漫画。むさぼって読んでいた。子供のころ、マンガが禁止される。子供たちが勉強しないから法律で漫画が禁止される。
そんなことを言われた時、子供の私は世の中つまらない。そんなことはさせない。子供たちよ立ち上がろう。そう叫びたい気持ちであった。たしかに冗談だったのだが、子供の心にあんなに激しく突き刺してきたハナシはなかった。
当時の私は、マンガがあれば何もいらない。そんな感じであった。読むのがすごくはやかった。いわゆるフォトリーディングだったのだ。絵としてとらえて意味を解していたのだ。とくに正義と悪が当時ははっきりしていて常識的な道徳を教えてくれたのではないだろうか。少したってあまりマンガを読まなくなったころ、時代によってもたらされたセクシーな女の子が主人公のものがはやっていたり、アトムや鉄人28号の2番煎じというようなロボットものがはやっていた。スーパーマン的な漫画も良かった。宇宙をテーマにしているのがいい。
どうしたら漫画家になれるのか。真剣に考えていたこともある。でもだめだろうと思っていた。案の定そうはなれなかった。でもなりたかった。資本のない子供が腕一本で勝負ができるのは漫画の世界ではなかっただろうか。その時にIT時代がやってきていたらどうだったろうか。
こういう昔話をすると必ず地方から漫画家を志す少年が先生を訪ねてきた・・・。おおきくなるまで待てと諭されて引き返した。そんなことがあったらしい。私はそういうことまでは考えなかった。結構、面倒くさいのがいやだから、どうやって漫画を作り上げるのかと想像しただけで頭が痛くなりそうな気分もあった。
続きものはとても楽しみだった。月刊が多かったので、翌月まで楽しみに待っていた。地方の少年が都会で作られた漫画雑誌を楽しみにしていたのだ。その中に漫画王というのがあって発行は秋田書店となっていたと思うが、東京の出版社だったのだ。あまりなにも確認するまでもなく、いろいろな興味を漫画に託していた。
今、ITの時代であり、いろいろな地方から、世界各地から、どこが情報発信の上りで下りがどこか分からなくなっている。そのこと自体に意味がなくなっている。あこがれのアメリカが上りの行き先なら、情報の発信源であるに違いない。そう数年前までは思っている。今、情報の流れが変わっている。アメリカの情報産業従事者は失業している。仕事がないらしい。どこに行ってしまったのか。アジアとアフリカであろう。または南米であろうか。
IT産業は楽しい産業かもしれない。陽気なラテンのイメージかもしれない。でもどんなイメージもこなしそうな気もする。あまり極端な言い方はしない方がいいのだろうか。世界の中で地方とはなんだろうか。もともとふるさとという言い方や、故国という言葉がある。中心とは文明の中心は今や地方であろうか。今でも中心だろうか。中心は刻々と変わっている。だめなものをいいといい、いいものをだめという専制君主はもはやその地位を保ちえない。でもぶら下がっている。ドイツは東西冷戦の中で劇的に一緒になった。もともと同じなのだから、そこに差別・区別しようというのが間違いなのだ。
世界の都会はどこだろう。その都会とは中心のことであり、この世界を引っ張っている都市のことだ。NYKだろうか。ロンドンだろうか。東京だろうか。パリか。ペキンか。モスクワか。バグダッドなんだろうか。そんなはずはない。まるでまったくのモザイク模様になってしまった。人種もいずれ、言葉もいずれはモザイクになっていくのだろうか。差がなくなることは確かだろう。それとも表現が多様化して子供のころからコミュニケーション・ツールとしての言語を10種類ほどもマスターするのだろうか。
一つの国の中で、アニメ・コミックを語る時代ではない。国際市場の中でニーズを求めて漫画は跳ねまわっているようだ。だから地方の時代ということを1つの国の中でねちねちと思いつめているのはもう時代遅れもはなはだしいと言わざるを得ない。
でも、だれかが地方の時代だ。そして、それはITやICTと言われる技術がもたらしてくれたものだということと、もともと情報の発信や人材の育成も地方が優れていることの証明ではないだろうか。もっともっと自分たちのふるさとを大事にしていこう。そう改めて思った。
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