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2022年4月

G20

堂々と己の正義を主張できるのだろうか。

とても疑問だ。

議長国インドネシアのジョコ大統領は、ロシアのウクライナ侵略前に招待状を出しているようだ。

侵略後の変更は今のところないのか。

ロシアのプーチン氏は出席するという意思表示をしているらしい。

だが、そんな余裕はあるのだろうか。

私はだれが何を言おうとも常に正しいのだとでも主張するのだろうか。

自己主張一点張りでは、主要20か国にどう伝わるかなんて関係ないのかもしれない。

嫌われ者としてレッテルを国際的に張られてしまった現状では、多少の言い訳では通用しない。

そんなときは「核の恫喝」となるのか。

傷ついた獣はG20の舞台で何を話すのか。

長テーブルをどう配置するか指示してくるのではないか。

ほかの19か国はどういう席の配置にするのか。

なにか凶悪犯の裁判のようなシーンが浮かんでくるのは、とても残念である。

すべて議長国の判断による・・・のならば、その手腕に期待しよう。

その先に停戦という現実がでてくれば、それは歓迎できる。

安易な予想はよそう・・・。

JCI

小型船舶の検査機構が知床の観光船事故で非難対象になっているようだ。

全国にどのぐらいの小型船舶があるのか知っているひとはいるだろうか。

日本は周囲を海で囲まれている。

だから、船への関心は大きい国民であろう。

小さな舟から大きな油槽船まで様々である。

水産関連の高校の練習船のハワイ沖での事故もあった。

自衛隊艦船と釣り船の衝突事故もあった。

海難事故は、しょっちゅう起きているのだ。

海象は陸上とはかなり違う。

自分の乗っている船の仕様によって、気象海象条件への注意事項もまた大きく異なるのが現実だ。

同じプレジャーボートでも、性能の違いで耐候性はちがうのだ。

客船の場合は、またちがう視点が要る。

安全面での気配り目配りはすごいプロフェッショナルなものが求められる。

海上安全をどう維持していくか、国民全体の目を通して注視していこう。

UKはEU脱退後、いきいきしているように見える

どの国も、自主性を持って国家の運営に当たるのがいいのではないか。

なにか集団の中で同一歩調を必ずとれというような統制では、なにか不釣り合いな感がするのだ。

このごろ、UKの動きが独自性をもっていて何かとても輝いているように思える。

連帯と自立はどっちも大事だ。

なにか欧州連合はどこかで自由を奪っているような気がする。

中身をよく知らないせいかもしれないが、そんな気がする。

日本はアメリカの属国だと多くの国々は見ているが、その通りだろう。

二度と繰り返さないための憲法を背負って国際社会を歩いているのだ。

そういう規制、制約は米軍基地の存在で客観的にも自明のことである。

出る杭は打たれるという通り、でしゃばるという評価が大きくなれば、旧ソ連からの独立諸国と同様に、侵略される惧れはある。

戦後80年近くを経て、初めてそこにある信頼関係ができているのだという想いは強くなっているようだ。

だが、もしもその支柱が倒壊したらどうなるか。

様々なシミュレーションがある。

いかなるcaseでも対応できるよう柔軟で自由な発想で、UKの行動をながめて注視していくことが大事だ。

木綿のハンカチーフ

田舎育ちならば、よくわかる心理である。

方言も都会にいくと、いつの間にかなくなる。

もちろん、妙なくせはどこかに残る。

だから、同じ地方の出身者どうしは、あれっ、このひときっとそうだ・・・とピンとくる。

そんなときは、なんとなく懐かしい気がする。

でも、自分も他人からは同じように見られているはずだ。

初めはなんとなく恥ずかしい気がする。

すぐになれる。

元をただせばみんなどっかの田舎から出てきたのだ。

その子孫が都会で暮らしているということなのだ。

木綿のハンカチーフは、そんな若者や昔の若人の心理をうまく表現している。

海難事故

自然を相手の商売だ。

とくに海上は陸とは全く異なる。

船にもいろいろある。

小さくても荒天につよい小型ヨットもあれば、大きくても気象条件に合わないcaseはいくらでもある。

設計条件が異なれば、それは舟のサイズには関係ないのだ。

いつも忘れたころにやってくる。

どんな乗り物にも事故はある。

観光バスの事故は、まだ記憶にあるし、電車の事故も悲惨なニュースがあった。

幾度となく繰り返される悲劇だ。

だから、そこに従事する人間はこころのやすまる時間がないようにも思う。

それでも需要がある。

ひとびとはそこに何かを求めて集まってくる。

そういう要望に応えるのが、それぞれの事業所で勤務するプロとしての役目なのだ。

楽しさ

楽しさを探そう。

自分で探すのは、さぞ楽しいことだろう。

そんな想像をする。

しかし、現実はしんどいものだ。

何か新しくやろうとすると、目の前にはすごい数の可能性の山々があるのだ。

だが、一度にできるのはたった一つだ。

そして、自分がそこにひとの性能としての出来栄えで合致できるかという、レベルの問題がある。

自分で選べる範囲って意外と少ないのだ。

それでも、自分でやりたいと思ったことは、意外ともっとできるひととしてのスペックがいいやつらは、そこには来ないことが多いのも事実だ。

ちょっと消極的な感じがするかもしれないが、やはり、なにかやらねばいけないという仕事に対する考えがあるので、そこは自分をなんとかごまかしていくしかない。

それで、どうする。

どんなしごとも最初は難しいし、楽しくはない。

仕事って、誰にでもできるようになっていることが多い。

誰にでもできるようにシステムがあり、だれでもできるように手順が示されている。

でも、難しいのは、それを遵守して継続していくことなのだ。

慣れるとつまらなくなる。

おいしい料理でも、食べ続けると、だんだんその良さが薄れる。

そこでどうやって楽しさを見つけるか・・・が、問題の核心なのだ。

虐殺

聞きたくないことばの一つだ。

拷問で手足の指を切断されたひとが森に放り出されて奇跡的に脱出できて生還したらしい。

そんな馬鹿なことがあるのだ。

ひとの手足の指をなぜ切る必要がある。

虐殺ではひとりも生き残れない。

戦とは、そんなに非情な世界なのだと言えば済むのだろうか。

言い訳に、殺さなければ殺される恐怖がそうさせると言えるのだろうか。

そんなリーダーを選んでしまった現状に国民は落胆していなければならない・・・。

でも、この問題の解決策は、陰謀を企んだものだけなのだという。

だれも近づけない・・・。

コロナ禍だからではないだろう。

そんな国家のリーダーが存在していること自体が不合理だとだれかが気づかないといけないだろう。

でも、どこにもいないようだ。

あまり、入り込んで深みにはまるのは、ベラルーシの大統領でさえ、そんな気配を感じさせ始めているという。

耳を疑う

話し合いに訪れた国際機関の代表者に、次の訪問地滞在中に砲弾をお見舞いしたとのニュースがあった。

これってこどものいたずらではないのかと、私は耳を疑った。

エイプリルフールは、すでに終わっているし、この時期にそうであってもそんなことはしないのが一般的な常識だ。

勝手にケンカの仲裁に入ってきた「コノヤロー」的なやんちゃな坊主がやる行為ではないだろうか。

そんなレベルで隣国に侵略しているのか。

いや、もとロシア圏にあったという歴史を持つ国々を対象としているという情報もある。

モルドバ、グルジア、そしてベラルーシも同様だろう。

今の政権がロシアよりであるということで侵略はないだろうが、隣国の侵略に加担しないと同じ目にあうぞとの脅威は感じるだろう。

いずれにしても耳を疑う話ばかりではないか・・・。

あんたは狂っているのか・・・と訊いてみたくなる。

ロシアのリーダーとして、それでいいと思っているのかと、問いただしてみる・・・なんていうことは無駄なようだ。

訊く耳を持たないっていうのは、まさにこういうことなんだな。

気の持ちよう・・・

ひとは、いつも気の持ちようで変わる。

下手に焦っている時もあるし、なにかへんに落ち着いている時もあるようだ。

どこにそのありようの規準があるのか・・・な。

そう思ったことはないでしょうか。

いつも、必要な時にでてくるならば、それはそれは大変に都合のいいことである。

だが、逆がほとんどだ。

それならば、ちがうシフトで対応するのだ。

気の持ちようを少々変化させる。

焦ったら、より焦るにはどうしたらいいかと・・・か、考えるようにする。

いやに落ち着いているなとかいう場合には、より落ち着くようにするには・・・と考えると、思い通りにはいかないという原則が働いて結構ぴったりの心持になるのではないか。

客観的な心理を焦っている時も、落ち着いているときにも、どっかで維持するしくみだろうかな。

コントロールスペースを小さくてよいのでどこかにしまっておこう。

足の小指の先っぽで・・・いいのだ。

知らんぷりという知恵

これはいつも必要な時、大事な時にどっかへ行ってしまうようだ。

下手にそこでどう対応しようとも、何も出てはこないのだから、そん時はお休みすればいい。

己の責任とか担当とか、そういう肩の重荷はいったん床に置いておこう。

その間はすくなくとも、肩から荷が下りているから負担がなくなる。

知らんぷりなんてしてどうなる・・・。

こころの修行になる。

知らなかったでしょう・・・。

 

