国際社会のちからってなんだろうか・・・
シリアでの抗争は泥沼化している。
その終結、収拾へ向けての国際社会のちから結集が求められている。だが、そういうちからが今の今まで発揮されたことがあっただろうか。
一方が賛成推進でも他方は反対というのが、国際社会だ。
悪がはびこる図式のようなものかもしれない。
つまり、悪にならないと国際社会ではちからがないとみられるらしい。
できるだけ悪徳国家として睨みを利かせることが重要になるようだ。
ワルがきの国家が、威張る国際社会で、正義を民主主義、人道主義を旗印にしていこうとすると、いろいろなジレンマに阻まれるのを日々、みてしまうことになる。
いちゃもんをつける。
安倍総理が「みぎあし」から歩き始めようとすると、それは「侵略への一歩だ」というかどうかは知らぬが、同じようなことが、堂々となんのハジライもなく、中韓政府が国際的に発信する。
もともと「国際社会」というのはなんだ。
ましてや、その力でごたごたを収拾しようなんていうことが無理ではないのか。
アウトローの世界で生きるには、この日本のような敗戦国はどういう形でその誇りの意識を保持していけばいいのか。
ながれをみる。本筋を忘れないってことだろうか。
そんなことを言っていると、また後ろから、横から、足をすくわれて頭を打ってしまうことになる。
怪我は致命傷になって、そこで思考が停止なんていうことになる・・・。
それを望んでいる隣国に囲まれているなら、どんと構える覚悟がいる。誇りももっていることが大切だ。独自の文化でもあり、隣国諸国からの歴史的な教え、学びの結果、成果でもある。
こうなると、どうも混とんとしてくる。
国際社会のちからとは、これから築きあげていくものかもしれない。
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