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2023年7月

トレードオフ

二律背反ということらしい。

元々、日本ではあまり使わないトレードという言葉が実は世界では大手を振っているのだ。

できるかどうかがまず問われる。

そこでトレードってなんですかなんて問うたら、アホと言われそうだ。

それでも勇気をだしてトレードオフってなんですか、ちっともわかりません。

聞いたことがないのです・・・。

M&AとかMBOとかも同じだ。

どうもトレードに関係しているらしい。

これらもそうなのだ。

様々な場面で取引が行われる。

それはビジネスということでいいのかな・・・ってところまでは分ってきた気がする。

でも、こんなニュアンスの本当の意味を子供のころから当たり前にきいて育ったのならば、頭の中に当然のこととして存在していたはずであろうか。

オフがあればオンもある。

アウトもあればセーフもきっとあるはずだ。

 

才能があることは確かだ・・・

生徒はできの悪いほど、先生にとっては意義深いという。

かわいいと思わせるのだろうか。

才能がある。

それは子供のころから突出する存在にさせる。

だから、みんなが注目する。

子ども自身はいつぐらいから、才能を意識するのか。

ないのを意識するのはだれにもある。だが、天才かもしれない。

生まれつきのものがあるなんていうと可能性をどうイメージするのだろうか。

神童はこの日本だけでも数多く存在するはずだ。

それが世界となるとどうだろうか。

もうすごい数だ。

だが、ほとんどは路傍の石でしかない。

普通のこどもはだから、なんの取り柄もないということだろうか。

普通か馬鹿か・・・。その境目をうろうろしている。

そして普通のこどもたちは、周りにいる輝く才能を持つこどもをすぐに見つける。

いや目立つのだ。

すごいな・・・としか思いはしな。

自分とときどき比べては、やっぱりちがうとしか見えない。

そんなもやもやの中で、子ども達は育っていくのだ。

自由をどう定義するか

それが問題だ。

もしも自由があれば、いろいろなことができる。

そうだろうか。

不自由だから、自由を欲する。

自由ならば、何を欲するだろうか。

不自由さを求めるのではないか。

それでは本末転倒ではないか。

自由とは、己の意思で行動することだと私は考えている。

だが、自分という自己がこの私の自由を妨げる原因であることを知っている。

不自由の定義を示してくれれば、容易に自由を定義づけできるなんて言うこと自体がおかしいのだ。

 

一緒に乗り越えましょうの意味

希望を持つことは、絶望のさなかにある証拠だ。

そこから、どうするか。

もうダメなのにそれでもまだまだ生きているし、生きていきたい。

それが本音だ。

でも、現実はすべてを否定するのだ。俺の心の中にあるろうそくの炎が消えてしまう。

風が吹けば、どんなちいさな空気の流れでも消え去るような気分だ。

いや、もうだめなのはわかっている。治らないのだ。

それで何かの望みをもっていたい。

自分で捨てるものではない。しかし、気持ちはそんなに単純ではない。

否定の否定の否定の・・・、そういう中での肯定をどう己のこころを説き伏せるのか。

心中はもう嵐の中でも闇でもあり、混沌としているが静寂もあるし、結構落ち着いてもいるし、わけのわからないものだ。

わらにすがるきもち・・・がそういうものだと・・・。

こんな経験、だれにもさせたくない。

おれだから、なのか。なんでおれなのだ。

お前ならそんな仕打ちにも耐えられるとかなんとかいってんじゃないよ・・・。むかつく・・・。

そんな心境で日々を過ごす。あと何日・・・。

この世の中にどのぐらいの数の人々がいろいろなことで悩み苦しみ絶望を味わっているのだろうか。

せつない気持ちというのが身に染みても、現実はなんら変わりはしない。

現実は現実なのだ。

そこはしかたがないのだ・・・。

このぐらいのことしか言えない。

若い盛りにいのちを奪われる気持ちが、私にはわかる。

そんな28歳の元プロ野球選手の冥福を祈る・・・。

次の世代のいる理由

今だけではない。

この地球号は、次の世代をのせて飛んでいかないといけないのだ。

だから、今まで俺たちがもらったこの地球を新たな世代へとどんどんと受けついていくようにしないといけない。

そこで原爆投下とか平和利用の原子炉爆破とかで放射能まみれの地球号にしていいのか。

イエスなんていう人はいないはずだ。

ただ、脅しを用いて使わざるを得ない状況にみずからを追い込んでしまっている愚かなリーダーがいるのは事実だ。

理由を考えよう。

あんたの地球号ではないのだ・・・。

みんな次の世代へとバトンタッチしていくたものものなのだ。

拉致被害者の救済をどうする・・・

手立ては何かあるのか。

話し合いだろう。

小泉総理が当時、安倍福官房長官を従えて訪朝したのは、未だ忘れはしない。

面子を保ちながら、どう糸口を見つけるのか。

本来の拉致の目的はなんだったのか。

テロ国家の目論見は何だったのか。

ウクライナの子ども達をロシアが連れ去っているのと似ているのか。

こども時代を途中で奪うなんていうことがどうして許されようか。

どんなメリットがあったのか。

はやく早くもっと早急に返せと主張していかねばならない。

パスポートには、我が国国民を守るという趣旨が記載されている・・・。

話し合いは、無意味なこともある。

ロシア大統領のプーチンは今、思えば当時の総理の思惑とは別に、なんか半端な態度であったのはいがめないだろう。

暖簾に腕押し状態だったと私は感じている。

そんなこと話し合いにちゃんと乗ることはなかろうという前提での「話し合い」(偽物)でしかなかった。

手玉に乗せられて踊った・・・。躍らされていた。国内向けのカモフラージュってことか。

この拉致は、しかし、それでもいいから、被害者の側に立ってただただ主張を続けて強化していくことだろう。

信念を懸けて話し合いの場を作り上げていく・・・。

熱意が見えない・・・と感じれば、そんなやばい話し合いに乗ってくるような手合いではないだろう。

でも、弱点はそこにある。

なぜ、そういうところを相互に補完しようと協力できないのだろうか。

ヒントがなにかあるはずではないだろうか・・・。

 