人生の勝ち負け

ちょっと思い出した。

ついこの間まで、人生の勝ち組とか負け組とか言っていたのだった。

このごろは、ほとんど聞かなくなった。

どうしてだろうか。

日々のつつましい暮らしが、ある日突然、砲弾で破壊されてしまう。

隣家のひとたちが死んでいなくなる・・・。

勝つために戦争をする。

敗けるために戦争をするひとたちもこの世にはいるようだ。

負け組になるために、隣人や友人や隣国や友好国をいつの間にか敵に仕立て上げてしまう。

考え方が合わないので気に入らない。

どんどんと離れていく古い友達にいらだち、侵略して、自由な行動を阻止しようとする。

振り上げたこぶしは、いつおろすのかは分からない。

そんな間違った愛情のようなもので、友を殺していいのだろうか。

彼らの日々の豊かな暮らしを砕き散らしてよいわけなんてありはしないのだ。

ひとは死ぬのだ。

己の死の前に他者を道連れにしようなんて思わないでくれ。

後のことは、これからの若者たちに託すのだ・・・。

貧しさは恥か

恥ずかしい。

貧しいことをそう感じるのだ。

なぜ、それは貧しさがこころもそうだと表明してしまいそうだからだ。

そりゃ、だれだって日々の食い物や暮らしがうまくいかないならば、ぼろぼろになって身も心も砕け散りそうになるのだ。

それでも、生きるのはどうしてなのだろうか。

いのちのちからが、わが身や社会での居場所を支えてくれるからではないのか。

どこにそんな力があるのか。

生れた時に授かったものの多くの宝物の中にそれはある。

生きる力をどの赤ん坊も持っているのだ。

それはひとの機能というやつだ。

その仕様は、すこしの差はあってもヒト型というスペックでは、大きな差はない。

とくに生きるという基本スペックは、ほぼどの個体でも同じなのだ。

貧しさは、いつも、そのスペックによって、こころの豊かさを育むようにできているのだ。

こころの豊かさがなければ、裕福という言葉は生まれてこない。

貧富の差なんか、こころの豊かなことに比べれば、なんら問題ではない・・・。

社会にとって大事なもの・・・

繰り返す、社会にとって大事なものとはなにか。

それは、政府が納得しない専門家の答申ではないだろうか。

専門家とはなにか・・・。

政治の専門家とはなにか・・・。

そこの間で動く答申とはなにか。

社会や国民大衆のための政策や方針ではないのか。

ということは、専門家が自信をもって行う答申であろう。

政治家がそれをどうするかは、国民大衆や社会の目が見張っている。

そこでの反応は、選挙に反映していくのだ。

そして、専門家の意見や答申が、世の中を改善していくのではないのか。

社会にとって大事なものが、そこにはっきりと見えるのではないか・・・な。

自由度と柔軟性

発想が自由で柔軟なやつはうらやましいものだ。

だって、そんなことこの俺にはありえないからだ。

それでも、そこをそう思える自分は少しだけ誇らしいのだ。

なぜかというと、なにかよさそうなことを、うらやましいと想えるっていうことをどうおもうかって・・・いうようなことだろうか・・・な。

なんとも意味不明だが、それはこころの発想が自由で柔軟だってことになる。

なにも、他人をうらやむ必要もなさそうだ・・・な。

そんなトンマナやつがお前なんだって、だれかがつぶやいていそうだ。

イライラさせてしまった・・・

ロシアの大統領をイライラさせたのは誰だって、だれかが怒っているのかな。

黒海艦隊の旗艦モスクワが、だれかに撃沈されてしまった。

その地域の航空管制を敷いている中枢が、いともあっけなくやられてしまったのが、原因なのだという。

ケンカするなら、相手の力量をどうのこうのと値踏みしてからでないと、仕掛けてはいけないのではなかったのか。

けっこうやるじゃないか・・・じゃだめなのだ。

いりいらさせられるようでは、ケンカを自分から仕掛けるちからなんてない証拠ではないのか。

強硬路線だけのロシアなのか。

相手捕虜は、寒冷地で強制労働なのだろうか。

国際ルールは適当にあしらって私利私欲に走る。

戦勝国になって、戦利を分捕るのが、本来の戦争の目的ではないのか。

勝手に歴史を捻じ曲げて、国民のためにではなく、自国の一部の富裕層のために、ケンカを仕掛けているのだ。

国民は騙されてというか、国威発揚の掛け声に脅されているのではないか。

イライラしたら敗けだろう。ケンカとはそういうものだろう。

ケンカ相手が、すごい格闘上手だったら、もう敗北ではないか。

相手を見くびった時点でもうすでに勝敗は決していたのではないか。

いくら勝利したと宣言しても、イライラをどうのこうのと論評されるようでは、ひととしての器が疑問視される。

あさり産地偽装

これも食品偽装のひとつだ。

どうしても、品不足とかになるとどんな商品でも、あるところから仕入れることが必要になる。

そこに意地のようなもの、一時的な処置だという安易な考えが頭をもたげてくることがあるのだろう。

産地偽装になるの防ぐには、トレーサビリティをしっかりと実践することだ。

地球温暖化のせいで、産地がころころと変わりつつあるというニュースもある。

だが、それはそれとして、現実と事実に基づいて商売をしていくことでしか解決はできないのだ。

産地が変われば、それはそれを認める。

資源の移動はこれは、ひとのちからでは強制的に変化に抵抗はできないようだ。

温暖化には緩和策と適応策の二つが要求される。

だから、いいところもあるし、そうでないところもあるのだ。

メリットとデメリットをよくよく吟味して、地球温暖化などに対応していかなければならない。

まずは、そのためのシステムとしてトレーサビリティのしくみをしっかりと整えておこう。

そこにしっかりとその時々にアベイラブルなら商品を乗っけて流通させる、品質、価格、納期をちゃんと認識して、ずっとみんなにタンパク質食品を供給していくのが使命なのだと知るべしであろうか・・・。

対面授業はしゃべりが遅い・・・?

しっかりと話す。

それが基本である。

だが、オンライン授業でこの2年以上、録画受講ではいつも早送り、1.5倍速とか2倍速なんていう状態だったらしい。

みんなそうなのだろう。

やっぱり、早くできるものはそうしたいだろう。

面倒だもんな・・・。

それに慣れてしまうと、対面授業での先生の話がなんとのろまに感じるらしいのだ。

それは、生徒も先生も互いの理解度をどんなもんかと確かめながらなので、それでいいのだ。

ひとつのことをしっかりと頭に叩き込むには、ひとそれぞれなのだ。

のみこみが早いやつ、遅い奴、いろいろなのだ。

ぜんぜんついてこれない生徒が、あるひっかかりがほどけたら、すごい大発見なんていうこともある。

だから、それぞれが感じたことをどう自分のものとして活かしていくかなのではないか。

表面だけで、習得済みなんていうのは、本来おかしい。

どんなケースや局面でも、自分に合わせて装うことができるかどうかではないのか。

ヒグマとヒトの関係を考える・・・だけでいいのか?

ロシアとEUの関係を考える。

米国と日本の関係を考える。

北と南の関係を朝鮮半島を舞台に考える。

フィンランドとロシアの関係を考える。

トルコとロシアの関係を考える・・・。

・・・。

まだまだある・・・、考えるべき関係がいっぱいあって、複雑に絡み合っている。

さて、どうする。

物価高騰

油の値上がりは、すべてに影響する。

食料品の値上がりは、ほとんどのひとに影響する。

物価の高騰は、社会の隅々までその影響を浸透させていくものだ。

すべては、地球上の物流の停滞に関係している。

それは、戦争というひとびとの日常生活を奪う行為が原因である。

制裁は、なんらダメージはないとやせ我慢するらしい。

そんな直接戦とはなっていない国々にも大きな影響、不利益らしきものをまき散らしている。

被制裁の当事国は、関係ないと粋がっているようだが、やせ我慢でしかないのは事実であろう。

いたちごっこ、ねずみごっこという遊びは、将棋の千日手にもたとえられるが、チキンゲームでもある。

物価が高騰し、どっちがいつまでもつかという戦ではないのだ。

原因は、一つの国が、隣国を侵略して領土を奪取する作戦にでていることなのだ。

理不尽な話なのだから、そこに正論をだしてきても、なんら解決にはならない。

いたちごっこをいつまでも続けるようである。

次のつねりは、どうも核の脅威での脅しのようだ。

どっちがどうするのか、先制攻撃は反撃を受ける。

その繰り返しが延々とタマが尽きるまで続くのだ。

大地は、汚染し、ひとびとの暮らしのインフラは破壊されて社会システムは崩壊する。

ひとびとのこころは無惨にも砕かれて散ってしまう。

だれがなんのために、その荒廃した大地と地球を正常に戻していくのだろうか。

放射能の半減期なんて地球の寿命に比べればすぐに終わると言い切れるのだろうか。

己の利で私利私欲で動いているのが、すでに暴露されてしまったのだ・・・といつ気づいてくれるのか。

なんともおかしな現代の様相であろうか。

物価高騰に見る世情は、寂寥に包まれている。

UN chief meets putin.

やっと動けるようになってきたのだろうか。

まだ、長いテーブルに縦方向で相対してのミーティングだったようである。

外相とはどんなテーブルだったのか。

いつものままだろう・・・か。

なにか会ってやる的な感じしかしないのはなぜか。

国連を舞台に外交的に解決はできないのだろうか。

いまさら、そんなことを言っても遅いのか。

いや、そういう頭ではなかったのだろう。

国連自体が、ロシアの考える解決策にはないのだろう。

それでどうする、それでどうなるのか・・・。

なんら期待も残さずにトルコ大統領に事前にあって、いろいろと話はしたようだ。

で、ウクライナにいって、UN chief will meet zelensky, too. となるようだ。

まさか首をふってノーといって会見を拒否することはしなかった。

で、どうする・・・の。

世界の期待は即刻の無条件停戦であり、原状復帰だろうか・・・。

停戦だといいながら、タイムラグだと侵略範囲を拡大するなんていう作戦はもう通用しないんだけれども、どうなんだろうか。

はなはなだ疑問が尽きない会談ではある・・・。

ウクライナの次はどこか・・・

世界中で議論の中心となっているテーマだ。

これは脅威をどんどんと増やしている地帯が対象になるはずだ。

内戦もみじめではあるが、隣国や他国への侵略戦争となると、その残虐さが大きく変わるのが嘆かわしい限りである。

これは内政だ・・・、なんかこの頃よく聞く言葉である。

我が国古来の領土・・・、これもいずれの側から漏れてくる言葉だ。

不法占拠に対する説明としての我が国古来の領土という位置づけだ。

おれのもの・・・、いやこっちのもの・・・。

そんな結論の見えない論点はどうやって解決するのか。

力づくでやるしかない・・・。ほんとうだろうかな(?)。

それしかないのだろうか。

領土は富である・・・という考えが発端にもしなければ、みんなはどう考えるか。

土地は、そこに棲む人たちのものなのだ・・・。

国家とか地域とかの制約はインフラの整備でかなり暮らし易さでは変化するものだ。

そのために税金を納めて公共政策に反映してその恩恵を受けるというのが基本的な仕組みである。

どんどんと大きな勢力へと集まる傾向は、しかし、すぐに逆行へと移っていくはずだ。

反力が作用する。大きな勢力では不均衡が生じる結果、内部から崩壊する。

多数の国家が集まる組織では、その統制が難しい。

そこで多数決の少数意見の尊重は最終的には通らないのだ。

やはり、どこでも、力のあるものが押し通すことになってしまう。

小数意見は常に力不足だから、マイノリティの範疇から脱することができない。

劣悪な情勢から同様な問題を抱える大国は、どんな反応を見せていくのか、そんな状況下にある地域や国家は戦々恐々の状態に追い込まれている。

地球温暖化への対応強化なんていう重要政策は、どっかへ置き去りにされてしまいそうである。

ロシアの弱みはどこにあるのか・・・

これは愚問だ。

明らかに、公平で公正な選挙制度の履行が妨げられているのが原因だと、だれの目にも映る。

フランスの大統領選挙で見えたものが、ロシアにはない。

大統領がだれかの意思で変わり、制度があれば、それをすぐに改悪してしまうのだ。

ほかの同じような独裁的国家にも同じ傾向が色濃く見えるのは、なぜだろうか。

その先にある他国や他民族への侵略と小国への軋轢の加速が分かるのだ。

初めはおだて気味に近づき、少し遠のいてから、再度接近する。

そんなには怖くないよとお世辞をいって、その国家経済の中枢にくぎを刺していく戦法のようだ。

数年経過すると、債務に苦しむ小国の姿が現れる。

それはあなた方の力不足のせいです、もっと支援が欲しければ・・・と窮状に追い打ちをかける。

最終的な取引ではなく、懐柔の手口なのだとようやく気付いても、後の祭りだよと突き放すことになる。

他国の侵略の拠点として反撃されるのは、その拠点となる小国そのものなのだ。

攻撃によって崩壊するインフラは、その小国のリスクで回復なんてできないので属領となり果てる。

情報戦だという、今の戦争はすべてがICTで成り立つのだ。

だから、一つのシナリオがあれば、数万のシミュレーションがあっという間に出現する。

その中に今回隣国ウクライナに侵略したロシアのものがいっぱいある。

ロシア勝利、短期の戦勝なんていうものから、ロシア敗戦、ロシア解体、CSTOの非協力なんていうものが目立つ部類に入る。

そして、最後の方に、仕掛け人のプーチン氏の頭にはこれっぽっちもなかったはずの、NATO参加というシナリオがあるのだ。

元東欧諸国の一つとしてのロシアが中国の脅威を感じてNATOに参加するという内容だ。

もちろんシミュレーションの一つだから、可能性はどのぐらいかはおおよその察しが付くであろう。

ぬかるみに片足を突っ込んでいる風刺画がでてくるのは、あとどのぐらいか。

弱みと言えば、みんなだれもがひとであることだろう。

どんなに忌み嫌われるひとでも、寿命はある。国や地域によって、そのヒトの暮らし方によって多少の差異はあるものの、ほぼ平均的な水準で収まるものだ。

ロシアのひとの平均寿命は男性では60歳台後半のようである。

野球小僧

ほんのごくごく一部の少年が野球小僧になれるだけなのだ。

ほとんどは、才能なしで途中で夢を夢と悟る。

だから、ほんとの野球小僧でプロになって活躍する選手を見る目はまったく違うはずだ。

だいたいプロになれるという才能がうらやましい。

そして、そこで活躍する、プレーを続けていけることが素晴らしい。

暮らしを成り立たせていることが羨ましい。

もうそれで十分なのだ、もしも仮に才能なしの自分がプロになれているとしたらの話である・・・が、・・・。

数十年ぶりの大記録を打ち立てたならばどうなる・・・のか、そりゃ当然のこと、めったにないことだ。

野球小僧は、そんなことにはお構いなしだ、だって才能はずっとあったのだから、自分で特別意識するようなものではないのだ。

当たり前のことなのだ。日常茶飯事の延長上なのだ。

そんな野球小僧が日本には大勢いる。日本のプロ野球やプロスポーツを支える土台になっているのだ・・・。

痛ましい事故はなぜ起きる?

