いのちの要素
生きていると実感するのは、どんな時か。
ああ、生きている。そこに主語の俺があれば、たしかにそのひとはそう思っているなと分かる。
いのちは持続しているかぎり、生きているということだろう。
いのちが停止するの意味はなんだろうか。
もちろん、死である。機能停止である。
ヒトはだから、魂は生きてるとかいう。
どこにいきているのかというと、残っている人たちでしかありえない。
もともとの魂の持ち主は機能停止しているのだから、保持しているとはだれも言えない。
他者のこころに記憶として当分のあいだは残るということが「魂」ということだろうか。
しかし、残されたものにも常に持ち歩くのは少々、しんどいから、位牌を仏壇に飾ることで、盆暮れに、死亡した日に思い出すことになっている。
いつしか、忘れ去られる。
人類の紀元後の年数は2023年でしかない。紀元前もいれてもどうだろうか、一万年ぐらいのものか。
後は、遺跡にある足跡であろう。
今の技術で心配なのは、そういうものがどこに蓄積されて残っていくのかである。
多分、廃棄物、いわゆるごみ処理場ではないのか。
貝塚とかいうのは古代のごみ処理場である。
だから、太陽系のゴミ置き場はどうなっていくのかに興味がある。
人工衛星が月と同じように残るのか、それとも主となる星に吸収されてどんどんと大きいもに巻き込まれて、最後はブラックホールの中へと没入して、吐き出されて新たな星へと生まれ変わるのかもしれない。
こうやって徒然なるがままに記したものは、どこかへ、どんな保存方法をとっても消滅してしまう。
いのちの要素はだから、単純簡潔なものになっているのだろう・・・。
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