アニメ・コミック

マンガは若者文化・・・

子供の感性はマンガで鍛えられた。そんな頃は、もう漫画が命だったのだ。主人公のかっこよさは、常に自分の頭のなかにあるのだ。時代劇から、未来もの、ばけものものまで・・・、いろいろ多様だ。

それが、ある時から、興味がなくなった。ついていけないというよりも、面白さが感じられなくなったということだ。胸を打たれることはもうないのだ。

ある時のパチンコのようなものかもしれない。パチンコ店の前を通るとのあの玉がでる時の気持ちがつい足を店内にと向かわせてしまう・・・。でも、おかねはないから・・・。なくなればその時の心の持ち方で決まる。すってんてん・・・、もあろう。でもそれは成り行きなのだ。滅多に儲からないのにどうしてだったのだろう。

今は、もう想像できない。あのときの気持ちがもうない。

マンガ、パチンコ、そして・・・・。なんだろうか。次にこの気持ちをわくわくさせてくれるのはなんだろう・・・。

いやもう何もないのかも知れない。でもいろいろとやりたいことがあるといっても何も具体的にはない・・・。もう若者ではないという証明かもしれない。ようやく、そんな範疇をぬけたのかもしれない・・・。

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シリアスなコミック

マンガとはとても人生のためになるものだ。そんなことが最近話題になっている。なぜだろうか。それは疑似体験というもので対抗力を育てようというものらしい。たしかに子供のころの男の子の漫画は、それは理想像そのものだった。英雄だった。危機一髪はインディジョンズの比ではない。もっとわくわくしていた。

それが実はいいのだ。決してコミカルな面白さを求めているだけではない。みんな何かを見るときは何か大事なものを簡単に得たいと考えているのだ。結構真剣なのだ。いや一番ものごとを真剣にみたいる時間かもしれない。だから、シリアスコミックは当然のものだ。私はそう思う。そしてそうでなければ買わないし見ないだろう。

今、だから作者は読み手の側に200%立って書いているのではないか。そんなコミックが売れているのは当然だ。シリアスだからと一時バカにされたように感じたのは、それが当然だとだれも気づいていなかったからだ。自分らしく生きるやつに対して、よく使うシリアスになるなよ・・・。そんな言葉を使うのは、その意味をまったく理解していないのだ。

現実はすべてシリアスとは言えない。笑うかごまかすか泣くか。そんなことで紛らわす。マンガはそのままストレートでいい。だから、そういうものがいまもむかしも求められていたのだし、いるのだと私は考える。

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なりたいもの

漫画家。

この世の中で一番偉い人だと思った。思っていた。なぜって。もちろん、次のストーリを知っているからだ。来月まで待たなくても漫画家は知っているのだ。だからえらいのだ。

でも、まてよ。なりたいものだろうか。そうだったのか疑問だ・・・。

なりたいもの。それは大人だったような気がする。なぜって。もちろん、なんでもできるからだ。もう勉強しなくてもすべてわかるのだから、大人はいいのだ。それは、前提がこどもの考えるものとはちがっているからそうおもったのだろう。学校へいって勉強を子供のころにやれば大人になってなんでもできる。そう信じていたのだろうか。

というよりも、何か違うきがする。好奇心だろうか。そういえば鉄腕アトムのお茶の水博士の私は助手になりたかった。どうして、押しかけていかなかったのか。一応マンガの世界で実在しないとわかっていたのだろう。そんな子供が手塚さんちには大勢押し掛けたのではないだろうか。

そのころ、マンガばかり見ていると馬鹿になる。そう言われていた。でも一瞬のうちに終わる。読み終わる。フォトリーディングそのものだった。今考えると、そうだった。瞬間的に何を言っているのかわかる。そこに何か秘密があるようだ。でも、何かもうひとつしっくりこない。

なりたいもの。自由人とか仙人だろうか。風来坊とか深い山奥で修業に励む坊さんとか侍だろうか。今はどうなのだろう。深い山中ではなく、宇宙なのではないか。宇宙と海洋は同じカテゴリーで論じられることが多い。

それは、これからの社会が必要なものを、それらが抱えているからだ。南極も北極ももう近づけない場所ではない。それは地表だから、温度の差と、距離の差の話になったのだ。白熊が消える。そんな日が近いという。

だから、おとうさん。上着やネクタイはしないで。母さんエアコンの温度は28℃だよ。そういうポスターがエレベータに貼ってある。そういえばエアコンの温度というのはあまり知らない。知識がないと思われては困るので、ほんとうは何度がいいのかいうことはない。冬の寒さでは10℃というのが基準だったように思う。でもそれは結構寒い。夏は、ほんとうに28℃なのだろうか。ちょっと高すぎるのではないか。

今、何になりたい。そうだな。なんだろうか。・・・・・・・。たのしいね。そんなことを想うのは、たのしいね。でもなんだろうか。

やっぱ。普通のひとだ。

私のなりたいものは、もしもう一度生まれてきたならばという前提条件付きでいえば、当たり前の普通の人だ。

今は、ちょっとおかしなひとだから・・・とかいう話ではないので・・・。どうかご心配なく。

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子供のこころ

子供のこころは柔らかいのだろう。漫画を読まなくなったのはいつからだろうか。こういうのはマンガではないと思った時があった。それから、こころの中から子供の柔軟性がなくなっているのを感じたように思う。