あんな天候でよくお客さんを乗せて出港できるもんだ・・・。

そんな声が多く聞こえてきた。

ニュース番組での取材中の声だ。

巷によくあることだ。

なぜなのだろうか、なぜよくあるのか。

それはひとの性ではないのか。

おごりと過信が招くリスクは数多くある。

今もあり、これまでもあり、これからもあるのだ。

みんなプロとしての誇りをもってはいる。

だが、ひとのいのちを預かるケースでは、そこに幾重もの安全策を持っていないと防ぎきれないのだ。

大丈夫・・・とは言っても、油断もある、もともと何らかの知識が不足していることもある。

それらは、みずからプロとしての意識を持つ過程でぼんやりと見えているものであり、ある時に何かを悟るようなものなのだ。

そこに意識がなければそういうプロとしての本当のものは身に付かない。

驕りは初心者ほど出やすいものだ。

周りから不安視されるから、そこにちゃんと答えようとする意識が芽生えてくる。

技術の進歩はそういうちいさなところから蓄積されるのではないか。

いつも教訓を胸に仕事に励んでいる多くのプロたちの様々なことへの提言を求める・・・。

ドイツ・イタリア・日本

三国同盟なんて遠い国同士がよく結べたものだ。

それだけワルだったってことなのか。

いまさら、その三つの国の仲間ではないと言っても、だれも肯定しないだろう。

史実なのだ。

そこにどんな理屈を述べようと意味はないのだ。

WWIIに参戦した背景は、ずっと勝利を続けてきたという国家の体制にあったのだ。

歯止めない軍部の武力による領土拡大路線は、とどまるところをしらなかったのだ。

それがどうなった。敗戦で国民皆殺しと言われていたのが、貧しさはのがっれられなかったものの、いのちは助かったのだ。

戦後生まれがほとんどの時代になり、その母親たちはこどもらにこれからはどんな仕事も自分で選んでいいのだよと教えた。

民主主義とはどんなものか、昔の風習との比較で丁寧に教えた。

選挙権のことも、昔は女性には与えられなかったと・・・教えた。

世界がどんな方向へと向かっていたのか、それは最終兵器の開発とともに為政者の権力欲が膨らんでいたのだ。

そこに科学の進歩が急激に早まり、軍事力への参加が進められたのだ。

原子力、化学兵器などの開発が莫大な予算をつぎこんで競われていたのだ。

メリットは戦争での勝利ということだったのだ。

領土の拡大路線が止まらない・・・状態だったのであろうか。

今、この考え方はもう古いものとなり、隣国を侵略するなんていう政策は、どの国でも国会で議論はしても、賛成多数なんてありえない・・・。

でも、ありえたのだ。まったく信じられない事態だ。

だれがそんなことをなぜ考えて実行までしてしまったのか。

途中で気づいてなぜ辞めなかったのか。

戦争にはなにか悪魔がついているのかもしれない・・・。

三国の名前が出てしまうのは、史実であり、だれも否定はしない。

だが、今、当時の考えが通用するなんてだれも信じはしない。

健康のため吸い過ぎに注意しましょう

なんのためにそうすべきなのか。

そこが問題なのだ。

我が国民の幸せのために、侵略戦争への過度な関わりや支援には、十分に注意しましょう・・・。

ウクライナ国民のために、適切な支援に心がけましょう。

ロシア国民のために、狂気のリーダーの引退について支援しましょう。

で、なにをしたらいいのかが、よくわからない。

ジレンマに陥るひとが大勢いる。

戦争とは、なんともむごくて憎たらしい仕打ちではないか。

本当になんのためにだれが、幸せに暮らしている他国の人々から、日々の暮らしを奪っていいのか。

地球温暖化でその健康のためには、CO2排出を少しでも減らさなければいけないのに、争いに戦車や爆弾や銃弾その他、酸素の消費を増やすような行動をどんどん増やしてしまっているではないか。

注意しなければいけない時に、理由もなく、隣国を攻撃するなんていうのは、SDGsに反する一番醜い行動ではないか。

もっと大きな視野で、地球規模の視点で、私たちは日頃の行いを正して、政治に反映させていかなくてはならない。

奴隷制度はなくならない・・・

大家族制度も同じかもしれない。

大勢で能力の劣るものを庇護するのだ。

それは家族だから、可能なのだとは分かっている。

しかし、地域の問題でもある。

身よりがないケースではどうなるか。

それは、周りで庇護する。

ちからがないものは、そこにすがって生きることになる。

それが、現代にある奴隷制度ともいうべき実態なのだという。

そんな不自由なことを誰が望むのかというなけれ・・・なのだ。

現実って厳しい。自立するこころがなければ、自由なんて厄介なものでしかなくなる。

それならば、自分を捨て去って、他者の言いなりになって生きることで十分なのかもしれない。

でも、ひとかけらでも自由独立独歩の精神があるのならば、それは苦痛以外の何物でもなくなる。

そこになんらかの境目があると、私は考えている。

この辺を、ひととしてどう整理していけばいいのかがよくまだわからないのだ。

 

不法占拠

そうだったのだ。

北方領土は、ロシアが不法に占拠したのだ。

終戦間際のどさくさにまぎれて、分捕られてしまったということなのだ。

その事実をウクライナの侵略によって、どんどんと明らかにされている。

だから、東方艦隊が威容を示そうとしているのだろうか。

たしかに日本では兵隊が拿捕されて強制収容、強制労働を強いられたのだ。

よくぞ生還できたものだと、感心するような極寒の中での何年間があったようだ。

もちろん多くの兵士が死んでいる、捕虜としての労働がいかに過酷だったかが、いくつかの資料に残されている。

だから、今でも戦争を知らない世代がほとんどなのに、ロシアに捕まるなんていうのは、身が凍えるような悪寒に襲われる気がするのだろうか。

どうも、もっとその範囲は広がりを求めていたらしい・・・。

今、考えると怖ろしい。いや、これから起きることなのだと言っておかないといけないのだろう。

いろいろなリスクがある。

領土を虎視眈々と狙う野望は、どうもどこにもあるようだ。

不法占拠を如何にして今後の外交政策として裁いていくのか、慎重にその戦略と戦術を練り直す必要がある。

これは変わっていない。

 

逮捕が誤認

このケースでは、本人に自覚はない。

だが、お前が犯人なんだぞって言われて逮捕される。

収監されてしまう。

どこが悪かったのか・・・、とわが身を振り返るも何もない。

誤認だ。

そう確信しても、どんどんと事態は悪い方向へと進む。

監獄なんて想像するのも嫌だ。

だから、みんな普段からそういう誤認逮捕なんていたらぬように、誤解されない行動をとるのだ。

でも、意に反して逮捕されたら、情状酌量の目処があるから、認めろとか言われたら、どうするのだ。

如何に誤認逮捕と言えど、お前が間違われたのだから、一端の責任はある・・・とか言われるだろう。

もう周囲も半信半疑になってしまう。

絶対に信じてくれると思ったひとが、横目になっている。

もう、おしまいだと・・・なるだろう。

もう、どうでもいいやって・・・なるだろう。

そこで終わりでいいって思うだろう。

そんなことは、心理学的に容易に理解できるシミュレーションである。

そして、現実にもしもなると、それは普通の心理を破壊する原因にもなるのだ。

まさに、戦争に向かう若者の心理に似ている。

どうしようもない。

殺さないと殺される。

おれは一般人だと胸をはっていたら、銃撃されて死亡したなんて記事にもならない。

一端、そんな目に合ったら、ほんとうにむごい残酷な世界が目の前で展開されるだけのようだ。

そんなことが、警察レベルでの話では、そうだが、これが、軍隊レベルだとどうなる。

正義も悪もなくなる。

そこにいることが敵味方になる。

誤認なんてなくなる。

逮捕もされないが、すぐに死亡することになる。

大型爆弾の破裂でいのちをなくす。

ガレキの下敷きになって死亡する。

生き埋めになって死亡する。

だれも助けにすら来れないのだ。

こう見てくると、誤認逮捕ならば、やはり正当に裁判で戦う余地が十分にあることは分かる。

心理的な負担さえ、しっかりと担保できる心構えが備わっていれば、なんでもできる。

堂々としていればいいだけのことだ。

逃げ出す必要もない。

その国家の裁判事情を非難する必要もないのだ。

堂々としていられるかどうかが無罪の分かれ目だなんていうと、またややこしくなる。

無罪で罰せられるというシミュレーションは、もうしたくない・・・。

屑鉄

強固で堅固な戦車はどんなものか。

馬戦車は、車輪軸にキリのような破壊装置をつけていたらしい。

指揮官の乗る馬車は、装甲車両だ。

鋼鉄で補強している。

馬車を引く馬も鎧をまとっている。

武器を持たない庶民は、それらを恐れている。

装甲戦車は動力を機械化したものだ。

キャタピラをつけてタイヤをなくしさらに足回りを頑強にした。

だが、屑鉄だ。

戦車部隊が相対する戦闘なんて今はありえない。

ミサイルで遠くから破壊できるのだ。

でも、最後は足軽たちが相まみえたのは、今でも歩兵隊に呼び方が変わっても、中身は変わらない。

それは、庶民が同じだからだ。

核ミサイルを持つ核保有国どうのこうのというが、どうなのだろうか。

空手やボクシングの有段者やプロは、その拳は武器扱いされている。

危険なものを持っているのだ。だから、その志で空手家と尊敬され、プロボクサーも自尊心をもって世間に対応している。

スポーツ家とでもいう存在だ。他のスポーツと同じようにフェアプレー精神を基本にしている。

そこにみんなが誇りを感じるのだ。

核ミサイルはどうか。

脅しに使うのは常とう手段だ。しかし、撃てば撃たれるという相打ちのしくみができている。

破滅への第一歩と言われている。

皮膚がただれて路上に生きて死んでゆく映像は、すさまじく、みんな最後のちからを振り絞って川へと向かっていた・・・。

たどり着けないで、死に絶えるシーンは映画で再現されている。

もちろん、実際には分からないが惨状と言えば、そのシーンが浮かぶ。絵本にもなっている。

しかし、兵器はその形は変わっても、ひとのいのちを奪うという本質は同じだ。

破壊する。すべてを一瞬で消滅させる。究極の兵器開発が世界の目標かの如くなっていたのは、WWIIの最後のころのようだ。

そこに日本という国が連合国の敵として殲滅の対象になっていた。

最終兵器の開発には科学者が動員され、多くの実験が世界の強豪国で行われたのだ。

放射能の漏れなどの事故は公に報じられてはいないものの、今でもその影響が残っている。

兵器とともに平和利用の原子力発電も、事故が続くとその影響はシビアなものだと分かってきている。

コントロールできないものを、開発途中で利用しようという発想が何か虚しいと感じる。

もっと、ちゃんと制御できるシステムを確立してからでは遅かったのか、なぜ待てなかったのかと悔やまれる。

原子力船という発想は、軍用と民用の両方で進められはしたが、軍事力以外では採算が合わずに安全性の面から、計画は進んでいない。

そんな背景は、様々とあるのだ。

いかなる最終兵器を開発したとしても、最後は屑鉄になる。

最強戦車群も、屑鉄になる。

この地球の民は社会の主人公として、どう屑鉄をなくしていくのか、しっかりと見守る必要がある。

ヒトの無知も、いずれはスクラップにしないといけないようだ・・・。

This may be our last address!!

