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2022年12月

この一年を振り返る

なぜなぜ問答は、ウクライナ侵攻だろう。

なぜ兄弟姉妹のような国同士が攻めあい殺し合うのか。

それも一方的に併合しようとしているし、一部クリミアは数年前にに併合している。

その過去の旨味に舌鼓をうって二匹目のどじょうを狙ったのだろう。

そうとしか思えない。

一瞬のうちに奪い取って「あっ」と言わせようとした節がある。

ロシア正教を言いくるめて、正当化しようとしているし、同盟国を従えようと躍起になっている。

そりゃ、ソ連の頃の国々が独立して西欧諸国の枠の中に入っていく姿をただみて送るのはさみしいだろう。

だが、世界の経済大国8か国に入ってロシアが欧米諸国と足並みをそろえて世界平和に貢献していたのではなかったのか・

冷戦時代は袖も触れあわなかったのに、なんという急激な近接だったのだろうか。

外見だけで中身が伴わないと・・・いうことだったのか。

必要な軋轢なのかもしれない。

だが、そんなことはないはずだ。

他の大国はいざ知らずロシア連邦は、知的水準が高いのは一目瞭然である。

そういう民がいながら、なぜに敵対主義で対立を激化させるのか。

仲間外れということか、村八分なのだろうか。

そういう感情を抱く指導者がいるからではないのか。

経済的に世界のリーダーの一つであるはずなのに、かつてのシンパが離れてゆくのが許せないのだろうか。

やはりリーダーは民衆の知恵で選ばないといけないだろう。

狂ったリーダーは国家を疲弊させる。

逃げ出す民衆を追ってもそれは無駄だ。

民意が離れたとしれば、近隣諸国も信頼を手放すだろう。

いじめの時代はなくならない・・・とでも言いたのだろうか。

話し合いで解決しなければ、次の世代はやってこない。

おじさん大学行くのはなんのためだ

なんのため?って問われたらどう答えるのか。

そんなこと自分で考えろだろうか。

それともまともに相手がうなづく答えがお前にはあるのか。

そりゃ、ないと言えばうそになる。

生きたいと思う気持ちを満たすため・・・ではないか。

そういう希望があれば、自分の気持ちに沿う行動をとるべきなのだ。

でも、世の中はそう単純ではない。

家の経済的な余裕がなければ、決して今の時代でもこどもは大学にはいけないのだ。

自分で稼いでいけばいい・・・と言えるだろうか。

みんなが自分で決めた望みをかなえるためにできる世の中に、まだなっていない。

学ぶことが社会を強くしていく最大の私たち大人の力ではないか。

こどもの学びを如何にして最大にしていくかが今問われている。

コンプレックス

みんなが持っているものなのか。

私のものはなにか不気味なほど大きかった。

なので隠している。

こころの片隅にいついている。

時々顔を出して存在感を示すのだ。

その時々で私は、それを追いやってきた。

どうやってかというと、自分を大衆の中のひとりにしてしまうのだ。

おれは私ではない・・・。

社会の人間の一個として生きているとするならば、いくら雅の強い私でも、俺をコンプレックスのために攻撃することはできない。

だから、今もこうして生きている。

世の中は年末のようだ。

おれはコンプレックスを軽視しているわけではない。

それはわかるだろう。

だれのこころの中にもあるものだから、わかるはずだ。

なぜ戦うのか

戦争はどうして起きるのか。

なぜだろうか。

みんなで議論することはほとんどない。

だから、戦争に突入してはじめて、早く終わらせようと思う。

しかし、簡単にはいかない。

敵がいるからだ。

味方のために戦うことが不可欠だというのだ。

終わるには、敵を壊滅させないとならないのだ。

これでどう終わらせることができるのか。

なぜ戦うのか。

なぜだ。

この答えがどうしても要ると私は思う。

なぜだろうか。

始めてしまったら、後悔先に立たずっておふくろがいつも言っていたではないか。

なぜ、その前に・・・。

いつものルーチンに陥る。

始めないことだ、だって、今、俺たちは戦争をしていない。

いや、脅威は増しているらしい。

で、どうするのだ。

やっぱり、始まらないと分からないようだ。

 

