スポーツのちから
ものすごいハイテクの機器で生物でもあるものを動かす。自由自在にコントロールするっていうのは、夢のようなことではないだろうか。
そんなものがこの世の中にあるのかっていうのは、いい質問だ。
それがF1カーでもなければ、最新鋭のジェット戦闘機でも、人工知能のあるロケットでもないのだ。なんだと想う?
それは、われわれそのものだ。
こんなすごいメカニカルな構造をもち、さらに生物学的な機能と神経細胞に裏付けられた思考能力と知力がある。
スポーツとは、それをどう運転し、難しい局面を操縦していくかという作業でもある。
その上手下手は、かなり大きい。オリンピックやパラリンピックは、そういう機能をいかにコントロールするかの争い競い合いである。
ちからは大きい。
怪我をしたり、ハンディをもっていたりしても、その機能は同じである。抑制されてしまうこともあるが、それがほかの能力をより引き出すことにもなる。
何にもまして、身体と精神的なものと、知恵と知力との総合的なものである。身体的なもののハンディや精神的なハンディがあることによって、スポーツの上手下手は論じることはできない。
車の両輪だというのは、そこにある。バランスがとれる状況になることが、ひととしての成長になる。スポーツのちからは、実はそこにある。
スポーツは、ひとつのルールの中での競い合いだ。ハンディを包括するものになれなければその存在の意味は薄れてしまう。
いじめを跳ね返し、村八分を論破し、強い逞しいひとになるには、スポーツは極めて有益な手段である。コミュニケーションの向上もスポーツの大きな意義のひとつである。
スポーツをどう考えるかによって、その力は無限大となる可能性を秘めている。
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