これが最後の地になる。

そんな悲鳴がニュースで流れる。

これで戦は終わりにはできないのだろうか。

均衡の破れた戦いは無惨だ。

悲惨だ。

普段の何気ない暮らしが日々、あった時空がいつの間にか荒廃した惨状を映しているのだ。

震災や津波の痕跡と、どこが違うのか。

悲惨さは、どっちもやりきれないものだ。

だが、なぜひとがひとを殺すのか・・・。

ここが私たちのこころに大きな解けない疑問を投げかけてくるのだ。

容赦しないその疑問の嵐は、こどもたちの胸の中にももちろん生まれる。

大人として、どう答えるのだろうか。

黙ってうつむくしかない。

多くのことを学んだはずなのに、一番大切なひととしての信頼をどうかちとるかについては無知でしかない。

為政者のいいなりで、そうなってしまった・・・としか、いつもいつも同じで言えない。

そんな世の中のことについて、今、そこにいる戦士たちは、最後の地だと・・・、覚悟を決めている。

どう反応すべきか、彼らが敵ならば、壊滅させ、殲滅させる・・・となる。

味方ならば、少しの望みを託して幸運を祈るしかない・・・となる。

だれか、この惨状を止める手段とか方法を知っているのならば、やはりそうすべきではないか。

そのひととは、いったいだれなのか、この地球上にほんとうにいるのかも不明だ。

すでに正気を失っている可能性はどうなのか。

その当人がジスイズユアラストプラネットとでも叫んでいるのかもしれない。

だが、そのユアには、みんなが入っているから、アワーラストプレースではないのか。

正気に、早く戻って・・・くれ、もしも人間であるのならば・・・。

リスキリング

えっ、これってなんだ。

そう最初は思う。

リスキルとはスキルの再生ってことのようだ。

包丁を研ぐってことか。

それもきれなくなった刃を磨くってことのようだ。

だが、錆びていることを知らずにずっと過ごしてしまったわが身には、関係ないとの誤解が多いのだ。

高齢者が頑固になる。

まだまだ歳はとってないというのだ。

決して若くはないのは、はっきりとわかってはいるのだ。

だが、朽ちてはいない、すぐには死なないとでも思っているはずだ。

すでにリスキルの対象から外れているのに気づかないこともある。

そんなときには、すんなりとオプトアウトしよう・・・。

貧しさとは何か

裕福ってどういうことか。

それが分かれば、貧しさの意味が見えてくる。

そこには富の有無、多少が関係している。

で、貧しさってなんだ。

暮らしの根源は、価値の創出にある。

働くことで代価を得る。それで暮らしに必要なものを手にすることができる。

アリとキリギリスの寓話にあるように、貧しさは常にそこに行き着く。

貧しい家庭の子らは、早く自分で稼ぎたいと願う。

いくら家が貧しくても、自分の力でお金を手にするようになれば、親孝行ができることを知っている。

はやく、少しでも早く働いて、そうしたい。

そう考えると、貧しさの本質が見えてくる気がする。

満たされることは、いずれにしても、そこにないし、この世にはない。

それもまた、こころの貧しさ故の話になる。

どうすれば、いいのか。

清貧という言葉が、答えをくれる・・・。

その貧しさが教えてくれるものは、すごく大きな支えになる。

極地の温暖化

どこが一番影響を受けるのか。

地球は丸いので、反対側がその影響を受けるらしい。

大洋の中央部に位置する諸島嶼国が被害を受けている。

すでの数十年前から、変化があった。

だが、世界中が見てみぬふりをしていたのだ。

氷河が溶けて地面がでてくるのは、寒冷地にとっては好ましいかもしれない。

もちろん利害得失は数えきれないものがある。

伝統文化や社会の中の自然環境の変化は、耐えがたいものだろう。

一方、小島嶼は海面上昇で生活の基盤を失うことになっている。

数メートル上昇でほぼ暮らしは不可能になる。解決策は唯一、移住である。

もしくは水上生活とか、フローティングポンツーン上での村落づくりであろうか。

とはいっても、海況に耐える構造物を永年維持するのは難しい。

水中生活なんていうのも、一時、海洋開発のイメージにはあったが、それは遠く離れた小島嶼での話ではない。

娯楽施設としての大都市は、大陸、大地に隣接した場所での話なのだ。

緩和策と適応策の両面から、様々なアイデアを出して対応していかなくてはならない。

極地の温暖化とは、地球全体の温暖化なのだと、知るべしであろうか。

理由なく戦う

わけもなく、ただ戦う。

そんなことが出来るのは、本能だけだ。

そのために生まれてきたのだというのならば、そうせざるをえない。

だが、ひとは言葉を持った。

そのわけを説明できるようになったのだ。

ただ戦うという選択肢に駆け引きというコミュニケーションが生まれたのだ。

もちろん、脅しの手段にもなる。

ごまかしやだましの手口にもなっているのは、承知の通りだろう。

ところで、こういう理由であなたの領土をもらいたいのです・・・と申し出があったらどうしますか。

拒否します。

そこは私たちの先祖が代々所有してきた土地ですので、その申し出はお断りします・・・と応じるだろう。

いや、そこをなんとかしてくれませんか・・・と再度、お願いされてしまう。

そこはお断りしたはずです。何度言えば済むんですか。

少々、穏やかではない雰囲気になる。

なぜ、欲しいのかも含めて、領土の件は一歩たりとも譲りはしません・・・と強い口調で応じる。

この方針は変わらないはずだ。

だが、相手はこう言ってきたのだ。そこは、昔私たちの祖先のものだったのですかあ、返してください・・・と、である。

そうですか。それならば、ちゃんと証明できる資料と第三者機関の証明もありますか。

そこは、様々な議論があって、明確には決まっていません。

それでは話には乗れません。

では、戦で決めましょうか。勝った方がとるということでいかがでしょうか。

こうやって理由なく戦う事態は、ひとが言葉を持ったためになくなった・・・と、そうは言えないのだ。

いくらコミュニケーションの能力が備わっているとしても、そこにそれを友好に使う知恵がなければ、意味はない。

国際的なルールがあっても、そこに参加しないとか、遵守しないとか、そんな無法地帯では、意味がないのだ。

ましてや、国連というWWIIの教訓と反省の下での組織の中枢にある国が、その先鋒を担いでは瑕疵していく様は、なんとも人間って粗雑で相手の心理を逆手にとっていじわるで残酷な生き物なのかと、思わざるを得ない。

希望は、どこかへと消えていく感じがする・・・。なんと寒い世界だろうか。

ひとは本当に変わるのか・・・

時間が経てば、ひとは変わるという。

そこには例外はないのか。

そして、それがほとんどのケースだというのか。

いつまでも変化のない状況はどうみたらいいのか。

つい、自由主義とか放任主義とかいってごまかす。

私もそうだ。

だが、自立するのは、本人の気持ち次第なのだ。

やっぱり、独自の考えがないと、続きはしない。

だから、持続性が自立の基盤、基礎ではないのか。

見た目や過去の印象にとらわれないこと

どうも、以前、いやな経験をしたひとに顔が似ているとか、このひとやばいよなとか、そんな印象を一度持ってしまうとなかなかその殻を打ち破れないものだ。

それで、そういうことは、そろばんと同じように御和算で願いましてはと、やらないとダメなのだ。

とくに個人情報や著作権の強化が4月から正式に履行されることになった。

だから、そういう過去の印象にとらわれるというのも、帳消しにして新規に取り掛かる姿勢が大事になる。

基本、原則かな・・、そういう情報は手元にないことになっているのだから、そうすべきなのだ。

法的にもそうなったのだ。

オプトアウト規制の強化というやつのようだ。

オプトインというのが、よくネットで情報をメールしますがいいですかというものだ。

情報は相手の了解もしくは依頼があって送ることができるものになったのだ。

そこを理解して実際の行動にて示す必要がある。

とくに仕事での依頼には、相手先や、その顧客など、立場をしっかりと認識して行う。

基本的なことなのだが、つい、ルーズになりがちなので注意していくことにする。

エドテック

人工知能(AI)による教育が進んでいる。

だが、学校はどうか。

ほとんど学習のプロセスは変わらない。

みんな覚えることを反復し体験して会得するからだ。

たしかにいろいろな手段や方法が考案されている。

効率的で効果的な勉強方法なんていうのもある。

しかし、やっぱり寺子屋にいけない貧しいこどもや、小さくして寺の小坊主になったものらが、知識を得たいと必死に耳を傾けた状況はなぜか羨ましい限りだ。

なぜか。

そこに自立心とか独立独歩の姿が垣間見えるからだ。

寺の坊主習わぬお経を唱える・・・、なんていうシーンのことが頭に浮かんでくる。

いくらノウハウが整い、優秀なスタッフがいても、そこに学ぶという気概がなければ、成果は得られない。

戦後日本の英語教育のように、身に付かないスキームでの学習もまた、戦略的なものだと分かる。

つまり与えたくない能力を監視しコントロールする。

これからの社会は、どんどんとそんな方向に進むのではないか。

でも、大切なのは決してAIのテクニックではないのだ。

ひとが学ぶ力から得ることのできる創造する能力を獲得することなのだ・・・と、私は考えている。

アラゴナイト飽和度が示す近未来の姿

地球温暖化の影響は、すでに数十年前から言われている。

その一つ一つが現実になって目の前に現れてきている。

いまさら驚かないとも言えない。

そんなのはずっと先のことだ、一つの命はせいぜい50年、100年だから、どうってことはない。

そう高をくくっていた。みんな同じだろう。

ほとんどのひとは気候変動の専門家ではない。

ごくごく一部の科学者が真剣に警告しているのに、ほとんどは無関心である。

だが、カルシウムが形成するカキの殻が異常を発しているらしい。

アラゴナイト飽和度という指標が危険値を示し始めているというのだ。

マガキの幼生の殻がおかしい・・・らしい。

それは、ほかの多くの影響を代表して危険を知らせているはずなのだ。

食物連鎖は、ひとつの変化や異常がつぎつぎに影響を与えあうことを示す言葉だ。

骨の異常・・・へとつながるのか。

カルシウムに関わりのある異常は拡大するということであろうか。

それは、つまりCO2の排出抑制を緊急に訴えていることなのだ。

再生エネルギーの拡大しかない・・・。

しかし、現実はそんな重大なことをどけて、ドンパチと殺し合いの戦をしている。

大地に爆薬をばらまき、地雷を埋めて荒廃を導き出そうと躍起になっているのだ。

なにかおかしい。

地球温暖化の影響で、世界のリーダーたちの中に異常が晶出し始めているのかもしれない。

当たり前の考え方や、普通の世界のあり方が、まどろこしく見えるのだろうか。

それとも、荒廃した地球上の景色が一番美しいとでも思っての破壊行動や侵略行動なのだろうか。

軍事力の核兵器はその破壊行動を加速させるし、最悪な影響を永年にわたって持続させてしまう脅威をもっている。

大気汚染を引き起こし、太陽からのエネルギーを遮断し、地上を暗黒の無味乾燥な世界へと変えてしまう。

そんな近未来をかの侵略戦争を始めた大国のリーダーは、天上天下唯我独尊で残り少ないひとりの地球上の住人としての命を終えようというのだろうか。死後のことは我関せずってことでの行動だろうか・・・。とても悲しい。