日本は危険か

一国の前総理が、手作りの銃で撃たれて死亡してしまう。

一国の現総理が、手製の爆弾で生命を脅かされる。

組織的な犯罪者にとっては、なんとも言えない状況ではないのか。

この国は果たして危険なのだろうか。

疑問だ。

リスク対策が真にしっかりとできているのか。

あるレベル以上には対処できるが、素人の無謀な計画には無力なのだろうか。

そんなことでいいのだろうか。

米国の例でも、同じような状況があったらしい。

オープンカーでの訪問時に狙撃されたのはケネディ大統領だった。

その後もいくつかの類似例があるようだ。

日本の社会は、はたして安全で安心な生活を営むことのできる実状にあるのか疑わしい。

でも、だれもほとんど意識していない。

クライシスには対応できるがリスクにはなんとも脆弱な社会だといわねばならない。

主語と述語

なんと文法というものを私はほとんど意識したことがない。

国語の教科書に文法という部分があったのだったかも定かではない。

英語の文法はグラマーとかいっていたな・・・というぐらいか。

日本語にも同じように文法があるのだろうかと、逆の発想であった気がする。

同じ国のひと、つまり日本人の定義ってなんだろうか。

外国人の定義を知って、逆に同国人を知ることになった気がする。

外見での判断がその主流だった気がする。

しかし、現実に優れた才能の持ち主が決していわゆる日本人ではないことが多い、

違和感のない日本語をそれも流ちょうにしゃべる。

当たり前だ。日本人なのだから、外見で判断することの無知さを知らされた気がした。

男女の差も同じではないか。

ヒトとしての性差でしかないのだ。

生き物としての、動物と植物なんていう区別も曖昧ではないだろうか。

生命体とか、知的さとか、宇宙での判断基準はどうなのか。

餌としての他の生き物という位置づけはどうなのか。

悪いことだろうか。

友達としての位置づけだろうか。

食われてしまって、その過酷さを知るなんていうことで良いわけもない。

では句ってしまったあとで、すごい知的生物だと知ったらどうする。

その後の態度にどういう変化がでるか・・・。

主語と述語の定義を見直そう・・・・

 

はてさて・・・

期待通りの働きをする。

そんなヒトはいるだろうか。

期待したことをその通りにやりこなす力があるというだけの評価ではないか。

現状を打破しないと、新たな挑戦はできない。

だから、そのまま、その時々の期待に応えるだけでは意味がないのではないだろうか。

ちょっとうやむやな文章になるのは仕方がないだろう。

だってだれもやったことのないことをやろうとすればそこには考えられないほどの軋轢が生れる。

手がしびれるというよりも、手が腕がもぎ取られるという表現に近いのではないか。

それを周りができるだろうと軽くいなしているのは、一体どういう状況なのか。

王選手だっていつもいつもホームランをぶっ飛ばしていたわけではなかった。

また、打てない、今日も打っていない、明日はどうか・・・。

そんなことばっかりだった気がする。

はてさて、新たな未来を築きつつある勇者の場合はどういう視点で見守ればいいのだろうか。

むずかしい・・・。ひいきの引き倒しはしたくない・・・。

この時代の課題・・・

なんで殺し合うのか。

ずっとそうやって世の中は回ってきたらしい。

詳しいことは知らないが、策略や謀略に長けたものが牛耳ってきたようである。

勝てば官軍、敗ければ賊軍とはよくぞいったものだ。

正義は勝つというもの同じ理屈だ。

邪悪は滅ぶというもの同様だ。

では、なぜ邪悪はいつまでも残り続けるのか。

そこが問題であろう・・・。

その答えは、ひとのこころに宿るものだからである。

永遠になくならない。

正論としての邪悪は正義ではないようだ。

でも、正義論が存在するには、邪悪の存在が常について回ることになる。

悪に支えられて正しいことがある。

なんとく納得いかない論理でしかないが、正論でもある。

じゃどうすりゃいいのだってことになる。

この時代の課題は、いつまでも子孫代々受け継いでいくことでいいのだろうか。

私はそれでいいのだと思う。なぜならば・・・。

エンゼルス

大谷選手が打つ。

大谷投手が投げる。

特別楽しいものだ。

そして、その裏には二つ不安がある。

楽しさはそういう不安を期待をもって見守るというメカニズムにある。

だめかもしれない、今日はダメだろうか・・・な。

見るのをやめようか。それとも続けてみるか。

見ないと勝利があとで分かったりすることが多い。

でも、今日は、敗けそうだから、この辺で心のダメージが増えないうちに見切るかな・・・。

そんな葛藤がいつも頭の中で忙しく駆け回る。

最後までみて、ああ、勝ったか、やっぱりだよなと一人合点だ。

そんなときばかりではない。

この頃あまり勝てない。

多くの大打者の周りには、同じぐらいの才能を持つ勇者が大勢いるのだと知る。

チーム競技とはそういうものだ。

ダメな時に支援できる態勢がないと、独りのヒーローは生まれもしないのだ。

スーパーマンはいない・・・のだ。

ちがう星から来たのだから、その生物としての能力も違うのだ。

同じなのは人間という姿形だけなのだ。

さてさてどうするエンゼルス・・・。イエヤスに聞けってことかもしれないな。

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