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2023年6月

思惑

ちがってしまった。

思惑って、もともとそういうものだろう。

ちがって当たり前ではないのか。

プーチンというひとが自分の思惑でいろいろと勝手なことをしてきたのだから、このあたりで再認識し反省なんていうのがいいのではないか。

そうしないと崩壊するはずだ。自己崩壊っていったかな。

悪人は、悪事を働くことによって壊れてしまうってことだろう。

いくらごまかして悪人は悪い人でしかない。

相手がわるい、俺は悪くないと突っ張ってみても、他人ではなく自分の判断なのだ。

あんたよりも悪い人は世界には万といるだろう。

でも、そこを認識しないのはおかしい。

世界の大国のリーダーたるものは、いわゆる英雄のはずなのに、だれもそうは思わない。

切ないだろう。

だって、行動が伴わないどころか、おかしいのだ。

WWIIの悪者は自害した。それは、小数他民族を敵視したり、その人権を踏みにじるという行為がおかしいのだ。

普通ではないことを、当たり前と思いこみ他者に強いるという越権行為が国家がらみになっている。

公私混同という定義の見本のようなものだ。

そんなのは私利私欲の一端なのだろうが、国家という、それも世界の大国のリーダーのことなのは、恥ずかしい限りである。

普通でいいのです

とくにつよくもなくよわくもなく、そんなこどもでいい。

わたしは、おまえはなまえをかければ、それでいいといわれていたのだ。

どういう魂胆なのだろうか、私の親は・・・。

健康で普通に人生を贈れよなというメッセージだと今は十分わかっている。

こどもごころに、名前を書けるようになるだけで、俺はそれで十分なんだなと思ったりした。

ひねくれてしまえば、それでいろいろなことに理屈付けできそうだ。

今はよくわかる。

ふつうでいいんだよね。

多分、どんなひともふつうに生きるのが一番幸せだということを知っているはずだ。

稀なひともまた、そう、俺は私は僕は普通だと思っているはずだ。

なんだか安心しないか・・・。

 

