瞑想(めいそう)
仏教のちからだ。
日本では瞑想というと、なにかヨガを思わせる。
だが、座禅といえば、そのものでもある。
すわってこころをなんとかしてしまう・・・。
無心は、無の心といわないと、とんでもないお金の無心にもなるので、要注意だ。
瞑想と無心は同じか。
私は仏教の教えは詳しくはない。
でも、そこには会得とか、夢想とか、真理とかが浮かんでくる。
宇宙のずっと先に、昔のひとたちが水平線はずっと続くという意味で水平と使ったのだと考えると、同じような状況にあるのかとふとおもう。つまり、知恵が不足している。科学技術といいながら、ちっともそうではないのじゃないか。
ただ、現代も昔も知恵者のいうことに翻弄されて、そこに権力がくわわり、何かわからないことを探求するのではなく、ただ、都合のいいように作り上げいたのではないか、いやそうしているのではないか。なぜならば、わからないことだから、そこには嘘も真実もないという背景を利用してだ。
瞑想は迷走してしまうのでは、どうも2週間も洞窟の暗闇で安寧に過ごせはしない。
凡人は危険を察知したら、逃避・回避・迂回などで、リスクを・・・。
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