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むしょうに表現したくなる・・・

こころの底から、湧きあがる思いがある。
そんなとき、私は想う。
どうやって表現しようか、そして悩んだりする。
なんで悩むのか、どうして苦しさを表現するのか。
ああ、生きているってことを主張したいのだ。
だれでも、そうだ。
私も男だとかこころでは想う。でも口には出さない。
なんでかというと、当たり前のこと、当然の事実だからだ。
時代とか歴史とかを作ってきた人物だとかいえるのは、生きている時の坂本龍馬であり、西郷隆盛であり、歴史上の人物だろう。何人かいる。でも、みな早くに死んでいる。今なら、30半ばで死ぬなんてよほどの病気でもない限り、ありえないようなことが、時代背景でいのちを落としているのだ。
どう生きるか。そこで悩んでいるふりをする。そのぐらいの余裕がないと、今の時代は生きていけない気もする。どっちでもいいんだではないのだが、そんな気分にもなってしまう。
そんなときもある。だって、ちっぽけな存在でしかない。
ひとりの人間がいきていようと、しんでしまおうと、一時、いや一瞬のできごとでしかない。
歴史に名を刻むなんていうこともない。知っている人はしっているぐらいだろうか。
でも、わたしはそこにひとの生きた証があり、そこにこそ本来の価値があると考えている。なぜならば、今、時代の人物といわれる偉人たちも、みんなそういう存在だったのだ。
とくに特別な才能が元からあって、それをずっと効果的に使い続けてほしいとかいう時代の要請なんていうのも当然ながらなかったのだ。
さてどうする。どんな風に生きる。
今、ここにいるということを、だから、妙に表現したくなることがあるのだ。
昔は、こんなネットで己の考えをいつでも、どこでも記せる手段なんてなかったのだ。
しかし、その中身とか重要性はすごく薄れている。
自覚はある。その程度のことだという認識もある。でも表現できることは楽しい。
いきているという実感が得られる・・・からだ。

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