起死回生
なんとかの一打とかつかう。
死と生の問題だな。
起と回の動きだろうな。
いつも思うのは同じだ。
そして、いつもそうはいかないのがいつものことだ。
« 2022年7月 | トップページ | 2022年9月 »
なんとかの一打とかつかう。
死と生の問題だな。
起と回の動きだろうな。
いつも思うのは同じだ。
そして、いつもそうはいかないのがいつものことだ。
人生初めての疑問ってなんだったかな。
俺ってだれだ・・・。
負けず嫌いってなんだ・・・。
そんな気がする。
疑問を持たないのが疑問だったのかもしれない。
みんななぜそんなことを考えるのか・・・だったかもしれない。
勝つことしかない。
強豪校の監督が初戦敗退で失意のどんぞこか・・・。
毎晩、飲み歩きとの記事をみた。
敗けることは、人生の敗北なんて考えているようでは、だめではないか。
様々なことを勝負は教える。
敗けるか勝つか。どっちか。
それはどっちかなのだ。
一方だけを称賛するという態度は時代遅れであろう。
いや、古来、勝負事はどっちもある。
ある種の度胸試しのようなものではないのか。
敗けたらどうなる。
病気で死ぬ間際にあればどうか。
そこで死ぬことは負けることではない。
人生のあらゆることにひとは巻き込まれているのだ。
でも、敗北した生徒たちではなく、監督が失意のどん底(?)とはいかがなものか。
いろいろあるのは、もちろん分かる・・・。
ほんとうに静かなところなんてない。
夏はセミの合唱がある。
静かな海でも波の音がある。
闇夜の暗闇でもうごめきはある。
目をつむり静かに座禅を組んでもそれは同じだ。
頭の中はいつも雑念が闊歩している。
テストの最中は、問題を解くことなしに、ボケっとしている。
他のことを考えることで時間つぶしだ。
名前を書くのを忘れたりもする。
数人いれば、だれがだれかは分からないだろうとか思うも、我一人なり。
置いてけぼりにされたようで、こころに静けさが張り詰める。
静寂とはどんなものか、そんなものなのか。
ひとは死に際である景色をみるという。
砂漠だったり、絶壁だったりするらしい。
日本では三途の川のようなある種の限界のイメージらしい。
そこでこれからだれに会いたいかと問われるという。
みんな父母とか祖父母とか家族親戚をいうらしい。
そして、喜んで先に進んでいくというのだ。
だが、躊躇もする。
そんなときに名前を呼ばれたりすると、意識が戻ることもあるらしい。
もちろん心身の危篤状態によって変化する。
死の体験は、生きていないと語れない。
そこは譲れない。
みんな毎日そんな体験をしているのではないのかな。
寝て起きて、ああ今日も生きているとは感じない。
だが、寝る前にもしも明日おめにかかれますかなんて言われたらどう思う。
いや、生きて目が覚めたらそうします・・・だろうかな。
そんなっ研究をしているひとたちも大勢いるらしい。
だれしも窮地に陥ることがある。
変わり身のうまいやつもいるし、へたくそなやつらもいる。
そして、なにもしないやつがいる。
のうのうとしているだけなのだ。
嘘偽りは日常茶飯事で、どれが真実でどれが虚偽なのかさえ判断できない状況はいつものことだ。
良心の神経回路がマヒしないと、そんな世界では生きていけないから妥当な変わり身ではある。
しかし、それでいいのか。
いつかちゃんとした社会に戻るのではないのか。
弁明するから構わないというのか・・・。
しかし、そこにちゃんと人としての善悪の判断が正しく反映できるのかはしっかり押さえないとダメなんだぜ。
弁明に嘘は通用しないし、普通は使わないものだ。善悪の判断の正しさが人間の規準であるからだ。
そこは抑えていないとひとにはもどれないのだ。
涙が出て止まらない。
だれもが経験することだろう。
ついついでてしまう。
知らない子供が困っているのを見ると、なぜか涙がでてくる。
ただ、見ているだけなのにである。
それが我が子なら、どうなる。