愚かなリーダーの間抜けな外交

今、私たち地球市民が注意すべきは、間抜けな外交がもてはやされることである。

そこには愚かなリーダーがいる。

常に構図は同じだ。

執拗に権威にこだわり続ける。

老齢化すればするほど、頑固になるのは世界中おなじようである。

地球を守る。

なんのためにだろうか。

豊かな自然の中で稀に得たおのれのいのちを全うする。

それはひとも、ほかの動物や植物である生物すべての心根ではないか。

かしこい仲間とかけがえのない豊かな暮らしを送る瞬間なのだ。

一瞬のいのちをどう生きるか。

地球の自然の中で、目をつむることができれば、それは最高の一生であろうか。

物怖じしないキャラ

なんともまぶし気なことばではないか。

何も恐れることなく、自由な雰囲気を感じる。

しかし、ちがうだろう。

目的があるから、そこから外れないようにしているのだろう。

そう、私は感じる。

ひとは自由であるほど不自由なのだ。

私は自由だとか思う時は、かなりしんどい心理の時でしかありえない。

そこのステージでは、そうする。

決めたらひとは強い。

そう言われるひとは、かなり繊細でいつもおどおどしていることが多いはずだ。

そして、一度目的に近づくと、分かるのだろう。

だから、堂々として挑んでいる姿に、周りからはそう見えるのだ。

だれだって、つまづく。

そして立ち直る。

一歩下がったら、二歩進むことができないことは多い。

どんどん、どんどんと後ずさりなんていうのは、よくある。

物怖じしない性格でも、そこには繊細なたましいがある。

祖国と家族を守るために戦う

最近の兵器は簡単になっていて高性能だ。

車と同じだ。

とくに耐力は必要としない。

そんな風にへんかしてきている。

とすると、重厚長大路線なんていう富国強兵の時代は古のものだと言えそうであr。

仮に、みんなが祖国と家族を守りたいと思えばどうする。

女性兵士が増えているという。

こどもの軍隊なんていうのもあるらしい。

小さいころから軍事訓練で銃器を扱うことが奨励されているらしい。

徴兵制度のある国々が多いのも事実だろう。

なぜだ。

戦争はなんのためにやるだ。

政治家の過ちを正すために国民がいのちを投げ出さないといけないのだ。

闘うのは主権在民なのだから、国民なのだ・・・という。

軍事費も同じだろう。

闘う兵士もしかりだ。

でも、目的ってなんだ。

みんな祖国と家族のためだという。

それは敵国という存在そのものが誤った考えではないのかと疑問を呈している。

なぜ、戦うのか。

家族のためだと本当にいえるのか。

言えない。敵も味方もない。

どっちも祖国であり、家族のいる国家なのだ。

闘う意味はない。

ましてや殺し合う意味とか意義なんてない。

侵略されたらどうする・・・。そんな愚問を掲げるのはやめよう。

もうやめよう。みんないのちを全うしよう。祖国と家族のために・・・である。

敵も味方もないのだ・・・。

最終回のドラマ

エンディングをどうする。

こりゃ、大変な問題だな。

それで、明確に印象が変わるのだから、大変だ。

制作陣は、多少なりともではなく、評価を気にする。

視聴率とともに評判が独り歩きする。

それが気にならない製作者はいない。

だが、それは印象が個々に違うということを頭に入れておこう。

どこに焦点を絞った作品なのか・・・が、大事だと私は考えている。

大衆に受け入れられるものは、たしかにある。だが、需要はどうか。

様々なひとがいるように、そこには多様なニーズがある。

ドラマの最終回を見たいと思うのは、その辺の考えや方針がまとめられていると信じるから、そこを覗いてみたいと思うのだ。

防衛力強化の議論

戦争放棄。そうではなかったのか。

戦力は防衛力と同じ意味であろう。

とすれば、どうなんだ。

やっぱり放棄したものを元へ戻すことではないのか。

攻めて来いよ、反撃すっかならな。

これでは、戦を吹っかけているようにはならないか。

なんとも議論すれば、どっかから参戦の必然性がでてくるようなことを期待しているのだろうか。

もちろん、攻撃されて、さあさらにどこまでもどうぞとかいうのは、癪に障るものだ。

