ギャンブル。カジノ。ばくち。賭け事。
果し合い。プロポーズ。排除。選別。試験。
勉強。就活。しごと。ごはん。
生活。不安。期待。贔屓。
日本には競馬、競輪、競艇、パチンコ。オートレース。いろいろある。まだ違法な賭博なんかも横行しているとかなんとか・・・。
若い有望なスポーツ選手がカモになってしまったな。
公営ギャンブルは、一見統制がとれているようだが、なんか裏社会での掛け率とかなんとかとも耳にする。
トトカルチョって違法なのかって数十年前には思ってもいなかっただろう。そんなの職場では当たり前だったし、とくに代わり映えのしないことだったのではないのか。麻雀のかけとか、ゴルフだってかけてやっているし、なんでもかんでもベットにしている国もある。
でも、好きになるなんていうのは、環境もあろうし、周りにいなけりゃなかなかそんな糸口にも遭わん。
好きですか。海外では賭博場があるし、華やかできらきらしているし、ベガスだってそうだ。そこで起きた大惨事も、なにかみんなが楽しんでいることへの不満だったのか。動機が不明だそうだ。犯人は自殺したらしいが、不動産事業で資産をつくったひとだそうだ。なんでもっと慈善事業とかに目を向けるとか、政治家を目指してトランプ大統領風にとかはいかなかったのだろうか。
こう考えると、公助、共助、自助というプロセスがよく理解できる気がする。
トランプさんは、ギャンブル好きなんだろうな。いわゆる人生をかけるってやつだ。ほんとのばくち打ちってことかもしれない。中には本音では大統領なんかになりたくないけど、大統領選挙にはでてみたいなんていう輩もいるかもしれない。
大丈夫。充分に受かる。そう太鼓判をおされ、自分でそう信じて相手のことを値踏みして臨んだはずの選挙で、まさかの敗北。クリントン候補だ。もうない。いつも女性大統領の誕生一番手とみられてきたものの、もはや運も尽きたってことだ。
どうだろうか。千載一遇のチャンスは一度逃してもまたやってくるものなんだろうか。だれも次の次なんて期待もしない。次は次で新次郎氏もいるし、その他新たな天才がでてくる。今なら、中身のしれた安倍総理だけである。これは千載一遇うのチャンスではないか。それも都知事への転身が招いてくれた幸運だとは言えないか。敵に安心感を安ど感を与えたのだろうな。油断は禁物って石破元大臣が言っているが、それは、己を中心に考える構想があるからだろうか。敵は味方でもある。次の次っていうなら、そこでどう対処していくのかだろう。保守本流の流れって少し黒潮のように蛇行もするはずだから、潮流を見誤らないことが大事かもしれない。
ただ、東日本大震災での汚点、たった一つ反省すべきは原発事故のことだ。安全性への考え方が緩かった。ただ一つこれは教訓にしていかねばならない。ピンチとか苦難は現実なら乗り越えるってことだろう。ふりかかった火の粉は振り払わねばならないのだ。そんなことのないようにかじ取りをしっかりとできる体制をつくろう。ギャンブルでまあいいだろうと妥協してはいけない。
容易な道と苦難な道の二つがあるならば、難しいのを選べという。でも三つ目の道もそのほかのことも考慮できる日本であってほしいし、あらねばならぬと私は想う。
アフリカへの関心は大きい。
民間企業の今後の強化重点地域はアフリカ大陸だ。
なぜだろうか。
経済成長への可能性が花開くという時代にアフリカは移行しつつあるのだ。
日本政府は、このティキャッドを主宰してから20年を迎える。
中国とインドも同様の支援会議を独自に開催している。
理由はそれぞれあるが、現地への支援がその主眼であることが必要である。
いくら可能性があっても、治安が不安定ではいた仕方のないことだ。
そこに今後のアフリカ地域の発展への糸口がある。
アジア地域も同様なのだが、アフリカにおいてはもっと住民参加の仕組みが重要になるものと思われる。
長い間の植民地支配からの脱却と、対等な支援者・国との関係を強固にしていく必要があると想う。
支援国の協調がまた重要となる。
政治・治安が安定しないと、支援が衝突して混乱のもとになることも十分ありうるので、それは当事者が配慮しないといけないことだ。
心配なのは、中国などの支援はどんどんと世界中に拡大しつつあり、大きな人口圧力を現地にかけている荒廃の道を歩んでいることが懸念されるのだ。
日本は、なんとのほほんとしているのか。
中国を支援しているのに、なんの感謝もなく、侵略国・敗戦国として蔑まされていることが現実なのだ。
どこかがおかしい。競争ではないのが開発援助である。相手の立場で物事を支援していく政策が不可欠である。
この点、今後の日本の視点は、ODAとPKOという二つの面からどうやって、相乗効果を実現するかにある。
おのれの意思に背くストレスは、こころに大きな負担となり、病気に進むことは、よく知られている。
だが、短いストレスは逆だ。
面接なんてできればしたくない。
でも、テストと同じだ。成果の確認なのだ。
いままでやってきたことを認識するためのものだ。
だから、面接では思いっきり緊張することにした。これ以上ないというぐらいの最大の緊張を自分で強いることにした。
それは自分でつくるものだから、ストレスにはならない。
緊張感というものは悪いイメージだが、実は生きるための知恵のひとつなのだと、私はあるときに悟ったのだった。
