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2023年10月

いろいろな資格試験のいきさつ

たしかに資格はないよりはあった方がいい。

だが、なかなか難しい。

仕事をしながら、資格をとるひとは多い。

それは、役に立つからそうするのだと、私は思う。

仕事をするには、日々の鍛錬が不可欠だ。

そうこうするうちに力が付くというのが実態だ。

でも、記憶能力とか思考能力はワンパターンの業務をこなしているうちに単純化して住み着いてしまう。

刺激がないと、いけないのだ。

でも、その刺激が日常業務には不用なことが多いのも事実だ。

一度なれて覚えれば、それでいい・・・。

そうなのか、どうなのか。

試験は受けないと合格しない。

受けてもちゃんとその合格要件に叶わないと落第する。

では、どうする。

ちゃんと要件を理解して日々の業務の中で使いこなすというプロセスを使うことだ。

仕事ができて、資格も取れるようになる。

そうやって、職場の新陳代謝が進むとすれば、それはすごいことではないか。

コンサルティングのできるエンジニアが今は少なくなっている。

諸外国に比べて、製造業が主体の産業が、そういう世の中を形成してきたのだ。

重厚長大という産業構造が基盤になっているこの国の社会が今、変化している。

国際的な業務の遂行システム、思考システムを取り込んで、挑みつつあるのだ。

なかなか・・・浸透しないのが、実態だ。

一流のエンジニアでも、世界的な学者でも、己の世界に入り込んでばかりでは、社会全体の発展は困難なのだ。

それぞれが、その己の考えである方向を目指して進んでいける社会が少子高齢化を活かす世界を築くのではないだろうか。

AI人間

知識はAIで確保するから、人間はその容器になる。

これでいいのだろうか。

心身健全な姿が一番である。

こころが未だ十分成長していない時、身体ばかりが大きくなるというアンバランス、いやインバランスが起きる。

当人は戸惑う。

もしもAIで全ての知識がアップデートされた状態で自分がそこに存在するとなると、どうだろうか。

みんなが同じ条件なら構わないかもしれない。

しかし、自分だけがそれを持っていないとか、自分だけが装備しているとなると、その違いは明確である。

でも、そんなものが評価に値するのか。

比較評価の対象となりうるのか。

疑問である。

いつも国会で恥ずかしい日本語を披露してしまう政治家は、公衆に罵倒されてしまう。

でも、なにも反省なんてしない。

知識なんてそんなものという姿勢なのだ。

でも、正しい知識はみんなが共有するものだから、社会にとってはとても大切なものなのだ。

ロジックもAI、思考もAIなら、人間の本来の機能としては何が重要になるのか。

少子高齢化はその国の勢力を低下させ、経済を停滞させるというが、そうだろうか。

そこに人口問題は存在しうるのか。

すべての質問、疑問の答えが否であるようになるのではないか。

とすると、人間の存在そのものが疑問であるとなり、抹殺されるのか。

いや、それとも新たな意義を見出していくために必要なのだろうか。

人間の自然死がなくなる不老長寿の夢は実現することになるのか。

そのころのAIや人間のエネルギー源は何になるのか。

電源がずっと必要ならば、Aiも死ぬ。