感激する・・・。感動する・・・。
つい何かに突き動かされて、でてくるのが涙だ。
そんな気配を他の人たちにも感じる。
みんな、あまりおかしなところで涙を見せない様に注意しよう。
でも、気にしないという手もある。
どっちが人間らしいかで判断しよう。
涙は決して弱みではない・・・。
午後には止むらしい。
今は降っている。
午後には晴れるらしい。
雨は止むらしい。
苦手だな。
心理を覗くとか、欺くとか、騙すとかは、とにかく苦手だ。
そして、それを上手く利用する方法には、興味関心がある。
少し矛盾してそうだが、なにごともまずは垣間見ることから始めればいいのだ。
作戦のひとつとしての心理の制御なら、わかりやすい。
相手がどう動くか、それはこっちの動きにつながっているかもしれない。
とすると、こっちの動きを相手が見ていることになる。
じゃあ、こっちも相手をみてから、対応するのがいいのかどうか。
この辺からもう迷ってしまう。
相手も同じだろう。
他者の心理は、わからない。
それをどうやって判断するのか。
なにか目印になるものがあるかどうか。
喜怒哀楽というものがあるではないか。
ひとの心理のほとんどはこの感情で構成されている。
冷静沈着ということ自体が、ひとは溺れやすい、流されやすいということを代弁している。
本音をすでに吐いているのと同じだ。
やせ我慢もその一つだろうか。
油断させて攻める。油断すると攻められる。では、油断せずにいるとどうなるか。
いつか疲れて攻められる。
では、先手を打つか。相手も同じようなことを繰り返し考える。
つまりは、潮時をしっかりとみることが、心理作戦の本丸かな・・・。
あのひとはいいひとだ。
その理由にはどんなものがあるか。
第一は、何と言っても、「善悪の判断が正しい」ことではないか。
他にもあるだろうが、他者が信頼できると感じるのは、そんなだれにも分かる基準で明確に行動していることではないのか。
開発と保全、政治とカネ、様々な問題がある。
そこでどう判断するか、政治家に求められる資質、社会人に求められるもの、大人の人間としての要素などに、この基準が当てはまると私は考えている。
今日は、終戦の記念日となっている。
いつも思うのは、どこのどの家族にも犠牲になった兵隊さんがいるということだ。
こどものころ、兵隊の持参した袋があった。
中には、勲章のようなものとか軍靴をまくような布とかだったかなと思うが、ほぼ忘れてしまった。
あのまま、戦争が続いてきていたらどうなったのだろうか。
お国のために死ぬ・・・という刺激の強い雰囲気と空気の中で少年少女らは教育を受けて育ったのだろう。
そうなら、どうなっていたのだろうか。
何か、頭がおかしくなりそうだ。
何事も我慢、勝つまでは・・・というのがスローガンだったようだ。
たしかに一つの目的ではあっただろう。こどもたちの大人になったら何になるという問いへの答えの一つだっただろう。
数百万人が死んだ。
世界の海は、とくに太平洋島嶼国はほとんどが戦争の傷跡を抱えている。
マーシャルの離島にはまだゼロ戦の残骸があり、クロスした滑走路とコンクリートの建物が残っている。
ほかの島々も同じように戦争の痕をいっぱい抱えているのだ。
中南米、カリブ諸島での奴隷の歴史とともに、世界の歴史に残るこころの痛みを伝えるひとの行動の結果である。
終戦の日に、また、次の戦争の予感を思わせる世界の動きがとても不気味である。
悪ガキはいつの世にもはびこり、脅しや暴力で弱者をつま弾かせようとするのが分かる。
悪いこころと正義のこころがどの一つのいのちにも共存しているのは、みんなが知っているし、その管理を一人ひとりがしている。
なぜ、答えが悪のこころにたどり着いてしまうのか、はなはだ疑問だが、そこにひとの弱さがある。
・・・・。
雨台風のようだった。
直撃かと、御前崎通過の時点ではそう思った。
駿河湾を抜けて伊豆半島へと上陸し、関東地方へと北東に向けて進んだ。