日々、なにかを想う

想いとは、考えることだろう。

昔、人類の進化の中で動物の肉を食べることによって栄養が増した。

結果として、脳を初めとする神経系統が発達し、さらに進化した。

ひとはサルの仲間の類人猿ではなく、ヒトとして進化したのだ。

私たちは、考える力を獲得したのだ。

今、こうやってなにかを想うことができるのは、そういう過去の大昔からのいきさつのおかげだと言える。

もちろん、いいことばかりではない。

究極の疑問は解けない。私は何かという問いに対しての答えはない。

自死という行為が増えているというか、そういう行動を選択するのはヒトだからではないか。

グレルのも一つの結果であろう。

他者への思いやりもその一つである。

様々なメリットを得た代わりにそのデメリットも一緒についてくる。

日々、いろいろなことを考えられるのは、決して悪いことではない。

でも、何か疲れはしないか。

そこにはいつも競争という闘いがあるのだ。

あいつには負けない、負けたくない、つまり勝ちたい・・・となる。

やはり争いの根源もこの想いの中にあるのだ。

そこだけ切り離すというわけにはいかないものだろうか。

バランス、ひととしての総合的な生き方とか、尊厳とかに関わる部分なのだろうか。

それとも、ヒトから類人猿に回帰して、想いから逃れるという選択もあるのか、いや、もうそれはないだろう。

なぜならば、だれも選びはしないからだ。心苦しさを味わうのは、ある種贅沢な体験なのだ・・・。

雨の降られて・・・

濡れるほどではない。

久しぶりに歩いた、雨の中を歩いた。

途中で降りだしたのだが、今日は濡れてもいいと決めて進み続けた。

そう決めてしまえば、それはそれで足を動かすだけなので、特になんともない。

迷うこともある・・・。

どうしようか・・・となる。

もちろん天候は注意しないといけない。

雷とか急激な雷雨は危ないからだ。

下手すると、そこで一貫の終わりとなるかもしれない。

もっとも、だれでも交通事故やその他の危険に遭遇する確率は常にある。

だが、それでしおれていては生きていけない。

だから、危険は常にあるという前提で生きているのだ。

みんなそうだ。

心配性のあのひとも、無神経なあっちのひとも、みんな同じなのだ。

今日も生き延びたとは言わぬまでも、本当はそうなのだ。

どっかで一日生きてこれたことに感謝している気持ちは私にはある気がする。

雨に降られて歩きながら、そんなことを想ったのだ・・・。

東アジアの不安定さ・危うさ

一番、危険な存在というと少し誤解があるかもしれない。

危機的な国はどこか。

韓国ではないか。

北の脅威がある。

ロシアの脅威は北の後ろ盾としてある。

中国の脅威もかなりのものだろう。

もしもほんの少しでも隙を見せれば、攻められて滅ぼされる危険が顕在化しているのだ。

そういう日本も同じかもしれない。

なぜならば、海を隔てているものの、米国との自由主義国家のつながりで結ばれているからだ。

知らぬ存ぜぬはないだろう・・・。

かなりの危うさだ。

包括的な軍事力で、海、陸、空、宇宙と中国が優位を保持しようとしている。

それらが、次世代の戦争というものを考案しているのならば、なにか虚しい気がする。

現実は、核の脅しでは済まないからだ。

北の戦略は既に破たんをきたしているのではないか。

ロシアのウクライナ侵攻は、この東アジアでの危機を網羅して整理し始めることになるだろう。

たしかに危ういから、どうすべきかを慎重に大胆に検討していかなければならない。

台湾の前に、韓国が地続きだから、一番危険だとだれにも分かる。

そして、台湾であり、次は日本か。

ロシアが北海道から攻めるのだろうし、日本海側からは北が来るのだろうか。

そして、沖縄方面からは、中国だろうか。

その時、韓国はどうなっているか、いわゆる共産圏に取り込まれていれば、朝鮮半島から九州へと攻撃してくるだろう。

で、どうなるか。

どうにもならない。

そんな戦を始めた時点で負けだ。これは勝ったとしてもまけなのだという意味である。

隙を見せてはダメだ。常に相手との駆け引きに注意してバランスをとろう。

そして、もっと普遍的なかかわりを探るべきなのだ。

いわゆるウインウインの関係でなければ、持たない。

そんな解決策はあるのかどうか・・・。

探してみないと分からない。難しいということが分かれば、そこに道が開けるはずだ・・・。

信じられる存在か・・・

信用って大事だという。

商売をするには、先ずは顧客の信頼を得ることだとみんな知っている。

だが、信じられないのだ。

で、どうする。

そんな相手にはちゃんとした対応なんてできっこない。

だが、その態度が、気に入らないといって、いちゃもんをつけてドッツいてくるのだ。

土足で家の中に踏み込んできたのは、少し前の話だった。

そのまま居座っている。

時間が経てば、現状維持で押し付けるつもりだ。

いや、そこでは止まらない。

どんどんと座敷まで入ってきたのだ。

全部よこせと脅す。

なんでだって問いただすと、気に入らないんだよ、お前の態度がって言いやがるんだな。

そんな馬鹿なことありえない・・・と思っても、暴力は禁止されているので、手出しをしないことにしている。

歯止めはかからない。

警察に訴えても、逆に頭にきたと無礼放題だ。

これは犯罪だと主張しても、そんなのは無法地帯では関係ないという。だれが決めたのか。そいつは勝手に決めたのだという。

で、なにも信じられない社会にいつの間にかなってしまっていた・・・。

夢じゃないのか・・・?

疑ってほっぺをつねっても、痛いので現実だと再認識する。

ほんとかよ。そう叫んでも、もうなんともならない。

そんな現実をどうやってもとに戻していけばいいのか・・・。

信じられるものたち、そういう仲間を普段から探して、事変に備えることが不可欠のようだ。

そういう変な迷路に張り込まない様に、しっかりと情報網を構築し、透明で公正公平な手段を常に身近に備えることが大切のようだ。

ひとをみたら泥棒と思えというのは、まんざら外れでもないようだ。

国連安保理の常任理事国にも泥棒が入り込んでいるのだ・・・ってだれが信じられようか、いまさらながら愕然とする。

日露戦争とウクライナ侵略

日ロが戦ったのだ。

日本海での海戦があったのだ。

忘れていた。

どっちが侵略したのだっただろうか。

もちろん強いと評判の方だろう。

それで結果は日本軍が勝利したことになっている。

この辺の国民への説明はもちろんなかった。

軍国主義なのだ。

一方的に伝えたのは、その後のWWIIと同じだ。

戦争とは大きな資金力がないと続かない。

だから、そこに戦争の経済学が成り立つのだろう。

つまり、国土を占領することは富を獲得することになる。

昔から、領土は経済的な支えとなっていたのだ。

だから、領民は働くことで良民となっていた、もちろん支配者に対してだが・・・。

多数の貧乏人は、搾り取る対象としては好ましい存在なのだ。

封建主義では、生かさず殺さずというのが最良の政策だったらしい。

領主が下手に良民に優しいのは、論外だったようだ。

そんな風潮が、上下関係を国家間でも構築するようになると、差別意識が頭をもたげて闊歩しだすのはどこでも同じようだ。

物理的なぶつかり合いで対抗できないならば、防衛はできないだろう。

これが現実だ。

今回のロシアのウクライナ侵攻は、やはりおかしい。

支配下に置く、他国を侵略して属国にしてしまう。

しかし、独立する力を持った他国民をそうやって縛ることは極めて難しいことだ。

アフリカから奴隷として多くの人々を欧米は連れ出した。

商品としてひとを売り買いしたのだ。

そんなことは今はあり得ない。

他国を支配してそこの人たちをどう支配しようとするのか・・・。

もしも、日露戦争で日本がロシアに敗れていたら、どうなっていたのだろうか。

奴隷として世界中に売り渡されてしまっていたのではないか・・・とも危惧される。

これは、今のウクライナの状況をみていると、決して古代中世の話でもないような気がする。

背筋が寒くなる・・・。ゾーっとしてしまう。

韓国も、台湾も、フィリピンも、ウクライナも・・・、みんなどうすりゃいいんだ。

そんな国際社会にだれがしたのだ。

国連は、無力だというが、常任理事国のりっぱな国々が自ら範を示さないでどうするのだろうか。

無法地帯では地球軍は何をするのだろうか。

国連という地球軍は、みずからが弱小国をいじめて混乱の底に貶めるための組織なのだろうか。

何が正しくて、何が不正なのか、まったく分からない・・・。

戦争の教訓ってなんだっけかな?

幾度となく闘い、勝っては喜び、今だ敗け知らずと自負する。

そして、次の闘いへと駒を進める。

スポーツイベントではないのだが、なんとなく人々の想いは我が国思想である。

そして、ひどい惨状を目にして、降伏する。

それまでは、敗戦は全ての国民が殺戮されたり、奴隷にされるというのが常識だった。

だが、捕虜の国際的な取極めがあり、いのちはとられないということも時折は伝わっていたのだ。

もうだめだという国民の意思が、だめもとでの復旧・復興に向かったのが、幸いし、なんと奇跡的な回復を示してきたのが日本だろうか。

しかし、平和ボケは、多くの国民を意志の弱い人間にしたり、あまり興味や関心を国際的な問題に持たないという風潮が出始めている気がする。

大衆に活気がなくなっている。

これでは、いつの間にか国家という意識が消滅していく気がする。

戦争の教訓ってなんだったのか。

二度と悲惨な戦争は繰り返さないという意思表示は、もうその根拠を失ってしまったのだろうか。

ロシア黒海海軍の旗艦「モスクワ」沈没

戦艦大和を想起させるニュースだ。

まさか、まさかの反撃だ。

そんなものではなさそうだ。

旧ソ連のほぼ中枢としての位置づけにあったのがウクライナのようだと分かる。

クリミアもソ連がウクライナを同胞の信用できる仲間として期待していた証拠のようだ。

だから、核放棄をさせたのだ。

核や兵器開発の中枢機関もどうもウクライナにあったのではないのか(ここは詳しくしらないが・・・)。

無力化させたウクライナが、民主化の波にのってソ連よりも順調に自由主義圏へと移行している現実に焦りを感じたのだろうか。

国連の常任委理事国であるロシアがなぜそんなことを感じ焦る必要があるのだろうかと、敗戦国の民であるものの一人として思うのだが・・・。

戦勝国の仲間入りをしたのは、かなり戦も末期ではなかったのか。

混乱に乗じて・・・、北方領土を接収したが、もっと北海道そのものとか、東北地方の北半分ぐらいは・・・とかなんとか内心では思っていたのかもしれない。

恐ろしいことだ。

太平洋側、つまり日本海付近でのロシア海軍の動きが激しい。

北朝鮮もその動きに合わせてミサイル実験を活発化させている。

ここに中国が動いてくると、それはもう緊急事態への備えが必要になるだろう。

そうなると、もはや次の対戦への拡大は防ぎきれないのではないか。

その影でスリランカ経済は債務に苦しみ国政が混乱しつつあるのは、なんとも皮肉だ。

パキスタンも同じような状況で政権が交代している。核保有国であり、国際関係に影響がある。

ロシアの旗艦が沈んだことが、さらにかの国の為政者の心理を圧迫していくのであれば、なんとも皮肉なことだ。

いずれにしても政治には冷静な判断と国民大衆の利と理に基づいた対応が必要なのだ。

そこをちゃんと理解して私利私欲に固執していない公正な政治家であるならば、プーチンがそうならば、早期の解決策が国民の意思に基づいて具体化してくるはずだが、そんな期待h的外れであろうか。

・・・わからなくなってきた・・・、・・・。

気候変動とウクライナ侵略

ロシアの意図は良くわからない。

もちろん、隣の芝生が青く見えるのでほしいという感情論は、とんでもない。

隣のひとたちは幸せそうだから、うちは貧乏で不幸だから、取替たいなんていうのも、とんでもない話だ。

気候変動は、脱炭素に見られるように、化石燃料資源のしりすぼみを示している。

それは緊急な行動を要するのだが、山林の大規模火災、未曽有の豪雨、極地の温暖化、北極海の氷域減少、シベリア大陸の温暖化、大気温の上昇など、様々な危険が切迫化しているのだから、もううかうかしている場合ではないのだ。