電源なしでは稼働しない。

動物的なAI、植物的なAIも存在するようになるのか。でも、何のためになのかは分からない。

そんな世界は、だれも望まないと、今、ここにいる私は思う。

いつかこの定義は変わるのだろうか。

シナリオに騙される

シナリオというものは、ある種のトリックであろうか。

他者を騙すには、こういうシナリオがあると説明するのがいいかもしれない。

相手も同じ心理でいるのだから、そこで騙し合いが起きるのは当然のことだ。

そして、威嚇する。

それが、決裂を目的としているかどうかに、両者の結論はかかっている。

どっちも覚悟はしている。戦争になるかもしれない、又は戦争に導けるかもしれない・・・などだ。

そうなら、なんらシナリオで議論する必要もない気がする。

ドーンとことを起こして混乱させる。

起きてしまったら仕方ないとなり、ドドーンと交戦して被害・惨劇を招くのだ。

だれの責任かとなると、こりゃこの混乱を相手のせいにしてしまうには勝しかないとなる。

だが、この頃はこの解釈が違うようなのだ。

弱者びいき、つまり弱いものは何もできないから、そこは武力を使うのはだめだとなる。

人道的な行動を求められている・・・。うん(?)となるだろう。

はあ(?)となるだろう。

そのすきに乗じてぶちのめされてしまい、頭に血が上り逆上して世紀の混乱の悪者に仕立て挙げられてしまう。

厳しく糾弾されて死罪となる・・・。

そんな事態は繰り返し起きる。独裁という名の私利私欲の権力争いがもたらす弊害は無限かもしれない。

いつまでもえんえんと続くのだから、いやにもなろう。

でも、それが人類のさだめだともいう。

人類はだから、結論として滅亡する。

それでも人類の愚かな戦争という行いが原因ではなく、自然の摂理としての終焉だということが正解なのではないか。

自然には寿命がある。

地球や太陽系の生命の寿命はおおよそ百億年という。

その中で生物が存在できるのはせいぜい数千年から一万年とすれば、ほんの一瞬の出来事であることは疑いのないことではないだろうか。

そんなシナリオに時間軸をどうつけるかが面白そうではないだろうか。

 

新聞のこれから

新聞は役目を終えたのではないか。

少なくともその紙媒体としての姿は変化している。

中身は情報なのだ。

それを集める、真偽を確かめる、社会の変化との関係など、それは今までと同じだろう。

でも、そこにAIが入ると、これらの基盤もどう変わるのだろうか。

人間の知能というものが必要なのか。

代替できるものはすべてを人工的なものにしていくのが人類だろうか。

とすると、昨今の議論が過熱する戦争と平和論でも、人間の知恵はもう不要なのではなかろうか。

争いは何から起きるといえば、行き違い、誤解、立場の違いなどがある。

利害がついて回るから、そこで被害を防ぐためには利を得る行動が求められる。

でも、ウインウインの関係なんてそうはないのが現実だ。

妥協がつまりは、そのウインウインのカタチであり、本来の姿とは異なっている。

そこにこだわる必要もないだが、ヒトは面子とかいってこだわる。

アイツは許せないとかいうセリフもいつまでも消えていない。

私利私欲に裏打ちされたものが利己的な行動に走らせる。

新聞は、こういう部分をどう処理していくのか。

新聞記者というワードももう古臭いイメージしかないようだ。

 

