ココログへの移行ってなんだ・・・
ココフラッシュは順次縮小する。
だから、ココログへというお知らせのようだ。
でも、なにかよくわからないのはなぜだ。
カテゴリーの内容とか全体の仕組みの話とか、個人情報とか、もっと効果的にサイトを運営しようということのよなのだが・・・。
細かいところはまあいいとして、ときどき気にしていかなければいけないな。
ココフラッシュは順次縮小する。
だから、ココログへというお知らせのようだ。
でも、なにかよくわからないのはなぜだ。
カテゴリーの内容とか全体の仕組みの話とか、個人情報とか、もっと効果的にサイトを運営しようということのよなのだが・・・。
細かいところはまあいいとして、ときどき気にしていかなければいけないな。
ココログってなんだい。そんな気持ちだ。どうしてブログに人がアクセスするのか。とても不思議だ。あまりにも中身のないものに依存する気持ちが今の時代を反映しているようにも思う。どうしようもない気持ちを何かに役立てようとするような気持ちとでもいうのだろうか。そんな甘い気持ちではこの社会はだれも答えてはくれないし、もしそういう価値があったらその段階でつぶされてしまうのだ。そういう経験を2,3回は経験しないと何ともならない。一回でうまくいくのはその全段階のシミュレーションを終わっている場合だけではないのか。
ココログって何だい。そんなことを思っても何にもならない。そこに共通の話題が絞られて初めてテーマになる。そこに普通の人間としても価値が問われるのだ。も普通の人間とは何かとかいう定義の時代に入っているかもしれない。私は自由人だといってもそこでもし放り投げられたら、それで終わってしまうかもしれない。そんな膨大な接触は困難だとしか言えない。もう卒業というレベルに達しているのだから、そこで説教しようなんてやつはそうはいないだろう。でも少数でもいるのは確かだ。それが人間なのだ。今どうするのが一番いいのか。わからないというのが正解だ。次に何をするのか。もう後期高齢者でいいではないか。いつまでも気まぐれに経験年数を積み重ねるだけの人生でいいのか。何かとてもさみしいことのようにおもう。
この世の中は、ほとんどが自己主張のぶつかり合いのような世界だ。でも、最近は一部の人の意見でしか社会は動いていないという。だれも主張を持っているわけではないのだという。
何を主張したらいいのかわからない。それが現実ではないのか。何に憤慨するのか。問題がないならそういう憤慨も起きない。せめて政治家がよくないとか、官僚がよく働かないとか、いろいろとあるのではないか。
週刊誌ではないが、ヒットを出すことが生きがいだという人たちがいっぱいこの世の中にはいる。それが生活なのだから、仕方がないのだが、どんな主張を説くのだろうか。
世の中が悪い。
社会が悪い。
政治が悪い。
環境が悪い。
親が悪い。
子どもが悪い。
みんなみんな悪者になる。ちょっといい人がいるとそれは怪しいとなる。疑う。どこに主張があるのか。あまり変わらない。
主張を持つことは大事だ。
でも何が主張なのか。具体的には何にもない。ほっとけないとかいいながら、ほっとくひともいる。でも、重要な大臣にはたまには主張を出すために、細かいことはほっとけと言いたい。
大臣名で出す必要はないだろう。
局長・部長・課長・係長・担当者名でいいのではないか。最近疲れ気味の大臣の顔をみると、このヒトは本当に真剣に問題に対峙しているなと感じる。でも、いい加減にして適当に適格に的確に適切にやってほしい。
ほんのちょっと身をひいて優秀な幹部たちにまかしてもいいのではないか。
そんな主張を今日はしてみたいと感じる。そう感じるのは、私一人ではないだろう。みんながそう願っている。もう少しちゃらんぽらんでも十分にみんな納得する。でもそんな大臣の姿勢がみんな好きなのかもしれない・・・。頼りにしているのかもしれない・・・。
やはり、主張は「ほっとけない・・・」からだろうか。少しは「ほっとけ・・・」と主張したい。まあ聞いてはもらえないだろうが・・・。
何の目的でブログを書くのか。とてもいい質問だ。普段何気なく書いているのだ。そういう理由をとくに規定したくないのだ。それが私の場合の定義だ。
ほかにどんなことが言えるのだろうか。何か主張しようというときにも使えるだろう。自分の意見を発表して広くコメントをもらうのもいいだろう。そして、すごい数のブログが毎日生み出されている事実がある、ほとんどは顧みられないおれ流のものだろう。それでいいのではないか。制約されずに、日記のような形でかくのもいいだろう。
ただ読み手が一般である。開放されていることからみれば、それなりのルールを常識として守るのが当たり前だ。それが変な形で展開するととても大きな問題にもなる。良識をもって当たることが大切だ。オープンになることとそれが自由であることとは違う。最近の日本はナチズム的な動きが多いように感じるのは私だけだろうか。こうしなければいけない。これに反対する人たちはどこか狂っている・・・、こんな主張がされる。言論の自由もない。自由の国で自由を取り締まることが一番の目標になっている。
ちょっと前までは自由の国という表現であったのが、今、私が感じるのは不自由の国であり独裁国家というような感覚である。自由であるがゆえに束縛されるところが拡大されているのだろうか。おかしなものだ。自由とはそれぞれの人格の上になりたっているのだが、決して自由ではない。制約されてさらに制約されている現実が自由の象徴なのだというのだろうか。
屁理屈の押し届けではないか。煙に巻くことでしか、整合性をとれない。つまり自由であることを説明するために制約をいっぱいつけているのだ。そんな馬鹿な話があるだろうか。
ブログの限界もどこかそのあたりに転がっているのではないか。自由の国は今とても不自由になってしまったようだ。この辺で自由という定義を「自由とは不自由なこと」に変えてしまったらどうだろうか。
以前ホームページを作って公開したことがある。それはテンプレートにそのまま載せただけのものであった。かなりできのいいものになっていた。その中でソデイカの話を載せたことがある。大型のイカでダイモンドスクィッドともいう。外套の肉厚が5cmもある。日本国内では沖縄から始まって今は伊豆七島の一部でも漁獲している。
いまさらホームページをつくるのはなぜだろうか。このブログで十分ではないか。そんなことを思った。でも少し違うなと感じている。どこが違うのか。動的なものがブログならホームページは静的な感じがする。方向性をしっかりとだすにはまとめておく必要がある。基本的な考え方とか、その時々の動きで変わることに翻弄されないものを残しておくのがよいだろう。
NPO活動などでは、いろいろなことがあるのではないか。日本にはなじみが薄かった社会貢献とか社会奉仕ということがこの活動で大きく広がっている。日本人の良さは温和な性格だと私は思う。中には違う人たちもいるが、仲間うちでは温厚な場合が多いのではないか。ホームページをつくるには、中味が大事であり、そのメンテナンスも影響する。すぐに飽きてしまう性格では持続が難しいかも・・・。いまさらとは言わずにもっといろいろと創作してみようと考えている。
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