線状降雨帯という注意報がでていたので、かなり心配だった。
一転、今日は日照り模様だ。
天気の移り変わりには、いつも気を使う。
開発と保護かな。
だが、科学の問題のようだから、研究課題にからむことだろうか。
どうも、民生と軍事のようだ。
社会に貢献するのが民生かな。
そして軍事用とは、戦争の道具になることだろう。
どっちのために、なにを研究するのか。
科学者は、常にその意義を問われている。
軍事に転用する科学技術を求める研究者もいる。
社会インフラとしての科学技術は、すべてどれもあえて言えば、二刀流なのだ。つまり、デュアルコースなのだ。
それぞれのニーズにどう答えるかで、科学技術はどうにでも変化する。
変化自在なのだ。要は、そこにニーズがあるかどうかであり、その以前のウォンツがだれかの心にとくに釈迦心理としての部分に埋もれているかどうかにかかってくると私は考えている。
小さな灯がヒントになる。
そして、民生と軍事というよりも、なぜ軍事力が重要なのかに焦点が絞られそうだ。
両者のバランスが大事だというが、比較すればどっちかが優るのだ。でも、ぶつからないと分からない部分が多い。
勝負の世界がデュアルコースなどという言葉を作り上げているだけなのだ。
本来、ひとびとは殺し合いは望まないが唯一認められている自衛手段としての知恵をどう構築して現実的な対応をするかになる。
だが、いつもどんな立場であろうとも、人殺しは兵隊の仕事であろうとも、自己防御のためとなってしまうようだ。
それでも、ひとのこころは傷つき、うずきだす。ひとの良心というものが唯一の頼りかもしれない・・・。
たしかに一時はやった気がする。
なんとかのカタチという言い方だ。
例えば、ファミリーのカタチとかだ。
ガッコウのカタチもあるか。
ブシドウのカタチなんかもありそうだ。
そして、オトコとオンナのカタチとかだろうか。
オレのカタチなんていうのは、今でも通用しそうな雰囲気を醸し出している。
テレビのカタチとかは、もう古いかな。
IT・ICT・AIのジダイに、カタチは必要ないのかもしれない。
でも、セイジのカタチだけは、この国のためにしっかりと維持して守っていくべきである。
権力者が暴漢に倒されるなんていうのは、銃規制のない米国でもそうはないことだ。
この国の甘さが目に付くというのは、近隣諸国の一致した日本という国へのレッテルであろうか。
さて、どういうカタチで対応していくのか・・・。
久しぶりと言えるひとはいないのではないか。
ベーブルースの試合を1918年に見たひとは今、百二十歳ぐらいになっているからだ。
生れたばかりで104年だ。
大谷翔平選手は、勤勉だとメジャーの同僚がいうのだ。
誠実さがウソなく伝わる雰囲気がある。
まったく珍しい、稀ともいう。
25号ホームランを見たし、6回の投球をもみた。
初めからは怖くてみることができずにいた気分は分かるだろう・・・。
なんとなく胸のつっかえが取れた気がしたのは、みんな同じだろう。
メジャーを楽しむという雰囲気が日本や米国に漂っている気がする。
だれもやりはしない、だれもそんなこと許しもしない、だれも二刀流なんて受け入れない・・・。
そんな常識をみごとにひっくり返してくれたことに「スゴイ」の一言をささげたい。
最近、このような表現が多くなっている。
これは、なんらかの風潮かもしれない。
つまり、物事の本質をどう表現するかという具合に世の中が動きつつあることではないのか。
わかりきったことをいうのは、気まずいという雰囲気が一時あった。
言葉を外国語に変えて中身のないトークをする。
明治期の書生たちの議論のようなものか。
それは釣り堀稼業の主人が、さかなたちを従業員、社員、家業の主体であるといったのと通じるものがある。
もちろん人々がビジネスそのものであり、政治も人々がそのものであるのは当然のことなのだ。
ひとはなんらかのグループや集団に属するものだ。
信教の自由というが、本当にそれはしがらみをつくる大元ではないのか。