無神論者

神紙を信じない者は、信用されない。

昔からそういわれている。

たしかに、周囲にそういうひとがいなければ、皆無ならば、そうなるのが自然だ。

だって、しらないことは理解しようもないのだ。

そういうような類の例は多いのではないか。

家庭や社会に全くないものやないことがらは、その世界ではないものとなる。

でも、他の世界、例えば隣家とか隣国にはそういうことが当然のようになっているとしたら、どう理解するのか。

そこに多様性という言葉があるので、どう理解すべきか、現実を具体的にどう認識すべきかがわかってくる。

無神論というものは、たとえ信仰があろうとなかろうと、そのひとが意識するかどうかにかかってくるのではないか。

良識を持つ、常識を持つ。これらも同様ではないか。

民主主義のない国や地域で、それを説いても理解できないだろう。

ないのだから、基盤がちがうのだから、どうしようもない。

神仏を信じる無神論者なんていうことも意識の中では簡単に起きうるのだと私は考えている。

戦争はヒト社会の定め

いつも争っている。

そのために生きている。

平和という言葉もある。

それは戦争がなくなりはしないという前提のもとにあるのだ。

なぜ、と問えば、それは人間だからということになろうか。

それなら、どのように戦争をシステム化するかが問題になる。

どう争うか。

いや、いつも争いはある。

そのためのコミュニケーションがあるのも事実だ。

そして、なんの役にも立たずに、幾度でも繰り返すのが戦争だ。

悲惨な事態は人道的対処でといいながら、非人道的な行いは続く。

なぜ、なんどでも問いかけよう。

戦争で殺し合いが起きるたびに、なんどでも問いかけていこう。

いつか、人類が滅びる日にsの人同士の戦争は終わるのだろうか。

それまでは、続いていくとしか思えない。

ドイツに抜かれる日本のGDP

そんな日が来たのだ。

もともとヨーロッパに学び追い越せできたのだから、それが繰り返されているだけなのだとも言えそうだ。

もちろん楽観的な見解である。

そもそも経済的なこと以外では日本は太刀打ちできない相手ばかりであったはずだ。

東南アジアを拠点にして覇権を築こうとした過去がある。

だが、欧州にまで勝てるような経済状況をだれば想像したであろうか。

ある種の人種差別に耐え抜いても、消えぬものである民族の問題とか、私的な仕打ちなんて数えきれない。

でも、国力という視点で見れば、個々が努力して日々活動し行動していたのだ。

なんら見返りもしないでただただそこにある文明とかその近代化の魅力に取りつかれたかのようにふるまってきたのだ。

国際的なセンスが抜けていたから、戦争に巻き込まれたのだ。

そして、敗戦という事態でも民衆の死を目の前にしてはじめた降伏したのだ。

ドイツに抜かれたからどうだというのだ。

それは単なる比較の問題である。

日本は独自のものをどこかに忘れている。

強さとは何か。本当の強さは、誠実な日々の暮らしにあるはずだ。

見かけ上の景気良さは気持ちが悪いとは思わないか。単なる統計上の数値で浮かれる。

政治はそこに振り回されている。

民衆の暮らしが常に大地に足をつけて行われれば、なんの問題もない。

どんな比較もなんということはない。でも、大切なことを忘れているから、比べられて焦っている。

政治家の力量はどこにあるのか。

やはり、誠実で地道な暮らしを望む大衆の心理をよく理解すれば、わかることではないか。

砂上の楼閣では、数値は砂の大地に吸い込まれてなんらの成果も発揮はできないだろう。

東海道筋のにぎわい

東海道は静岡を通って東西を結ぶというのは昔から変わらない。

いくつものルートがあっていいのだ。

ひとつでは危機管理が成立しない。

そしてオーバーツーリズムとかいうではないか。

あまりに人が集まりすっぎるとどうなる。

そこの伝統文化や昔からの良さが消えてしまうだろう。

リニアの効果は絶大だと私は思う。

ある種、東海道が昔に戻れるように思うからだ。

自然の風が吹き注ぐ風景をよみがえらせるいいチャンスである。

この後、数百年経ち、自然の美しい東海地方になれるかもしれない。

コンクリートの護岸ではなく、自然の砂浜が無理なく回復してくるはずだ。

そこに棲む生物もそうなるはずだ。

ひとの考えも自然に近くなる。

そして、社会の変化に対応していく能力が高まるはずだ。

できるだけ自然に近い生活が人間にとっては幸せなのだと、私は考えている。

修羅いう漢字に軽さを感じた・・・

意外だった。

修羅というイメージはもっと凄そうなものだったからだ。

でも、この字はそんなにシュラな感じはしない。

だから、耳でこの漢字の組合せが浮かばなかった。

もっと何か、どういえばいいか、そらほらなんていうか、わかるかな。

もっといかがわしいというか、どうもうまくいえない。

修羅場だな、今の私の頭の中のことだ。

こんなもんか・・・ってとこだ。

もんたよしのり

ひとは死ぬんだ。

みんな死んでしまう。

なにか残せたひとは幸せだ。

普通はなにも残せない。