で、どうする。

化石燃料をこれからの経済再生にむけて活用しようという矢先に、どうも先行きが不透明になってきたのだろうか。

どんどんとわが軍の領土が狭まってきている・・・。それが強迫観念になっているのではないのか。

仲間として同じ問題に対抗していけばいいのだと思うが、どうもそこには入れない・・・と誤解しているようだ。

こっちへ来いと威嚇して仲間にしようとする時代は終わったのだ。

弱いものは共同して脅威に対抗する。

それが本筋なのだ。で、敵ってだれなのか・・・となる。

そんなのはいない。みんな仲間だから味方だ。もしいるとすれば、それは自然現象だったりするのではないか。

もっと具体的な恐ろしい敵を作り上げないと、国家が持たない・・・なんていうのは妄想以外の何物でもないのだが・・・。

わからないようなのだ。

宗教までも国家の威厳で序列づくりをしているなんて・・・、おかしい。

どうも気候変動による変化への対応と密にロシアのウクライナ侵攻は関係しているという見方があるらしい。

とても興味深いものだ。

ISSは仲間で共同して協力して作り上げている。

その姿勢が成果をより良いものにしているのだが、こんないい例は壊していいのだろうか。

食品ロス

どんなものでも百パーセント活用する。

生き物のいのちを大事にいただくことで私たちの暮らしが成り立っている。

健康に生きるには、食べ物がとても重要になる。

ロスをなくす。

クジラにしても、ウナギにしても、どんな生き物でも植物を含み、大切ないのちの恵みである。

ウナギの頭はかば焼き用に捌くときにトメに使われ、そのまま廃棄されていた。

最近、魚醤に活用されてその旨味が評判だという。

捨てるものをなくすのが目的ではなく、モノを大切にして活用する、そして生活に活かすのが目的なのだ。

どうにも厄介もの扱いをしてきたことが食品ロスの根源だったかもしれないと反省する。

最後は自然に還るのだ・・・とおふくろは言っていたのだ。

今は、昔とちがい、自分の好きな仕事を選べるのだ・・・としみじみと言ってた。

そこにもいろんなものを大切にするという思想があるのが分かる気がする。

食品ロスを目にすると、ひとの教育ってなんだって思う。

ひとは生きる過程ですべてのことを学べるってことだろうか。

門前の小僧、お経を唱えるってことか・・・。

資格は役立つが、なくても人生は考え方とかではなく、一所懸命に生きる姿でいいのだと私は思う。

身分とか関係ない。好きならば、それでいいのではないか。生活レベルを貴族とかなんとか族にあわせるとかいう基準があるわけがない。

好きなひととともに過ごすというのが、ひととしては最高に幸せではないのか。

他者とくらべてどのぐらいというような生き方は、まさに食品ロスと同じになる。

今ここにあるもので、それで生きている、暮らしがあるのならば、それが一番ではないのか。

 

生化学の時代到来か

生化学が魅力的だ。

あまりに未熟なケースではジュラシックパークがある。

だが、もっと人間の暮らしに関わるものにその成果がいっぱいありそうに思えるのだ。

もちろん、生きることにはバグがつきものだ。

本来は利を与えるものが、害を及ぼすこともある。

そんな未知の領域に生化学はどんどんと飛び込んで、そのありようを変えていきそうな気がする。

期待できるのは、いろいろな科学の中でも生化学の分野ではないだろうか。

代謝

この前に新陳とつく。

新旧交代のことだ。

それがなんか古さが新しさに変わろうとしない傾向が見える。

老廃物が溜まりすぎるのは、健康に害だ。

人間の身体も社会の基盤も同じだ。

インフラはしっかりとその代謝を促すのが良い。

老いも新陳代謝で若さに変わるかもしれない。

ひとも世の中も同じではないか。

ことばはいつか一つになる

世界の言葉は、いつか自然に統一される。

では、多様な生物は、いつか自然淘汰で一つになるのだろうか。

分岐したものが、再び一緒になることはない。

分裂したものが、戻ることはどうだろうか。

新たな生命を生み出すためには、一度戻るのではないか。

では、ことばはどういう風に派生したのか。

交流が少ないことで、独自の文化暮らしが育まれる。

暮らしは衣食住だから、たぶんひとに関しては同じだろう。

同じ動物なら、同じ傾向にあるのだろう。

では、交流が増えればどうなるか。

そりゃ、独自の文化暮らしが、同じものに収斂していくだろう。

どれがどこを包み込んで同一化していくのか。

強い文化を持つ民族、つまりは利をもたらすものたちが包含していくことになる。

今はその過程にある・・・のだろうか。

停戦のシナリオ

世界中がそのシナリオに夢中になっている。

勇気あるリーダーは、果敢に挑んでいる。

だが、しりすぼみのようだ。

トルコのかの大統領、イスラエル首相、オーストリアの大統領、そしてたびたび顔を出していたのがマクロン仏大統領だ。

そういえば、目下選挙中なのだ。

二人の決選投票がもうすぐ行われる。

そういえば、近頃出てこないのは、選挙への影響か、制約があるからなのか。

民主国家では、選挙ですべてが止まるかのようだ。

そこで右へも、左へも、中間へのどこへでもいく可能性は保有しているのだ。

だから、候補者の氏名の前には二つ名がつくようだ。

右派、左派、極右なんていうのもあるから、極左もある。

ところでコミュニストという語はどっかへ消えているようだ。

左がその代表になったのかもしれない。

ジェノサイド、ネオナチ、戦争犯罪、国際協定違反などなど、どんどんと戦況の事実が分かってくると、停戦には足踏みがかかる。

なぜって、それはだれも罪人にはなりたくないのだ。いくら悪人でもだ。だから、ひた隠しにするために、己の理解の範囲内で避けようとする。

だが、世間の目は違う。戦には勝たないとそのあとはないのだ。すべての罪をかぶせられてしまうからだという強迫観念がある。

プーチンだっておんなじだろう。ましてや手下の軍人や取り巻きは、失敗は死そのものだと認識しているだろう。

戦の勝敗の前にいのちを狙われるなんていうこともあるだろう。

では、何だできる。やるしかない、やられるかやってしまうか・・・ということになる。

このシナリオでは、決定者の心理は入ってこない。

だが、同じなのだ。そこに至ったのは、たぶん、自分のせいではないと想いちがいをしているはずだ。

強い国家を夢見た少年時代がその発端なのかもしれない。

停戦のシナリオは報道ではいくつか専門家が挙げてはいたが、どうにもならない・・・というのが、ほんとうのところだろう。

ひとの能力には限界がある。極悪人は、罪を犯すことで逮捕されて、その悪行を終える。その発端は。自己崩壊だろう。

だから、そこがいろいろなシナリオの結末になるはずだ。

何も想い浮かばない日

何もない。

ちっとも指がキーを打とうとしない。

ニューロが伝わらない。

まったく手足がでない。

金縛りにあったかのような感覚だ。

夢ではたまにある。

あっ、動けない・・・。

でも、夢だから・・・。

もしも夢でなかったら、どうなる、どうする。

もがくが・・・、が動けない。

何も思い浮かばない日は、そんな感じだ。

コロナよりもウクライナか・・・

それともロシアが正義漢の装いをネット上でしているようだ。

プーチンは正義の味方だという。

隣国で抑圧されている同胞ロシアの民のための闘いなのだという。

それで小さな大事な未来を背負うこどもたちをどうして殺すのだろうか。

正義をかたるのは悪だと承知しているからなのか。

いや、そうだろうか。

迷路に入り込んで、神様も仏様も、悪魔に利権を売り渡したかのようである。

ロシアに神様はいないのだろうか。

ロシア民族は、ひとをだ増したり、嘘をついたりすることを、他国のこどもや女性や老人は殺してもいいという教えなのだろうか。

説明責任の不明確な支持率なんて、裏で数値を操作したり、結果を強制したりでは、なんともおっかない世論調査ではないか。

分母の母集団が偏っていれば、結果もそうなる。統計の理である。

でも、民主の理ではない。これでは、ライバルもいないことになる。

いないのではない。ロシアにはちゃんといるのだが、いつの間にか罪人にされ、どんどんと刑期が伸びるらしい。

三権分立なんてあるのかどうか・・・、極めて自分勝手な民主主義のようである。

独裁的違法・自分勝手非情民主主義とでも後日、命名されるのだろうか・・・。

ありえない。即刻停戦の選択肢があるではないか。

これ以上の子ども殺害の罪を着ないように対処せよと世界中が叫んでいる・・・。聞こえないのだろうか。

やっぱり、ウクライナの戦争はだめなのだと、だれかプーチンに鈴をつけよ・・・。

フェイクメール

カタリ。

メールで緊急で、重要な連絡です。

えっ、なんだろう。そうなるのだ。

で、どうなる。

メールって全く無責任だよな。

フェイクニュースは一般化したが、フェイクメールはどうだろうか。

なんとも騙される。

それもちゃんとした会社、企業を装うのだ。

最近は国内企業でもカタカナやアルファベットが多いので、つい本物だと信じていしまう傾向がある。

よくみると、この間までは、メールアドレスがインチキだったのが多かった。

正規のロゴではないのだ。巨人が大人みたいな感じかかな。

そりゃちょっと気にすれば、分かるようなごまかしならばなんとか分かる。

でも、最近はほんとうに偽物かどうかが判別難しい。

超有名企業で国際的なケースでは、訴訟問題を脅しに使うのが多いような気がする。

フェイクメールなんてどうして、やるのか。

だまされる確率がもしも1%ならば、被害額が年間1兆円とすれば、100億円の市場となる。

被害を受ける方はたまったものではない。

もっとまっとうな稼業でやれといいたい・・・。

もちろん犯罪なのだと認識していないのかも・・・。そこがもんだいだ。

 

利害得失

利と害。

得るものと失うもの。

それは、空間と時間の問題でもある。

今(時間)、ここ(場所=空間)は、はたして一体どこなのかが問題になるのだ。

今、ウクライナなら、戦禍にいるはずだ。

今、日本ならば、俺たち日本の暮らしのはずだ。

もしも今ここがギリシャや、ローマで時代は中世だとしたら、どうだろうか。

もし、今ここがウクライナであっても不思議はない。

そこに、あなたとか、私とか、私たち、俺たちという主語がつくと、それは不思議なほど現実化してしまうのだ。

私は、たまたま今ここ(日本)にいるだけなのだ。

すべてはほんのちょっとの時空のずれでつながっているのだと考えれば、他人事ではない、どんな些細なことでも、どんな大きなことでもありうる話なのだ・・・。

地球デブリ

近い未来、地球は宇宙の汚染源になる。

これは極めて確率の高い予想である。

どんどんと地球外の宇宙空間へと様々なゴミを排出する世界ゴミ排出機構がもうすぐに誕生する。

南極は世界のどこも所有権を有しないというが、宇宙空間も同じ扱いで進むとは言えない。

独占したら、どうなる・・・。為政者は虎視眈々と狙うはずだ。

一度目をつけられたら、宇宙空間へ人間デブリとして放出される。ちゃんと刑罰の名称を与えられてしまう仕組みだ。

どっかの国のように政治ライバルを暗殺するのではなく、法の下で悪意を持って罪人にしてしまう。

そしてそれはモノとしてデブリ放出の対象になる。

これでは、系外の知的生物から文句を言われるのは必定だ。

そうならないように、しっかりと宇宙空間におけるコミュニケーションの準備をしないといけないのだ。

地球デブリは、すぐにこの惑星の脅威になる。

太陽に影響を及ぼし、本来の寿命を半減させたりする。

そんな脅威のプロセスは、今脱炭素で経験している。同じ轍を踏まずだろう。

地球デブリの処置をどうするのか、地球の上で争っている場合ではないのだが・・・。

ヒトラーに戦争を終わらせるヒントを尋ねる

どうしたら、終わりますか。

WWIIは三国同盟で始まった。

なぜ、開戦したのか。

そこが問題ではないか。

国土を拡大する。支配圏を広げる。

それが国民の幸せになると信じて始めたのか。

いや、それはおかしい。

そんな気持ちが民衆にあるはずもない。

みんな、国政があるのは知っていても、そこに参画して動かすなんて考えはしない。

だって、日々の生活、暮らしがある。

家族がいる、親戚、友人知人が暮らしているのだ。

そういう社会をだれかが、破壊する。

いとも簡単に、なにやら難しい理屈をこねて、せめて家も道路も橋も壊してしまう。

遠くからミサイルを撃って壊してしまう。

そこに生活があるなんて関係なく攻撃して死滅させる。

軍人も一般大衆も関係ないのだ。

敵国とみなせば、どんな人間的に非人道的なことでも許されるなんていうことはない。

でも、現実は勝てば官軍、負ければ敗軍となり、処罰されるという恐怖が襲ってくるらしい。

プレッシャーになる。トラウマでどれだけ多くの兵士が社会から脱落しただろうか。

勝っても官軍なんかではないのだ。戦をやり始めた時点で敗者なのだ。

ヒトラーが生きていたら、どの時点で戦争をやめる決断をしたのだろうか。

どんな教訓を今の世界に与えるのだろうか。

いまさら、このひとの名前を出すのはなぜか。

絶対的な権力で恐怖を与えての戦争継続だと認識しているからだ。

そこには支配し続けるという考えしかなかったのではないだろうか。

ひとのいのちに限界があるのにである。永遠に生きるという心理でしかなかったのか。

それとも、支配が終わればいのちは風前の灯火ですぐに消え去るから・・・との想いでしかなかったのではないか。

これはもうすでにヒトラーはいないので、その次に候補に挙がってきたプーチンに訊くのがいいのだろうか。

同じ想いのみならば、先行きはない。風前の灯のいのちでウクライナを殲滅させる・・・というのだろうか。

やめる、止める、辞めるという選択肢は、常にあることを、覚えてほしい。

泣き寝入りはするな!