漫画は面白かった。月刊の時代だったから、待ち遠しいのはもちろん通り越して、生活そのもののようだった。いつか週刊マンガになったころには、すこし大きくなっていたが、すごく人生が豊かになったような気がした。もちろんそれだけ全部買うお金はないから、適当に友達のものを見せてもらうのだ。

自分で買ったものを貸してやる。そんなときはなんとなくおれの方が先に読んでいるというだけで優越感があるものだった。だからお互いさまである。ひがむことはまったくなかった。漫画すなわち私の子供のころの生活そのものだった。フォトリーディングもその時にすでに学んでいたようだ。イメージが次々にわいてくるのは今では想像もつかない。そして読んだあとはしばらく次のストーリに思いを馳せる子供のこころがあったように思う。

時代の変化も、科学も、文化もすべてマンガから学んできたこどものころの心の変化がいまはただ懐かしいだけである。そういえばまだ漫画を見るときのあの想いがしっかりと私の体にはしみついているようだ。これがほしいとかこうしたいというと、それを追求するのは漫画に対する続きを想うこころと同じものだ。

決して無意味ではなかった。思うがままにマンガを読みふけっていた子供がきっと世界にはいっぱいいることを想うと頼もしい気がする。そこからサイエンスもヒストリーもライフも創り出されてくる。いいマンガをいっぱい提供できるような大人がいっぱいいる社会を作るのがやはり大切なのだと、改めて思う。

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地方の時代

漫画。むさぼって読んでいた。子供のころ、マンガが禁止される。子供たちが勉強しないから法律で漫画が禁止される。

そんなことを言われた時、子供の私は世の中つまらない。そんなことはさせない。子供たちよ立ち上がろう。そう叫びたい気持ちであった。たしかに冗談だったのだが、子供の心にあんなに激しく突き刺してきたハナシはなかった。

当時の私は、マンガがあれば何もいらない。そんな感じであった。読むのがすごくはやかった。いわゆるフォトリーディングだったのだ。絵としてとらえて意味を解していたのだ。とくに正義と悪が当時ははっきりしていて常識的な道徳を教えてくれたのではないだろうか。少したってあまりマンガを読まなくなったころ、時代によってもたらされたセクシーな女の子が主人公のものがはやっていたり、アトムや鉄人28号の2番煎じというようなロボットものがはやっていた。スーパーマン的な漫画も良かった。宇宙をテーマにしているのがいい。

どうしたら漫画家になれるのか。真剣に考えていたこともある。でもだめだろうと思っていた。案の定そうはなれなかった。でもなりたかった。資本のない子供が腕一本で勝負ができるのは漫画の世界ではなかっただろうか。その時にIT時代がやってきていたらどうだったろうか。

こういう昔話をすると必ず地方から漫画家を志す少年が先生を訪ねてきた・・・。おおきくなるまで待てと諭されて引き返した。そんなことがあったらしい。私はそういうことまでは考えなかった。結構、面倒くさいのがいやだから、どうやって漫画を作り上げるのかと想像しただけで頭が痛くなりそうな気分もあった。

続きものはとても楽しみだった。月刊が多かったので、翌月まで楽しみに待っていた。地方の少年が都会で作られた漫画雑誌を楽しみにしていたのだ。その中に漫画王というのがあって発行は秋田書店となっていたと思うが、東京の出版社だったのだ。あまりなにも確認するまでもなく、いろいろな興味を漫画に託していた。

今、ITの時代であり、いろいろな地方から、世界各地から、どこが情報発信の上りで下りがどこか分からなくなっている。そのこと自体に意味がなくなっている。あこがれのアメリカが上りの行き先なら、情報の発信源であるに違いない。そう数年前までは思っている。今、情報の流れが変わっている。アメリカの情報産業従事者は失業している。仕事がないらしい。どこに行ってしまったのか。アジアとアフリカであろう。または南米であろうか。

IT産業は楽しい産業かもしれない。陽気なラテンのイメージかもしれない。でもどんなイメージもこなしそうな気もする。あまり極端な言い方はしない方がいいのだろうか。世界の中で地方とはなんだろうか。もともとふるさとという言い方や、故国という言葉がある。中心とは文明の中心は今や地方であろうか。今でも中心だろうか。中心は刻々と変わっている。だめなものをいいといい、いいものをだめという専制君主はもはやその地位を保ちえない。でもぶら下がっている。ドイツは東西冷戦の中で劇的に一緒になった。もともと同じなのだから、そこに差別・区別しようというのが間違いなのだ。

世界の都会はどこだろう。その都会とは中心のことであり、この世界を引っ張っている都市のことだ。NYKだろうか。ロンドンだろうか。東京だろうか。パリか。ペキンか。モスクワか。バグダッドなんだろうか。そんなはずはない。まるでまったくのモザイク模様になってしまった。人種もいずれ、言葉もいずれはモザイクになっていくのだろうか。差がなくなることは確かだろう。それとも表現が多様化して子供のころからコミュニケーション・ツールとしての言語を10種類ほどもマスターするのだろうか。

一つの国の中で、アニメ・コミックを語る時代ではない。国際市場の中でニーズを求めて漫画は跳ねまわっているようだ。だから地方の時代ということを1つの国の中でねちねちと思いつめているのはもう時代遅れもはなはだしいと言わざるを得ない。

でも、だれかが地方の時代だ。そして、それはITやICTと言われる技術がもたらしてくれたものだということと、もともと情報の発信や人材の育成も地方が優れていることの証明ではないだろうか。もっともっと自分たちのふるさとを大事にしていこう。そう改めて思った。

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