リーダーの資質なきものが支配する世界はどうなるのだ・・・

国家のリーダーとは何か。

地方都市のリーダーとどう違うのか。

どっちにも共通するのは何か。

そこに棲む人々の代表なのか。

ちがう地域の人々の意見が異なるのは利害があるからだ。

そういうものをどうやって調整する。

八方美人では立ち行かなくなる時が来る。

どうする・・・となる。

もちろん、自分の主張を常に通すだろう・・・、ちゃんとしたリーダーならば。

でも、ちゃんとしてなかったらどうなる。

支離滅裂になる。理不尽だと罵声が飛ぶ。

混沌となる。

リーダーの資質とはどんな時でも、そこにある事実に答えることである。

なにかに取りつかれたような言動で多くの民を恐怖に陥れて脅迫するような権力を持つものがリーダーに誤ってなったらどうなる。

世界にいっぱい事例がある。

そこから、これからの戦争のやり方、争い方を学ぼうではないか。

ただ、社会のシステム、国際的なリーダーの資質についての言及は少しも進まない。

旧態依然が続く。それが世界の今いる多くの民の真意なのだろうとしか言えない。

そんな力はない。そんなないものねだりをしても意味はない。

みんな政治や社会システムの構築や創造という大切な輪から遠ざかることで、答えを見つけ出そうとする。

逃げる。知らないと拒否する。

それが現状の悲惨な世界を招いている・・・。答えはないのか・・・。

綴り方教室

なんでもっと早く綴り方教室へ通わなかったのだろうか。

文章なんてそんなもの日本人なら、いやどこの人でも言葉をもっていれば、書ける。

いや、そうじゃないのだ。

言葉があっても文章は違う。

文字が加わる。

つまり情報を書き留める。

つまり考えをまとめて綴ることで後世に残せるのだ。

心理や精神活動としてのなんらかのことを書き留めることで資料になる。

これはすごいことだ。

人間心理なんて、だれも興味を抱くことだ。

他者がどんなことをどんなふうに想い、語っているのかを、時を超えて知ることができる。

綴り方教室って作文というのとは違う・・・。

とどのつまり

とどのつまり、あくはかつ・・・のか。

いや、こたえはひとつではない。

かてばかんぐん、まければぞくぐん。

どこのよでも、いつもおなじではないのか。

とどのつまり、ひとのおこないはいつもしたたらずなのだ。

リスクをとる

安全第一といいつつも、ヒトはなぜか危険を楽しみたいなんていうことをいう。

ひとつのことをするのに危険は常につきもまとう。

だから、避けてばかりではだめだという論理もある。

みずから、そこへと入り込む勇気が要るという説である。

その肝試しのためにヒトはそういう行動をとる。

でも、だめなもの、危険なものはダメなのだ。

安全だと言われても信じてはいけない。

ひとは圧力との闘いで自然を制圧したと思っているかもしれないが、そんなことはない。

自然の法則の入口を覗いているぐらいのものではないだろうか。

ヒトはなんでもできる・・・。

それは嘘だ。ありえないことだ。

もっと真摯に自然と向き合うことが、ヒトとして生きる道ではないか。

日本の軍国化論争

そんなものは新聞をにぎわしていない。

それでいいのか。

戦争反対ではないのか。

自衛隊は軍隊ではないのではなかったのか。

攻撃は最大の防御だという論理を主張すれば、その辺の議論は論破できそうではある。

だが、かつて世界に馳せた軍事大国という自負はその程度では収まらない。

もともと戦闘力の高い民族だというではないか。

ちっぽけな島国がなにをいうか・・・という議論は今はもうない。

米国に敗戦した国の日本は軍備なんてありえない。

そもそも米国が許さないはずだ・・・。

そこが鬼門のようだ。

そこが青信号になれば、堂々と再軍備に走るかに見える。

周りの意見に従うというのは屁理屈でしかない。

反対が賛成に寝返るという魂胆は何か。

傀儡という難しい漢字がこの頃新聞に現れだしたようだ。

それが何を意味するのか。

強いやつらは弱いおとりを使うという・・・。

我が国の軍備強化は、そういう図式に乗せられている気がする。

ヒトの好奇心

宇宙へと新時代の覇者は胸をおどらせていたという。

20年ぐらい前の話だ。

投資は宇宙産業へ・・・。

それが時代を担うリーダーたちのキャッチフレーズだったのかもしれない。

宇宙と深海。

どっちもヒトの好奇心をむしばむには十分のようだ。

海は地球の中にある。

もちろん宇宙の果ての新たな地球に似た惑星にもあるだろう。

どこへ行っても圧力の濃度のプラマイによって冒険はあるに違いない。

酸素がないと生きられない。

圧力差に絶えないと生きられない。

ヒトはそんな究極の状況に興味をそそられるらしい。

日常にはないものを常に追い求める姿がそこにある。

代替しうるものとは何か

新たな技術は古いものを淘汰するだろうか。

バイクは自転車を滅ぼしたか。

包丁は、電動調理器で駆逐されたか。

炊飯器は、日本からご飯を炊く窯をなくしたようではある。

鉄瓶はケトルの追撃で消滅したか。

伝統と文化に関わるものは残るようである。

しかし、伝統文化そのものが忘れ去られている社会では、難しいかもしれない。

人の脳は数値制御できるようになるか。

自分の脳を操れないものが他者の脳はコントロールできるなんていうのは、おかしい。

国家と家庭とか、世界と国とか、どっちかがだめなら、両方だめではないのか。

支離滅裂になる社会では、混沌が幅を利かすのではないか。

理路整然としない、理不尽な屁理屈ができないと、生きてはいけない。

なぜ規律を求めるのか。

世界平和のために戦争をするのか。

軍事力を放棄するとどうなる。

攻撃されて滅ぼされる。それでよいというものはいないだろう。

でも弱い奴は駆逐されてしまう。

反発できるとするとそいつが元凶に変わるだけの社会システムではどうなのか。

虎視眈眈と力の差で攻める。

言論なんて自由にさせない。

弾圧する。すべてを制してこの世を支配する・・・。

そんな妄想が平然と世界を凌駕している。

我こそ善人なりという。

相手は極悪人だという。

とばっちりの来ない世界で死ぬまで暮らせればそれでいいとしかいいようがない・・・。

しょうがない世界に私たちは生きているのではないだろうか。

何かが人類を代替することになる必然性が愚痴となってでたのかもしれない。

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