ひととして生きるには、なにかを仕掛けられてしまったら、ひとりで対処するのが鉄則だ。

いつまでも、親はいない。親しき友も離れ離れになる。

だから、歯には歯を、目には目をという言葉をどこかでひとは手にする。

この意味からすると、いじめられっぱなしではいけないといいうことなのだ。

いじめっ子世にはばかるは、みんな承知の上だから、そこに間違ってはまったらどうするかの対処を教えているのだ。

自然とだれでも、そういう世の中の常識をいつの間にか会得しているものだ。

油断するな。弱みを見せるな。用心しろよ。

ただ、ケンカを推奨しているわけではないのだ。

受け身をしっかりと身に着けてけがをしないことを心掛けるのだ。

そうすれば、喧嘩好きなやつらも手を出してはこない。

でも、知らない奴らが手をだしてくることは往々にしてある。

だから、常に泣き寝入りはしないことを周囲に知らせておくのが常とう手段だろうか。

恐いもの知らずはいつもいる。

飛んで火にいる夏の虫だ。そうなってはいけない。

なにかこの世の中、極めて単純化している気はしないか。

バカとアホだけでは、アウトローの世界よりもひどい状況を招くと危惧される。

すでに起きている侵略は、その表れであろうか。

泣き寝入りをしない。強くなれ。そして誠実なこころで難局に備えよ。

さすれば、先が見えるはずだ。泣き寝入りはするな。

試練、鍛錬、訓練・・・

試練だ。

鍛錬だ。

訓練だ。

なんのやつだ?

ロウキ

なんともすごい名前だ。

稀なオトコってことなんだよな。

いつかやるなって監督が感じたという。

みんななんでオオタニよりも早いんだって思ってたよな。

ロウキかな。

それともローキになるのだろうか。

ROOKI?

ROUKI?

RooKi?

どうなるのだろうか、楽しみですね。

始めないと終わらない

当たり前のことだ。

始めないと終わりはない。

だから、いつまでも終わらないのはちっとも始めていないからだ。

分かっちゃいるけど、始まらない。

そんなジレンマが頭の隅にこびりついているようだ。

だが、つい数日前に始めたので、今は終わった。

もっともあと何回かチェックがいる。

10回程度かな・・・。

ミスがなくなるまで・・・だ。

そのためのチェックなのだから、当然だ。

始めたら終わったってことだよな・・・。

夏が来る

なんとも気温が上がる。

夏かな・・・と一瞬、疑う。

でも、まだ春四月半ばだ。

新入生がそこらじゅうでうごめいているのが、感じられる。

夏はまだ、少しあとでいい。

フェイク

いまさら、フェイクでもない。

情報はそこに真実性があってこそのものなのだ。

誰が何を言い、どんな行動をしているのか。

それは、そのひとの考え方が問われているのだ。

だから、私たちは、どんな身分であれ、貧民であれ、富裕層であれ、大金持ちであれ、大富豪であれ、そこで問われるのは、そのひとの生き方そのものなのだ。

フェイクは、どうやって作るのか。

フェイクではないことを検証する・・・。

なんだ?

ごまかしってことか、初めからそういう魂胆なのか。

追いつめられてどうしようもなくなった、議事堂を襲うってことか。

戦争もフェイクでしたとはならない。

だから、責任のとれる範囲で行動しないければ、人生そのものが嘘の凝り固まったものになってしまう。

生れた時は、決してこんなんではなかったのにな・・・。

お前も国際的に嘘をつけるようになったのかとほめそやす親なんて、そんなものはヒトじゃないだろう。

ひとの感触

ははの手だろうか。

おやじの顔のしわだろうか。

ふんいきだよな。

漂うということばが似合うのだ。

ひとの感触は、わたしのこころに深く刻まれているのだ。

ただただなにもできずに彷徨うわたしのこころも、そんな感触のひとつなのだ。

おやの子供らへの情は、ひととしての感触として伝わるのだろうか。

それはすべて感じる側の感受性というものによってかわるようなのだ。

思うようにはいかないという大切なことをしみじみと感じている。

ヒントの扉

どうしても開きたいものがある。

ヒントの詰まった部屋の扉だ。

そこにはカギはない。

なら、開くはずではないか。

何が問題なのだ。

いや、そこを開けるにはちゃんとした理由がないと開けたくないのだ。

そのヒントが見つからない。

そんな状況で開けても意味なしってことなんですよ。

わかってください。

ヒントの扉には、カギがないのだ。

なぜだ。その理由を探さないと開いても開いてないのだ。

夢の後始末

夢を見るのは構わない。

そこにいろいろなことがらが散らばっているのが見える。

出しっぱなしにしているようだ。

そろそろ役立たないものは、ひっこめてはどうだ。

潜らないダイビングのライセンス。

乗らない小型船舶の免許。

そしてもうすぐ乗れなくなる車の免許・・・か。

すべて暮らしに必要だと思ってやってきたことなのだが、月日は光を曇らしていくのがよく分かる。

これからの夢は、一文無しになって、裸一貫で生まれた姿に戻ることかもしれない。

それも、あんたのゆめではないのか・・・な。いつまでも、あるものだな。感心、かんしん。

戦はひとの心を狂わせる

やはりそうなのだ。

戦争はひとではなくなるのだ。

そうでないと、命令で他者を殺すなんてできない。

すべてが指揮命令系統で統一されているなんてありえない。

自分のいのちがなくなる、つまり殺される瞬間は、今の戦争では不明だ。

どっちも同じだ。

敵味方が同じ心境で戦っている。

よく言う、殺さないと殺される。わかっているな・・・。

それなら、死ぬとはだれも言えない。

なぜならば、この世に生を受けた以上は天命を全うしたいからだ。

その権利はあるのだ。だって、生まれてきたのだから、絶対にある。

でも、そこであいてを殺すか、自分が殺されるかなんていう瞬間に立ち会うなんて想像もしていない。

その瞬間の後、オレかアイツのどっちかがいなくなる・・・。

抜け出せないワナにはまったら、終わりだ。

それは、社会や世間にとっての判断も同じだ。

戦争に加担したら、そこでどっちもまけなのだ。

そうなったら、如何に早く抜け出すかの知恵を働かせよう。

自然災害も同じだ。やってくる。いくら用意し、準備しても、それはできる範囲でのことでしかない。

想定は超えるものだ。

ひとは様々なことをこころの中で思い浮かべることができる。

それらは、どんなひどいことでも頭の中に一度でも描くことのできたものは、現実になりうる。

戦はひとのこころを狂わせているのが今回のロシアのウクライナ侵略でも証明された。

このあと、さらなる殺戮を繰り返すとロシアの為政者は言い張っている。

すくなくとも世界の平和を保つ安保理の理事国を辞退して、国連の表明を否定してから、他国を侵略するならするというのが筋ではないか。

勝手な社会思想をでっち上げて、偏屈に凝り固まった頭で、これからの新なこどもたちの生きる社会に口を手を足を武器を兵隊をさしはさまないでほしいものだ・・・。頑固なじいさんは、もう少し若者の意思を尊重していいのではないか。

