少子高齢化に当たってどうするのか。年齢とか老化、細胞劣化というやつらをなんとかして多事すればいいのではないか。
それにしては、この世の中、年齢制限や老齢者への差別が多い気がする。
ボランティアも拒否され、参加できない老齢者・・・が、巷にたむろして社会不安に陥るなんていう記事が世の中を騒がす原因にもなるのではないか。活用するには、それなりの仕組みが必要だ。
こどももおとなもろうじんも、男女かかわりなく、この世の中の構成員なのだから・・・。考えることもないのだが、なかなか高齢者のリスクという視点からすると、扱いにくい年齢層ではあるかもしれない・・・。
そこにアイデアがいる・・・。
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