雨の日
ああ、いやだな。
雨だから、今日はやめにしようかなんていう安易な気分ではだめなんだよな。
雨でも風でも、暴風雨でもひとは働いているのだ。
だれかが、そこで懸命に働いている。
ありがたいと思う。
でも、それと自分のケースでは違うという感じが生ぬるいのだ。
そうではなく、なんとかしなくてはいけない。
いやいや、だれかがやっている。
自分がそういう立場のこともある。
だから、どうする。
交代で順番に社会のために働いているのは、自分のためになる。
ここが正念場なのだ。
生きているってことは、この時間と空間を共有していることなのだ。
戦争を仕掛けるプーチンもそれを拒むゼレンスキーも、その他多くの関係者もみんなが共有しているのだ。
責任と義務も同じではないのか。
ひとりが狂気に侵されているのは、だれかのせいだと言えるかどうか。
社会の責任ではあろうか。
時代錯誤という狂気なのではないか。
今の世界がかなり自由である証拠かもしれない。
しかし、一部の弱者が理不尽な暮らしを強いられるような世界はやはりおかしい。
平和な田舎の暮らしをなぜ蹴散らそうとするのか。
時代錯誤ではないのか・・・。
どう終わらせるのだ。雨の日はいつか晴れるが、また雨は降るから仕方がないとあきらめることでいいのだろうか。
反省という反省をなんど繰り返しているのか。
ただ、ただ中身のない反省ではため息と同じではないのか。
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