欲しいものは手に入らず

あれがほしい。

これもほしい。

みんなほしい。

駄々っ子が暴れている。

手が付けられないようだ。

駄々っ子はすでに一国の専制君主のようなものだからだ。

決して子供ではないからだ。

だが、その精神構造は駄々っ子のままのようだ。

この世の中は、自分のためにあると信じていそうな人物のようだ。

お前のものはオレのもの理論を振り回す輩だ。

あっちこっちにいるわけはない。

でも、気遣いのすごいのが取り巻いているから、ついついそうなるのだろう。

選挙もフルにコントロールし、落選しない。

任期切れになれば、替え玉をたてて、そのあとにすぐ復帰する。

ルールなんて、選挙なんてあってないようなものだという。

で、一つ疑問だ。

大衆国民はどうみているのかな。

気づかないのかな。

いや、騙されているらしい。

中には気づいている者たちもいる。

だが、案の定、手を回して無力化(殺人、毒殺)するのだという。

これでは、ライバルは出てこない。いつの間にか、いなくなるのが真実か。

裸の王様っていうやつの典型のようだ。

それでも民主国家であり、国民のための政治を行っているという自負しかないのだという。

いつの世の時代なのだろうか。

今また、世界は放ろうの旅にでているかのようだ。

名目だけとなった国連(UN)という旗をもって彷徨っている。

かといって、駄々っ子は昔からその成果はその場だけとなっているので得られるものはない。

欲しいものは手に入らないだろう。

社会性

動物の前後はどう決まる。

口が前で肛門が後ろだという話だ。

もともと単細胞にへこみができ、それが貫通する。

生きるには外からエネルギーを補う必要があるので、取り込み口が前だ。

不要なものを排出するのが肛門だ。

前後ができる。

そして生きている。

体内の腸とからだの皮膚が同じだったというものだ。

でも、その通りだ。

それが基本構造なのだ。

類人猿も人類もほかの四足動物も変わらない。

空を飛ぶ鳥も同じだ。

海の中の魚もほとんどは同じ構造だ。

細胞が分裂し、成長していく過程で、生き物は社会性を身に着けるのだろうか。

そうしないと分裂できず、成長できず、死に絶えてしまうからだろうか。

いずれにしろ、完成形での分裂はない。

クローン人間も同じではないだろう。

こころの相似性なんていうのは、もちろんないだろう。

社会性の基礎というのは、細胞分裂ではないかと思うのだが・・・、どうだろうか。

浅知恵

思慮分別は、だれも持っているものだ。

知恵もある。

様々な工夫もできる。

疑問点を示して議論もできる。

もちろん異論は争うことになる。

でも、面倒なのでめったにしない。

つい手がでるひともいる。

口ではなく手を出す、蹴る、投げる・・・。

いろんな行動がある。

そのどれを選ぶか。

大人になるまでに勉強する。修行ともいう。

そして大人になる。

なんにもしない無反応の人間が出来上がっている。

それが完成形なのだという・・・。

浅すぎる知恵でつくられたようだ。

国際政治のAI化

人道主義的な行動の原則は、どう国際的に進めていけばいいのだろうか。

民主国家と独裁国家は、どっちがどうでどうすればいいのか。

あっちも、こっちも民主的だと言い張る。

私たち(独裁国家)の民主的とは、あなたたちの民主主義とは違うものだ・・・と言っている。

では、本来、人間社会で進めるべき民主主義とはどんなものなのか。

歴史を紐解いて様々な事例を引き出してみてはどうか。

もちろん、こんごの社会のためにである。

すると、なんとこの現代社会はまだまだ民主社会の足元にいるだけのようだという判定だ。

あっちの方が進んでいるのかなと、独裁主義の方が民主国家だというのか・・・。

それは、客観的な指標で成果を示せるのだ。

AIが示すその先には、何が見えるかであろうか。

すくなくとも、戦争があるかぎり、戦争のない世界を目指そうという目標はなくならない。

でも、どこか矛盾しているのではないか。

戦争の紛争のまたは争いごとの発端を探るAIになってしまうのか。

何もないとしたら、どうなるか。

AIが勝手に紛争のネタを作り上げるなんていう社会になるのか・・・。

少なくとも、急に隣国を侵略するなんていう悲劇は、なくせないか。

そこに明確な基準を示してくれ。

国連安保理の常任理事国なんていうのも、資格基準とか要件があるべきものではないか。

国際基準を守らない、又は批准していない、加盟していない、そんなんでいいのか。

国際的な取極めを認めないで、その安保について決議はできるのか。

なんともおかしい。

個人の頭脳であるならば、既に破たんしているひどさだ。

八百万の神というAIがもうすぐに構築されるのではないか・・・。

だが、その神もこれからもでてくるヒトラーやプーチンなどのいいなりになったりするのか。

基本構想を持つ

なんかおかしい。

おれはなにをてるんだ。

そんなときはないか。

基本の構想が作れない。

いやつかめないという感覚かな。

そうなのだ。

つい、焦ってしまうとか、投げやりになるとその大切なものを失っていることに気づきもしない。

結果、仕事そのものの質が劣化してしまう、張り合いがないことに疑問を抱く。

それでも気づかないのだ。

基本がなってないんだよ・・・と、自分の頭の中でガンガン鳴っているのに知らずにいる。

そんな空回りの時間が長くなると、ほんとうにいかれてしまうと思うのだろうか。

持て、基本構想を・・・。

南太平洋のソロモン諸島

そこには、昔、日本兵の若者が大勢送り込まれた。

ヘンダーソン空港は米軍の基地である。

そこでの合戦は、かなりの激しさだったようだ。

ガダルカナルの海戦とか言われて今の伝わる。

ホニアラがソロモンの首都である。

数十万だと思っていたら、なんと今は80万人ぐらいらしい。

カツオの竿釣り漁業が盛んだ。

その獲物は、自然に優しい漁業として認定されている。

缶詰加工が主体だけれども、価格に反映されている。

動物愛護の視点での成果である。

太平洋諸島諸国にも、なんらかの赤い影が浸透しつつある。

ずいぶん前にロシアがキリバスと国交を結んでいたことがある。

もちろん、すでに赤い色付けは終わっているのだが、小国の島嶼国はなんの抵抗力もない。

ドイツに攻めラテ山中に立てこもって戦ったミクロネシアの人たちもいた。

その大昔も、帆船時代の欧州の近代的な船で侵略を受けてきた歴史もある。

手に入れても使いようのない海の孤島をなぜに手にする。

マーシャル諸島のビキニ島のように、核実験の着弾場にするためではもちろんいけないだろうが、同じような無駄な現地島民に被害を与えて苦しませるようなふるまいだけはしてほしくないものだ。

国連の一票をどうどうと獲得するという意味での、外交や交渉ならば、現地の利になる仕組みを確実に与えることだ。

それも現地の人たちの声そのものを反映させていなければ意味はない。

どっかのひととか土地を活かすには、多くの知恵と工夫に加えて、そういう姿勢が不可欠なのだ。

決して奴隷とか、下僕とか、貧民だとかさげすんだ目でみるのは論外であろう。

まずはいかなる大国と言えども、己の身内のことを第一に考えるべきであろう。

そこに幸せと平和がなければ、よその国や土地や、民に誠意は伝わる由もない。

サクラ

散り始めている。

このあたりの風情が好きだ。

花びらが道路に固まって風で飛ばされて右往左往しているのがいい。

風がやむと、道路一面が花びらの道路になる。

その上を歩くというのもいいものだ。

でも、いつまで続くやら、地球温暖化の影響で多くの動植物が陸上、水中を問わずどこでも移り変わりを示しているのだ。

こりゃ危機的ではないか。

サクラの動向に目を向けてこれからは生きようと決めた。

自由に動きたい・・・

なんとかならないのか。

我々の地球号は、軌道を変更しないのか。

時には、天の川沿いの桜惑星群をみてみたいのだ。

それにブラックホールという大きなものもあるようではないか。

そのあたりも一度は見てみたい。

宇宙船ではちょっと物足りないとは思わないか。

面倒でもあるし、通常の生活スタイルでそのまま行く自由は、ないのでしょうか・・・。

この辺で周辺のひとたちの意見の想いが伝わってくる・・・気がする。

何を言ってるんだこのひとは、頭がおかしいのではないかな・・・。

自分で勝手に自家用ロケットとか、自家用の天体惑星でいくのが当たり前だろう。

それを勝手にみんなの共有物でどうのこうなんておかしい・・・んだよな。いったい、何やってんだ。

自由にできないこともある・・・。

夢想だと・・・思えばいい。

ストレス

増えるか、減るか。

ストレスの量のことだ。

これの測り方はどうなのか。

グラムからそれとも㏄だろうか。

まあ、㎖という表現でもよさそうではある。

今日のストレスは10gです・・・。

明日は、ストレスの形が違うので50㎖です・・・。

固形物と液体との違いのようなものだ。

その発散方法も異なる。

固形のものは、焼く、煮る、あぶるだろうか。

ほかにもあるが、この辺にしておこう。

液体はやっぱりスープだよな。

意外とおいしいという評判も聞くので参考にしてみてはどうか。

ストレスを大売出しするには、全国10万人の企業ではかなりの収益が期待できる。

その成分は、企業の特質に比例するからだ。

企業の体質によって、味覚も変わるのだ。

ストレス市場は、今後の新たな世界的な需要を背景にしているから、有望である。

さらに、SDGsにも貢献するものだ。

ストレスは普段の生活の中の仕事中に生成されるので、エネルギーコストはゼロだ。

やはり人間の精神活動を如何にしてエネルギーに転換するかが、今後の課題である。

図書館

小さいころ、本は面倒で読むのが好きではなかった。

今も変わらないが、とにかく必要なものは読めるようになった。

ある速読術にお金を払って挑んだ。

きっと俺にも早く読めるようになるチャンスだとか思ったのだ。

だが、その中身は分った。

だれにでも共通するあることがヒントだった。

そういう速読者にはなっていないが、中身は理解できるスキルを身に着けたのだ。

とにかくキャッチフレーズに惑わされずにいろいろと試してみることだ。

そこへの拘りが強ければあきらめないだろうから、できることもその先にある・・・ようだと言っておこうか。

図書館にいくといつも思い出す。

これだけの蔵書規模の図書館施設が全国、いや世界にどのぐらいあるのだろうか・・・と、思うのだ。

だが、AIはひとの機能としての読書力をあっという間にこなしてしまうのだろう。

そこでひとは、その情報のどんなことでも、頭の中で考えつけば到達できることになる。

なんともすごいことだ。

考えればいいだけのことになる。

そこには、ヒントとかではなく、すぐに答えも、必要な資料も、その結果しての成果もひとりでにこなしてくれるファンクションが出来ていることになる。

だが、問題はその費用はだれが負担するのかということになろうか。

社会インフラだといってすべてに解放するというのは、異論があろうし、議論しても収集はつかないだろう。

で、どうするか。

それらのことも含めt、AIに推奨案を出してももらい、その決議内容や、結果を選んでもらうことだろうか。

これでは、何もしなくていいのかな・・・。

いや、初めの考えるは放棄してしまってはだめなようである。だが、すぐに忘れそうである。

よく眠るものが勝つ

寝ていますか。

眠っていますか。

ずっと寝ていたいと思ったことはある。

でも、朝、始発で家に帰り、普通の出勤時間に出社する。

何事もなかったかのように一日を過ごす。

そして、同じようにずっと夜中に働き、朝、始発で家に帰る。

シャワーを浴びて、着替えて、少し目をつむり、同じようになんの変りもないように出勤する。

それで戦えるのか、なぜ戦えたのか、不思議だ。

でも、やれたのだ。

楽しかったからだ。

寝る時間の長さではないのだ。

眠ることができるのが大切なのだ。

だから、傍目の睡眠時間とは関係ないと私は考えている。

どこに力を注ぐかなのだ。

短いかもしれない就寝時間を二倍三倍いや四倍ぐらいにすれば、1時間半で6時間にはなるのだ。

十分だ。よく寝た、眠ったのだ。そして勝てるのだ。

集中力の差かもしれない。

でも、それは極めて特殊な能力でしかない。

何よりも好きなことをしたいという想いがひとをそうさせるのだと、私は考えている。

だが、勘違いしないでほしい。

それはほんの人生の一瞬の話なのだという・・・ことを、忘れてはいけない。

短いはなし

意味なし。

ひとの想い

それをやりたい。

あるひとが強くそのことを望む。

で、どうなるか。

大勢同じ望みを持つものがいれば、競争が始まる。

闘いではない、競い合いだ。

だれが一番、そう願っているかだ。

なにがその指標になるのか。

よく言う Key performance indicator(KPI)のことのようだ。

想いの重さがそのKPIになる。

私は、そう考えている。

なぜならば、それを測るのは己の意思だけなのだ。

他者にはできないのだ。

そこで己に勝てば、他者は自ずと従うことになる。

だって、その熱量はすごくなるのだから、とんでもないカロリーを発する発熱体のようなものだ。

ひとの想いをどう育てるかが、この社会の今も昔もこれからも変わらぬひとのKPIであるとわたしは考えている。

ときには、ひとの想いに、自分の想いとして馳せてみようではないか。

 

シナリオはあるのか

追いつめられてやることには最後の覚悟がある。

シナリオに従ってやることには、覚悟なんていらない。

その通りにやり抜けばいいだけのことだ。

お前らは考えなくていい・・・となる。

だれにでもできること、それは考えることではないのか。

それを否定される。

なんのためにだ。

それは、企業だったり、国家だったり、犯罪組織だったり、様々な形態がある。

シナリオには作ったひとの意思がある。

だから、そこを知らぬではちゃんとした目的は達成できない。

ただやればいいと言われれても、奴隷制度下でもない現代でだれが納得できはしない。

だから、説明し、注意深く観察して、時には近づいてよく様子や顔色をよく見て判断し、修正したり改善して、納得してもらうための、その説得作業があるのだ。

それがないとどうなる。

ただ、一方的に、カリスマ的だから、遺伝子の欲しいおとこのなかの男だとか言われてそんなことは関係ないのだ。

狂ったシナリオは、誠意ある誠実な民に理解できるわけもない。

企みの世界で情報を流し、騙し合い、騙される世界なんて、どうしてあるのか。

スパイ、諜報機関は、映画の中の話かと思えば、現実のもののようだ。

誤った情報や主観的なインフォメーションでは、現実は語れないようだ。

つい、ボスになびいた内容で伝える。忖度する。ありうるし、できないやつは途中でこぼれ落ちるだけだ。

そんな中で特異なものたちの集団が作られていく。

どこの世界でも同じだろう。

ちっちゃな企業だって、同様だ。

気になれば気になるらしい。

巨大企業でも大国であってもだ。

国連常任安保理なんていう世界の秩序をつかさどるメンバー国のリーダーは、どんな人物がなるのか。

おかしなものだ。みんななんかおかしい。ぶれている・・・。

そんな感じである。では、国連の事務総長という地球の国々の平安をまもるリーダーはどうだろうか。

しがらみのない力のない清廉潔白なひとが多い印象を受ける。

政治学者とか哲学的な思想を持つひとのようだ。

でも、ちからはない。

いつの時代も同じかもしれない。

道半ばで、その人生を閉じることになるのは、どんなひとでも同じだろう。

そこには貧富の差もなにもない。

あるのは今まであったいのちの有無のみの差だ。

ましてやウルガリヒとかは無関係なものだ。

豪華ヨット、超豪華ヨットとかどんどんとスーパーがなんどでもでてきてウルトラスーパーとか、超銀河的なんていう形容詞がつきそうな資産家が保有するものでも、そこにはひとが作ったモノだから、朽ち果てるモノでしかない。

シナリオはあるのか。

ちゃんとしたエンディングまで用意されているのか。

監督が理解していない中身が秘密なシナリオではないのか。

つまり、破滅のシナリオというやつではないのか。

それは発狂したものだけしか書けないものではないか。

その先はないし、後戻りもない。

あるのは破滅のシナリオであり、宇宙の彼方から、何かが見つめているのかもしれない。

一億年のいのちを持つ生命体がいれば、ひとの五十年百年はほんの一瞬のいのちの輝きでしかない。

サクラの花びらの散るがごとしでも長すぎるのかもしれない。

そこにシナリオがあるというのがおかしいのかもしれない。

はやく、それでも、戦はやめて話しあいで片づけるべきだ。いずれそうするならば、そのシナリオは普遍なものだと知るべきだ。

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