一世を風靡したアーティストがなくなった。

なにかさみしい。

自分よりも若い年齢でいかれてしまうと、なにかとても切ない。

ダンシングオールナイトは頭のなかに焼き付いている。

曲をきいて故人をしのぶぐらいしかできない・・・。

ありがとうと言いたいスターだった。

許容範囲

安全率とか余裕をもった設計を行うのがこの社会の基本の1つである。

しかし、それが大容量となると、無駄が多すぎるという理屈ですくなくなる。

1トンのクレーンならば、5倍で5トンに耐える強度を与えるのが基本だ。

しかし、100トンのクレーンでは5倍となると500トンだから、これは無駄ではないかと考えて減らしてもいいのではないかとなる。

そこで確率論がでる。

理由付けのために種々議論されて決まることになる。

危険なものへの対策は、重要である。

扱いになれる。一時の牛馬は農耕や運搬に多用されてきた。

専門の馬喰とか、馬子たちがそこに職業を見出したようだ。

特技を使って仕事をする。

いつの時代も同じように職務の遂行の規準は重要だと認識されている。

ひとの健康をあつかう医師は、その最たるものであり、弁護士も同様に人間の行動を法にそって捌く例であろうか。

許容できるのはどこまでか。

ちっちゃな傷なら、市販薬品で大丈夫という範囲がある。

自然界の毒物はキノコやフグなど、あちこちにある。

ひとはそういう危険の中で生きているから、ある程度の知識を周りから与えられて大きくなる。

それを伝えるのは子孫である。

獲得した知恵を自動的に子孫に伝えることは、そのひとという機能にはない。

だから、教えること、学ぶことというシステムがそこにあるようだ。

社会が大きくこの部分で変わりつつある。

記憶という分野がひとにはそう必要なくなるAIの発展がその肩代わりをする。

すべてがひとの機能に変わる時、そこにひとは存在する価値が無になると言われることもある。

そんなことはないと「ひと」の代表者は言う。

しかし、どうも危ういようだ・・・。

シンギュラリティというのがすぐそこに普通のひとには見えるのではないか。

生れてきても何もすることはない・・・、となればどうなる。

無になる人間の存在は存続の必要が皆無だということだ。

結論はどうか。

消えてもいい。

でも、そもそもなんのためのAIの開発だったのかと考えれば、そんな無駄な推論は不用の長物であろうか。

いかなる才能も必要だから存在するという論理について

みんなが天才だったら、世の中はどうなるか。

何も変わりはしない。

少数群がその他大勢の天才群よりも希少価値があるとなるだろう。

そうとも限らない。あるとすれば、やはりダメなやつらと切り捨てられるかもしれない。

でも、本当に希少ならば、その研究は重要であろう。

だから、掛け掛けのない存在と位置付けられるだろう。

しかし、現実は天才が圧倒的に少ないようだ。

稀有な存在だ。だから、もてはやされる。

当人たちは、どうか。

生まれつきのものだから、自分の興味に従って行動してだけのようにも見える。

そのこと以外は興味を示さないような態度は、ときに馬鹿にされることがある。

でも天才たちは気にしない。自分の思ったことを理想的にこなしていくことに興味を注ぐ。

飽きることはないのか。

そりゃいつかくるだろう。

でも、そういう意識が尽きないのが天才の天才たるゆえんかもしれない。

いすれにしろダイヤモンドが道端に転がっている状況で、単なる石ころが稀有ならば、どうかって話だ。

なんとかカップ

いろんなカップがある。

ワールドカップは、一番有名かもしれない。

そして、通常のコーフィカップがある。

スペースカップとはなんぞや。宇宙でコーフィを飲むとか、水を飲むのにつかう容器らしい。

重力の小さな宇宙で水分が球体状になってまるまっているのを見たことがある。

どうもそうらしい、ストローで通常は飲むらしいが、地上と同じように食後のコーフィを楽しみたいときもあるようだ。

そのために開発されたのがスペースカップだという。

アルファベットのカップもあるらしいが、男の私には関係ないことだ。

日本語で言えば、賞杯のことだから、やはり盃のようなものということだ。

宇宙の最先端はどうなっているのか、興味は尽きない。

勝者のみを称賛する風潮に違和感を抱く

勝者は驕らずという。

敗者はどうするのか。

どうしたらいいのか。

とても苦しい。

力及ばずなんていうのはつらいし、考えるだけでもむかつく・・・。

そうではないのか。

それでも勝者を称えることはやるべきである。

そこに自分が筒かもしれない可能性を想えば、当然である。

勝負には勝敗がある。

闘うには、その覚悟と栄光をつかむコツがあるのだ。

そして、敗者を称えることが一番大事なのだと私は考えている。

第三者がそこで一方をさげすむような行動は、なんとも・・・。

シティボーイは今アーバンベア

街中の熊がニュースを席巻している。

危ない話ばかりで、負傷者・死者がでている。

なぜ、山中の食べ物ではなく、人間の住む地域に乗り込んでくるのか。

当然のこと、食べ物である。