大企業にしても、解体されれば、残るのはひとなのだし、そこに属している構成員はみんなひとである。
士農工商というが、それらはみんなひとの構成するものである。
どんな表現が一番その時代にあうかは、それぞれのひとが決めればいいだけのことだ。
何事においても重要なことの一つだ。
すべての周りの事情が分からないと、狙いは付けられない。
いや、つかない。ということは、分かれば、分かってしまえば、自然と定まる。
なにもする必要はない。
自然とでてくる。
好打者の特徴は、きっと、その辺にあるのではないか。
なぜホームランが打てるのか。
自然と打てるのは、打つのはホームランと決めているのだ。
ヒットを打とうとしているのではない。
ホームランを打つためにそこに立っているという自覚がそうさせるのだ。
そのためには、ちゃんと定める。狙いをつける。さて、今日は何本のホームランが甲子園やプロでメジャーででるのか。
おかしいいな、なんで日本平の多くの駐車場に車が昼間から詰めかけているのかな・・・。
中には家族連れで弁当を広げたりしているし、カメラのトリポッドを据え付けている人も大勢いる。
海の方、港の中の中央付近にはプレジャーボートがたくさんみえる。
こりゃ、港まつりの花火か・・・とピンときた。
まだ日暮れにはずいぶんあるのに、コロナ禍のこの3年はそんな数時間は気にならないのだろうと思った。
日が暮れて午後7時半過ぎにボーンという音と共に始まったようだ。
ちょっと家の外にでて空を見た。北の方角の家々の上にちょうど㋑大きな輪がいくつもドーンドドンという音の前に見えた。
きれいだと思った。そういや、光が音より早いんだよなと再確認したりしていたようだ。
ひとはほんの少しだけ、他者より優れているのがよい。
スーパーマンは強すぎる能力だから、一般の他者とは比較できないので人間というカテゴリーからは除外される。
ほんのちょっと他者より早く走れる。
少しだけ礼儀がいい。
ひとつだけとびぬけている能力があるものの、その他は全くだめだ。
つまり、良すぎるところがあれば、それを補うマイナスの要素を付け足すことだろうか。
全体としてゼロという人間の標準スペックになっていれば問題はない。
ところが、個人はみんな自分の悪いところだけを荒探して、劣っていると嘆いたりする。
だから、少しでもよいところを探してそれで満足すれば、とくにどうということはない。
他者の平均との能力比べなんてなんの意味もない。
気分が陥ったときには、自分よりもひ弱なひとをみれば回復することもある。
自分とは似てもに使わないひとをみてさらに落ち込むこともない。
だれといつどこで比べるかなんていうのは、意味がないのだ。
強いものはさらに強いもののいることを知っている。
弱いものは自分がさらに弱いものより強いことを知らないでいるようだ。
人生は比較の問題では、本来ないのだが、みんな金銀銅とか入賞とかを目指す。
だれだって負けるのは嫌だ。それが古来、死を意味していたからだ。
今、死ぬ必要がなければ、敗けなんてどうってことはない。
次の勝利への近道だって考えればよいのだし、そんなばからしい競争から抜ければいいのだ。
そこがひとの自立への第一歩のような気がする。
コンクリートの遮蔽物がなかったため、妹は被爆し、兄はコンクリートの建物内にいたため、大きな直撃をまぬがれた。
なんという運命のいたずらだろうか。
ひと汽車遅れたことで助かったというシーンもあるという。
広島の悲劇、惨劇、どんな表現もそこにはぴったりとこない。
もう、絶対にやるべきではないという強い意思が世界にあるなかで、日々の暮らしを破壊する戦争が起きている。
相手の抵抗が戦をさらに悪くする・・・なんていう為政者のことばは、幾度とない恐ろしい原爆の投下をやめることはなさそうだ。
いつも、そこにあるから使う・・・なんていうことになる。
では廃棄すればいいではないか。