敗戦処理しか戦争放棄には見当たらないのか。

勝つ方法はないか。

戦争は放棄する。そして、攻撃されたら相手を敗戦に追い込むことはできないか。

ほんとうにないのか。

闘う意思はない。

そのために外交努力をしているのではないか。

勝利に優ものを相手と味方で手にできるなんていう状況は作れないのか。

議論の方向性がずれている気がしてならない。

いい方法はないか。ベストなくていいのだ。

相手を説得して攻撃させない、もしも仮に攻め込んだらどうなるかのイメージを強く現実的に構想できるのではないか・

ひとの暮らしを脅かしてはダメだ。

だれかが言わないとダメだ。

 

何を伝えるか

あなたは何を伝えたいのか。

それを待っている人がいるのか。

いなければ、そうしないのか。

いるから、そうするのだろう。

もちろんだ。

それならば、ちゃんとやらんどいかんな・・・。

できるか。それが・・・。

できるのか、お前に。できるのか。

衰えは急に襲う

えっ、あっ。この言葉がついつい口からでる。

そうなのか。

死亡というより、そうでなかったのだ・・・。

そういう想いが大きい。

だれかがいつの間にかいなくなる。

そりゃ、さみしい。

みんな同じだ。

偉い人も、そうでないひとも、なにもないひとも、うまく生きられなかったひともみんな・・・、みんな死んでいくのだ。

急ではないのだ。

いつの間にかなのだ。

生れたら死ぬのだ。なんどこのことを想っただろうか。

ひとがなくなるたびにそう思ったはずだ。

そして、己のことも同じだと十分に知っているはずだ。

でも、できれば当分は例外扱いにしたいというか、いつも俺は違うかもしれない・・・というところで終わる。

なんも変わりはしない、例外でもない。

それがひととしては一番しあわせなのだと、私は知っている。

限界は自分で決める

だめだ、だめだ、だめだ。

まあ、この言葉は3回が限度だろうか。

ほかのことにも同じようなことがある。

いつまで生きるか。

これは、よくわからない。

もう死んでもいい年齢なんだとか思うときりがないので、だれもが今がいちばん若いという事実に寄り添っていきるのがいいようだ。

そうしないと、まだ生きているってなる。

冗談だろうといっても、それも客観的にはあり得る話なのだ。

限界は決めたとしても、そこがいつかどこかさえ分からない。

ある種さまよう旅人のようなものか。

 

駒野さん再び蘇る・・・

みんなの脳裏に刻まれているのだ。

今回は、3人の選手が同じような運命で涙を流した。

しかし、その衝撃はすごいものだとあらためて知った次第だ。

普通なのだ。PKでの成功失敗は運しだいだとプロはみんないう。

どうも、なにか他の手段、手法があるならば、だれもペナルティキックは回避したいと思うはずだ。

だから、PKはじゃんけんと同じようなものと考えればべつにどうということはないのだ。

じゃんけんも強いとか弱いとか言われるが、そんなのは嘘だ。

いわゆるかけなのだから、それは偶然でしかない。

キーパーの頭の中とキッカーの頭の中での交錯がどうなるかだけなのだ。

一流プロ野球選手のホームランを打ったり、三振をとったりという駆け引きとは違うだろうが、とても似ている気がする。

とすると裏の裏をかけばどうなるとかの駆け引きに繋がりそうではある。

駒野さんの偉大さが見え隠れする。ありがとう・・・。昔も今もPKを担った選手にそういいたい。

お疲れ様でした・・・

よくやった。

日本中が、楽しんだ。

だって、死のE組で一位通過なのだ。

だれが、責められようか。

勝ち方が素晴らしかった。

敗け方もすごかった。

ワールドカップの面白さをこれほど身近に感じたことはない。

なんといってもできればブラジルと対戦してもらいたかった。

ネイマールはなんか特別のようであるが、同じピッチで日本選手の堂安さん、三苫さん、鎌田さんなど・・・。

どういう見方ができたのかと期待されるものだった。

パフォーマンスが多分互角であるのではと思っているのだ。

でも、次の機会に楽しみにまっていることにする。

 

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