柿、栗、芋などが目当てのようである。

食べ物を求めてどこまでも来るのは、食べ物が生息域で不足しているからだろう。

ひとのことはお構いなしなのは野生動物の本能であり、当たり前のことだ。

説教も効き目はないのはもちろんだ。

地球温暖化による自然界の変化が野生動物に影響を与えている。

魚類の種類の変化も同様に社会を騒がせている。

今までとれたものがとれない。

今までより高価な魚介類がとれるようになることもある。

でも、ほとんどはその用途が開拓されていないから、利活用に時間を要する。

アーバンフィッシュとかいうのか。アーバンベアも田舎より都会がいいのだろうか。

そして、やはり故郷の山々が一番と叫ぶのだろうか。

次は季節のない生活と昼夜のない生活のアーバンワイルドクリエイチャーが動き回るのではないか。

ひとは追い払われて山中へと移動する・・・。

悪事と人道

ガザ地区の混乱は、世界の注目をあびている。

ウクライナ紛争から世界の目が少しだけそれているようだ。

ロシアのトップはなにか安堵したように中国へと出かけられるようになったのだ。

ヒトラーと並び称せられるような位置づけからちょっと世界の目が外れているからか。

心理的な軋轢はたいそうなものであろう。

世界の動きがおかしな方向へと向かいつつある。

自国優先はどこでも変わりはしない真理だろう。

でも、ぶちのめされた過去をもつどっかの国は、そんなことは信じないかのように一途のようだ。

虎視眈眈と狙われる前にどうすべきか気づかないと、いつもの負け犬になるだろう。

悪事に専念しないと、人道にかまけていると、足元をすくわれる。

どう戦略を立てるべきか、難しい選択である。

 

私と俺

私は、普通の人間である。

そういうと反論される。

お前なんか、そんなことあるわけもない。

俺は、どうか。

そりゃ、お前は人間だろう。

だって、バカだからなって言われるだろう。

私と俺はおんなじ生き物なのだけれども、そこには差が生れる。

それは、時として俺が強いこともある。

私になるのはほんのわずかなある種の時間帯だけだ。

この違いはなんだろうか。

それは、きっとだれのこころにもある違いだろうと私は考えている。

大谷FAの行く先

日本のプロ野球界がFAで大谷選手を取り戻す。

そんな夢のようなニュースがあった。

だれかがいったのだ。

でも、帰ってくる可能性はほぼゼロだろう。

当然だろう。最高の舞台で最高のプレーの日々を捨てることはないだろう。

しかし、米国のMLBはビジネス本位だ。

価値がないと判断したり、相場を操るために、評価を落とすなんていうことは日常茶飯事だろう。

それでも、価値のある選手は、そんなその場しのぎのごまかしでは手に入れられない。

だから、苦労する。

スポーツのプロになるには、並大抵の努力ではできないだろうし、天才たちがどんどんと集まって淘汰されてこそのプロがそこにはいるのだ。

どこは行く。

エンゼルスにとどまるのも一つだろうし、他の優良チームへと移るのも大きな前進にはなる。

だが、ファンの目は、大谷選手そのものについて回る。

全盛期のそんな天才中のスーパーマンを見れてうれしい。

そう私は感じている。

どこでプレーしようがそんなことは、あまり変わらない。

偉大な選手への道を見届けていきたい。

文章を書く訓練

どこかでなにかを考える。

表現するには文章がある。

言葉で伝えるには口でしゃべるのが一番早い。

しかし、ちょっと考えてしまうと「うーん」となり、時間がかかることになる。

これでは会話はつながらない。

だから、ちょっと複雑なことは文章にする。

記録になるし、あとから読めばいつでもその真意が伝わる。

そこには、ちょっと訓練が必要になる。

要点を占めて記述するのがいいらしい。

伝えることができても伝わらないリスクを避けるための技術だ。

訓練もそういうプロセスと自分の技量のレベルを知って初めて役にたつことになる。

誤解して上級者、達人だと思いちがいをしているようでは、いつまでも埒があかない。

様々な問題

当然ながら、社会は問題に満ちている。

問題がないと人間は何も解決できないのだ。

そもそも問題とはなんなのか。

困ったことがあると相談しようねと呼びかけがある。

こどもいじめ、学校へ行きたくないと駄々をこねる。

みんな経験があることだ。

つまり珍しいことではないと言える。

そんなの当たり前だよと言っても、今はらちが明かない。

そんなことを言う人がいるから、放置されて大事になるというのだ。

いわゆる常識の範囲内とそれを超えるものとの区分はどこにある。

どこかにある。

様々な問題ってなんだ。

マッチポンプとか一時はやったことばがある。

そこに様々なレベルでの問題が隠れているようだ。

火をつけてあとは知らぬ存ぜぬと彼はいう。

ほくそ笑むかどうかはしらないが、どうも気に食わないとみんな思っている。

でも、当人はあいつが悪いんだという・・・のだ。

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