だれも使わない、使えない兵器なんてもっててもなんにもならない。
だが、そんな神話は通用しない。
いつどもどこでも、人類は戦争を仕掛け、敵がいれば全力を尽くして戦ってしまうのだ。
味方を守るために敵を倒すという論理は、そこにどんな兵器があろうとも同じかもしれない。
小さなナイフだろうと、拳銃だろうと、それが原爆だろうと、さらなる世界を亡ぼすような新たな兵器だろうと、そこにあれば使うというのが人間ではないのか。すべてのひとではない、ほんの一部のひとの中に、かならずでてくる。
過去の歴史が語っている。
一番悪いシナリオがあれば、そこに乗っかるものがでてくる。
そんな世界に「かたきをとってね・・・」と言われている気がする。
どうする、どうしたらいいのか・・・、・・・。
答えはない・・・。みんなの心の持ち方に大きく揺れ動く未来がそこにみえる。
戦争では犯罪にはならない。
そうなのだろうか。
だめなこと、やってはいけないことは、いつでもどこでも同じではないのか。
普遍的な悪という概念は、戦争という言葉で罪を問わないとなるのか。
そうなら、もし、そうなら、なぜだ。
何かがちがうのか。
でも、戦争の首謀者になるのは、私的には罪意識が大きいのはたしかだろう。
自国民のいのちを守るために仕方なく、加担しているのだと言えるのか。
なぜ、自国民を守り、敵国の民は殺していいのか。
本来、犯罪とはなにか。
罪を犯す。そこにルールはないのか。
政治がらみであれば、すべて許されるのか。
どこかおかしい。
そんな雰囲気から、歴史的に断罪される政治家がいつも生まれるようなのだ。
権力の亡者たるゆえんなのか・・・。
山の彼方の空遠く・・・。
三平師匠の落語だったかな。
やまのあなたのそらとおくってなんだとずっと思っていた。
彼方を知らなかったのだ。
あなたがどうして山にいるのか・・・ってずいぶん空想力がある子供だったんだ。
なにかをどこかで探す夢を見る。
風邪をひいて熱がでると、うなされる。
でも、そんなときは空を飛べるんだなって実感していたのだった。
だから、そんな感覚がとても好きな変なこどもだったのかもしれない。
今もそう変わりはしないかな・・・。
大谷翔平が足踏みしている。
二刀流とはなにか。
この百年間だれも成し遂げていない偉業なのだ。
強いチームにいれば、楽に勝てるというものでもなさそうだ。
野球の面白さを、この足踏みが語っているのではないか。
どうしたら勝てるか、強くならないと勝てない。
心理的なものと肉体的なもの、そして知能ゲームとしてのベースボールがある。
その時々の状況で、挑むという気持ちに変わりがない、ベースボールを最高の場で楽しむというまったく贅沢な挑戦をしているのだ。
もっともっと楽しんで挑んでほしいものだ。
それが楽しいからMLBが日本の隅々まで浸透しつつあるようだ。
エンゼルスの選手は、日本ではもうだれよりも有名になっている。
こどもから、お年寄りまで、みんなフレッチャー、トラウト、ウオルシュ、ウォード、ベラスケス…他を知っているのだ。
なにか茶の間にメジャーが入ってきている。
そんな難しい挑戦なのだ・・・。
東アジアはどうなる。
八月は広島、長崎、終戦へとつながる時期だ。
黙とう・・・。
そんな8月に台湾は中国領土の一部だと認めるも自主独立の民主国家・地域の一員としての台湾の姿がある。
獲物をねらう陸海空の差新兵器がぞくぞく、ぞろぞろと動き出したかのようだ。
いつでも飲込めるぞという態度に見える。
だが、支配することは難しいのだ。
古来、戦で勝利しても、統治はできないという歴史がいくつもある。
ひとびとは、民族や伝統文化をもつ集団でもある。
それらをごく一部の種族が強制的に適用しようとしても、それは無理だ。
一体全体、なぜにそんなことをする必要があるのか理解できない。
自主独立、自律がひとにとっては一番の生きがいではないか。
無理な規制や強制的な労働のために他国や他民族を支配するのならば、それは無意味なことだ。
