最近のトラックバック

« Frantic search!! 厳しい不明者の捜索! | トップページ | むら社会の閉鎖性 »

瞑想とは・・・

いろいろなやり方がある。
私はある時、妙に手を合わせたくなったのだ。
両手を胸の前で合わせて目をつむる。
すると、昔、腹式呼吸をせよと病院のベッドで手術直後に看護師さんに言われたのを思い出した。当時は、呼吸とかそんな自分の心身のことなんて意識がなかった。
己の身体とか心理とかをどうのこうのするなんていうのは及びもつかなかった。ただただ、時には自信過剰になり、また、心が折れたりして、浮き沈みの激しい日常と戦っていただけだったように思うのだ。
でも、違うとも思っていた。
なにか、自分の心身の中でこころとからだという二つが時には別物だと想ったり、やっぱりくっついて分離できないものだなとか、考えたりしていた。
瞑想とは、こころを感じるってことのようだ。
足の裏で考えるという感覚をもったのは、妥当性とはなんだってずっと考えざるを得なかったときだった。わからなかった。だから、歩いて考えた。足で考えたという感じだ。
すると、何に対してそうなのか、何に対して妥当なのかが問題の中心にあるとふいに脳裏に浮かんできた。なんだ、そんなことか。そう思った。
たばこをやめよう。幾度となく思っては、ちょっと一服してその件について思考しようか。そんな言い訳でいつも中止となる。なんどやっても、あの少しやめたあとの中毒症状から解放される瞬間があきらめきれないという心理だ。どうしようもない。中毒患者だ。ニコチン中毒だ。でも合法だから、法律的には問題ない。逮捕も非難もされないのだ。
でも、それでいいのか。呼吸はきつくはないか。風邪のときに、ゴホゴホして治癒が遅いではないか。きっと肺炎や肺がんのリスクは高い。そしてこの頃は、飛行機も空港も禁煙だ。
仕事で10時間以上も禁煙していられるか。
煙草をやめるしかない。健康にも悪い。こどもらは、私が昔父にいったことを同じことをまったく同じように「なんでそんなまずいものを吸うのか・・・」というのだ。
で、どうなった。
一冊の禁煙に係る書籍を買った。
それは、吸いたくなったら、頭の中で意識を足の小指から、両足のいろいろなところを通り、体幹にうつり、両腕にも回り、首から頭・顔・両目・両耳、頭頂部などにめぐらすというものだった。記憶しているのは、足の小指へ意識を飛ばす難しさだった。始めたころは、わからない。そのうち、意識が移せるようになった。
血流の問題だと察したのは、ずいぶんあとのことだ。
これが、私の瞑想への入り口だった。
自律神経とかなんとかいうが、頭の中にだれでも広大な時空間を所有しているってことをなんとなく自覚できた。どんな難問も、どんなにでっかいものも、大昔のことも未来のこともなんでも保管したり、一時おいておける場所だ。
宇宙空間でも、未知のさらなる空間でも、そこには悠々と入る大きさだ。
でも、ちっぽけな俺たちの頭の中にある。
ただ問題は、その所有者のみが使えるのであり、他者には手が届かないものだ。自分のイメージできる範囲でしか、そこにいれるものはあり得ないのも現実だ。
だから、瞑想は発想の問題でもあろうか。

« Frantic search!! 厳しい不明者の捜索! | トップページ | むら社会の閉鎖性 »

心と体」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 瞑想とは・・・:

« Frantic search!! 厳しい不明者の捜索! | トップページ | むら社会の閉鎖性 »

2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