日本の戦略を示すこと
今、日本はその戦略を国際的に示す必要がある。
もちろん、敗戦国だから、侵略国だからと隣国らに避難されるのは、仕方のないことだ。だが、日本は敗戦という屈辱・侮辱・辱めを受けても、反論はしない。
それは、間違っていた政策によって国家の運営をしてしまったからだと国民は認識しているからだ。
戦後生まれのひとも戦前に幼少期を過ごしたひとたちも、みんな戦後の米国から入ってきた民主主義や自由主義が、当然の原則だと、理解している。
そこに対立軸としてあるのは、もちろん共産主義かもしれない。でも、それらの国々にはびこる独裁政治ではないのは、みんな理解している。覇権主義でもない。
国民主権というところでの戦略は、地球国民という視点でも同じだと、みんな考えているはずだ。すべてが同じだとは言わないが、戦略を語る上で、嘘は言わない。
主張はする。その基本原則はなんだろうか。ひととしての責務だといえようか。
どう生きるか。国家権力とはちがう個の視点では、みんな同じだ。
同じなのに同じではない。当然だ。個性の尊重が大事だからだ。
足りないとか十二分能力のちがいは、そのひとのそれぞれの個性なのだ。
あいつはバカだとか、あいつは天才だとか言ってもだ。天才はバカにはなれないだろう、それはバカが天才になれないのと同じなのだ。
そこに、日本国家は、日本の政治家は選ばれた頭脳として、国民の代表として、この国の戦略を経済、人的資源、環境、安全、情報などの分野を含めて、総合的な観点から、国際動向を踏まえた計画として、世界に国民に示す必要がある。
当面、敗戦国としての責務もある。だから属国だとか、以前の敵国のいいなりになっているという誹謗中傷も受け入れよう。とくに反論はない。
だが、今、これからの世界を考えるときだからこそ、そういう過去の経験を踏まえて、どう立ち向かうかの意思を意志をしめす必要がある。
制度は制度だ。伝統は伝統だし、独特の文化も重要性もみんな理解している。
でも、人は人の上に人を作らずというの正しいと私は考えている。
でも、偉いといわれたいばかりに、実の兄弟や周囲の縁者を殺戮するような国家にはしない。
もっと、自由で活発な国民生活をどう構築していくのか。自然と共生する日々の暮らしをいかにして築いていくのか、その指針が欲しいと私は考えている。
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