成長しないと存在意義はないのか?
ひとも国家も地域も民族も宗教も・・・。
存在意義はないのか、もしもそこに成長がないといけないのか。
私は疑問だ。
だって、日常生活を見てみよう。
朝起きて、仕事して、おひるを食べて、仕事して、夕飯食べて寝る。
月曜日から金曜日まで働いて、たいていのひとはそういうことで週末を迎える。
定期的なルーチンで休息をとるという日常の生活だ。
食糧もレクレーションのサービスもこの日常と同じレベルで回っている。
だが、そこでデモ、テロ、社会不安、戦争などが起きると、社会は混乱してこのルーチンはなくなる。
もちろん、子供たちも大人たちの人生サイクル、一生にも狂いがくる。
だれも生きてずっと続いた日常生活を送れなくなる。こどもたちの教育も続かなくなる。そこで文化も止まってしまる。
もちろん経済も成長しない。
いや逆行する。政治もそうだ。
社会は成長しなくとも、その時に必要なものを維持できることが大切ではないのか。
日常生活がすべて電機でうごくというのが成長だろうか。
どっかで勘違いしていないか。
人口はどんどん増えることが、成長だろうか。そうではない。
ひとらしい生活を維持し楽しむ、満喫するってことが、ほんとうの成長ではないのか。生活を楽しむことは、貧しい昔からやってきていたことだ。
それが一部のお金持ちの生活に偶像化されてしまい、それ以外は阻害されてしまう。そんな世の中ではだめなはずだ。そうではないか。
成長・・・という定義を本来の、生活基準で見直すことが大切ではないか。
日常生活と大きくかい離している現状をどうわたしたちはみていけば元の軌道にもどれるのだろうか。
他者の足を引っ張ることで成長する・・・。他者を抑えつけることで、自分たちの繁栄が叶うなんていうことでは、こらからもずっといくさをする社会しか生まれない。
それは貧者をつくり、そこを踏み台にしていくという構図でしかない。ともに自然を尊重して繁栄という人生の楽しみを共有していくことこそが、私たちの存在意義ではないか。
いかに成長しないで持続して充実させていくかという視点が欠けている・・・。
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