彼女と最初にあったのも、そんなひとつの緊張を強いられるものだった。それもそういえば、昔、自分で緊張を強いてでもそこに立ち向かうという意思があったから・・・できたのだ。
短いストレスというものは、有効なのだ。
どんどんと毎日、短く緊張を楽しむことだ。
そのコツは「逃げたい」というような状況で、そんな場面ででてくるらしい。
チャンスは逃すな。
やっぱり。
どうして。
でも、そうなのかもしれない。
ことあれ主義で、無を有にするのであれば、そうなるだろう。
社会の矛盾が自己矛盾になる。
そこから抜け出せない。
焦燥だろう。イライラしているのだ。
嫌悪感が走る・・・。
もうおわりだという声がする。化けのかわがはがれたのか、そういう器でもなかったというのか、どっちだ。
どっちでもいい。
もう見たくない・・・。それが、大衆の反応だ・・・。
予算は国会で通ることで成立する。
だが、衆参両院での通過はない。
衆院が優勢であり、参院は否決でも、成立だ。
そんな実情からその必要性が議論されている。
参院の存在は衆院だけでは、暴走する可能性を案ずることから生まれた。
だが、現実には機能していない。
92兆円超という金額だ。
税収が43兆円だ。あとは借金という国債である。
国民一人当たり800万円弱の負担になる。
まずは、被害を受けている被災地を手当てしていくことだ。
傷口を治すことから始めよう。
拉致も同じだ。
国民は国家の宝なのだ。
拉致されたなら、どんなことをしてでも取り返すというのが筋だ。
この国の民は意思をもっていることを強く示すことが必要になっている。
いつまでも属国ではいけない。
協調と従属は違う。ましてや隷属なんていうことはない。
米国のパシリと、韓国大統領や中国は揶揄したのだろう。
パシリと言われてうれしいやつはいない。
いまにみていろということだろう。民主国家として堂々と国際社会で生き抜く決意が大切だ。予算も成立した。大きな志で進もうではないか。
緊張感がない。
川口委員長の解任についての決議だ。
頼まれたら、とことん便宜を図る。当然ではないか。
揚げ足をとるという動作がひとりでにでてくるのは、野党の無責任からかと言える。
やっぱり、野党ということだろう。
もとのさやにおさまってうまく腰を据えてとおもったら、そうではなく、責任とか責務とかがまったく感じられないような行動になっている。それに気付いていない。
中国共産党の想う壺であるということか、それとも結託していたのだろうか。そこまでの意思疎通のルートはないだろう。
だから、うまくあしらわれたということだろう。
風がこんなに気になったのは、なぜか。
今まであまり気にしなかったこの時期の風だ。
嵐のようだ。
天気はいいのに、風が吹くとどうにもあまり気分がのらない。
としのせいかな・・・。
ふと、そんなことをおもったりする。
だが、すぐそこに暑いなつがまっている。
この国には、賭けごとがおおい。
やくざの任侠道が、社会で必要とされていた事実と、英雄がいたことだろうか。
清水の次郎長親分は、東海道の名物であった。
地元の発展に貢献したという点では、今でいう国会議員の先生と同じような役割を演じていたということだろうか。
肝っ玉が大切な商売道具であり、きっぷの良さがまた大事なことであった任侠道とはなんだったのだろうか。
それを行動で示すのが、賭けごとだったのではないか。
胴元を仕切る。
それで、世の中を観ていたのだろうか。
社会のはぐれものをちゃんと生業につけさせるというよりも、社会での自立をやくざという世界で手助けしていたということらしい。
人生そのものが、ギャンブルだというのは、あながち否定はできない。
きっぷの良さとは、覚悟からきているようだ。
もちろん武士道にも「死」という覚悟がある。
商人にも、農民にもある。
階級制度の士農工商というのは、見かけの序列であり、真のものはそこから外れたところからみるのが正しい。
社会には常にはみ出しがある。
そこをどう枠におさめるかが、政治の役割でもある。
日本の社会はギャンブルも、競馬、競輪、競艇、オートレースなど多岐にわたって受け入れている。宝くじもそうだし、ロトだってそうだ。
カジノも今、取りざたされている。
その仕組みはどれも、配当内容にある・・・。
どっかから来るんだろうな。
迷惑メールに仕分けているのだが、それでも流れてくる。
情報社会で、なにも見えない状態でさまよってしまうきがする。
ICTというものに、脅威を感じて、畏怖するすがたではないか。
でも、なにかもっと楽しいものはないのか。
パスワードもなく、自由にできる空間はネットの社会にはもう築けないのだろうか。
閉鎖社会でもある。
個人情報というものを知ったのも、ネットができてからである。
たしかに全世界どこでも、見ようとすればみれるというのは、いいことなのだ。だが、それ以上に妙なところでひっかきまわされる。
どこから、くるのか・・・。
個人ではなく、ビジネスとすれば、どこからそんな取引が成立するか、わからない。
もっとシンプルになればいいのだが・・・。
このままでは先細りになるに違いないと危惧してしまう。
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