台湾が中国の一部である事実は世界が認めていることだ。
だれも異論をはさみはしない。
それはひとつの国家が自分たちの未来を創造していく過程での選択肢なのだ。
その多様性のタネをつぶそうと策略しているとしか見えない。
中国全体の未来の選択肢はよりよい政治や政治家を選ぶことによって決まる。
だから、単なる一つの政党が国家を独占して独裁者の専制政治を極めようとしているのならば、それはだれも賛同はしないだろう。
ひとびとは自由な発想で規律ある経済と伝統文化を享受する権利を保有している。
さて、中国はどんなひとつの国家になっていくのだろうか。
台湾が中国の一部ならば、中国本土やその他の自治区も台湾が属する国家の一部である。
民の安全や生活の向上を意味する戦争ならば、それは原発の安全をも担保できないとだめなはずだ。
それを、ビルや住宅と同様の知識で破壊していく軍事作戦ならば、それは無責任でしかない。
戦争には仁義があるはずだ。捕虜の安全を保障するのもその一つだ。
同様に原発の安全や人々の暮らしを保護していかないといけないのではないか。
他国に住む自国民の解放が目的ならば、なおさらではないだろうか。
そこに私利私欲以外の何物でもないという独裁者の誤った判断が見えるではないか。
だれも賛同しない戦争を、同胞の民であり隣国の人民をなぜに苦しめるのだろうか。
過去の栄光を栄華をどこかで欲しているのか、それとも単なる独裁者、裸の王様になりたいのだろうか。
最低限の仁義は戦においても、もちあわせないと戦争をする資格なんてありえないのだ・・・。
企業で働いている人たちは、最低賃金なんて気にしていないだろう。
能力不足の人たちが、その対象だなんていうのかもしれない。
とにかく眼中にないだろう。
だが、はたらくことに集中すれば、どんな仕事でもいいとなれば、いや、すべてやれる仕事をやってみようとか思えば、その対象はほとんどが日雇いの最低賃金が適用されるだろう。
だから、おおいに関係する。
少ない賃金で働くという事実が教えてくれるものがある。
それは、なんとより効率的に働かせるというものだ。
少ない報酬で二倍なんていうのはないだろうが、正規採用者の半分で二倍の労働ならば、効率はどうだ・・・。
だから、非正規の労働は、きついことになるのではないか。
やれなければ、簡単に首にする。
安価な労働者は、きわめて営業成績に貢献しているという事実のようだ。
てっとりばやく収益を上げる、つまりコストを削るには労務費を圧縮するとなる。
こき使われる非正規の最低賃金労働者の悲哀は、どうもこの辺の経営者の心理にありそうだ。
いや、経営者だけでなく、正規労働者の心理も同じ穴のムジナかもしれない・・・。
ふと、思い出す。
自由に仕事を選べる時代がきたのだと、おふくろがいったのだ。
そうなのか。そう私は思った。
今、確かに仕事は選べるが、実際にそこで仕事ができるかとというと難しい。
競争がある。数が多くなれば、やはり弱者ははじかれる。
でも、ほんとうにやりたいことってあまりない。
周りでこのしごとはいいとか人気があるとかで決めているひとたちがほとんどだからだ。
だから、自分のやりたいことは何かをよく考えることだ。
能力の優れた人が常に情熱を自分よりもっているかというと疑問なのだ。
すべては、いやほとんどは自分との闘いであると私は考えている。
やりたいことのない時代には、さて、どういうことばを付け加えるべきか。
あの熱い日差しの中で思うのは、なにか。
冷たいかき氷だ。
すっと暑さが消えそうなそんな気分になる。
皮膚の感覚が私たちの内臓にもある。
からだの中の腸は、身体表面の皮膚と同じなのだから、つめたさが暑さを吹っ飛ばすにちがいない。
夏の太陽がくれるかき氷のイメージは、忘れがたいものだ。
湧きたつ入道雲とイチゴのかき氷はなんとも浜辺の海の色とともにこころの中に冷風を飛ばしてくれそうなきがする。
最近のコメント