グルメ・クッキング

企業秘密の範囲について思う

どこまで許されるのだろうか。それともそんな許容範囲はないのだろうか。

企業秘密です。食べ物のうまいものを提供しているお店は、そういうことが多いようだ。面倒なのだろうか。それとも説明できないような奥深さがあり、ほんとうに説明できないのだろうか。

食べ物。おいしければいいことは決してない。健康に直結した食物は私たちの命のもとである。そこに企業秘密というブラックボックスがあるのはどんなものか。薬品は承認されたものでしか市場にはでてこない。そこに段階があって、医師が個別に処方するものもある。

食べ物はどうか。

ドラッグの入った食べ物がもし、ファストフード店で売られていたら・・・。ありえない話だが、たとえばのことである。日本ではたとえ話は喧嘩のもとになるような一番のものだった。そんな疑心暗鬼でおれたちを見ているのか・・・。そうなるのだ。だから日本ではたとえばというシミュレーションは歓迎されない。リスクマネジメントも同じ理由でそっぽを向かれるようだ。

でも考えてみよう。秘伝のタレがどんなものが入っているかわからなければ、私は食べたくない。おまえ腹が座っていないな。臆病もの。そう言われてもかまわない。怒ったりはしない。

なぜならば、そんな不明確な状況に自分を置きたくないのだ。だから、私は海外でもあまり目にしないものは食べない。昔は田舎だったので、さしみは食べなかった。それは、冷蔵庫の整っていない時代には、変な食べ方でしかなかったのだ。すくなくとも山腹の田舎でそだった私にはそればセーフティネットなのだったし、それで自己保身をしていたのだ。

いろんなものが情報開示されている。その情報自体が信頼できなければ、元のもくあみである。そこで終わるしかない。

品質の悪いものは価格が安い。そうは言えない。品質をごまかすために、価格をごまかされればもう消費者は判断できない。これ安すぎるんじゃないの・・・、とは言えるが・・・。これまずいんじゃないのとは、なかなか言えないものだ。技術的にも信義上もである。

この辺が、狙い目なのかもしれない。ひとの心理をついて、偽装する。儲けがあれば、それで法人はお金を食べる生き物だから、・・・・。それで生きていき、さらに悪さを拡大してしまうのだ。

企業秘密は、悪いとは言わない。自分で詳細に検討し、害がないと判断してから、あらためて、第三者に安全性を、きっちりと検証してもらうことだ。

これは、なにも食べ物だけの話ではない。企業そのものについても、いたずらに法人の食べ物だけを膨大にしているなら、許されることではない。

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毎日、何を食べたらいいのか

いったい私たちは、毎日、何を食べて生きていけばいいのだろうか。

お米が汚染されている。カビ毒や農薬が混入残存している。それが、安全な食糧として巷に流通している。貧しい人たちには安い食糧を供給するというなら、きわめていい政策である。でも、うなぎも米も本来、口に入れることを想定しないで、帳簿上の利益のために利ざやを稼ぐ商売しか、頭にはないようだ。

私たちはいったい毎日何を食べたらいいのだろうか。自給自足が必要になってきている。二酸化炭素を許容内に収めるにも、それがいいのだ。無駄なお金をかけない。それがまず大切であろう。

次に想うのは、事前に検証することである。トレーサビリティはもちろん、安全性を示すことが自分たちの仕事の重要性をアピールし、他の仕事のひとたちも同様にその役割を果たす。そこには、社会のルールを子供のころから説明していくのがいい。私たちの社会はこうやってすべてがわかるようになっている。だれがどこで何を作ってそれがどういう風に処理されて消費市場にでているのかがわかる。もし、そこに食用に合わないものがあれば、どうするか研究すればいい。

これから、安全な水が入るかわからないという時代もくる。水がなくなるかもしれない。そんなとき、どうするだろうか。今あるものをリサイクルすることだろう。

宇宙船なら、日本の飛行士が実験をするようだ。

でも私たちは、この地球上でそれをやればいい。地球の自浄機能を活かして、リサイクルさせる。

日々、食べるものを近くで栽培して、日々、それを収穫し、生活に使う。在庫のない生活とでもいうのだろうか。

こう考えると、じゃ明日食べるものが手元になくなる・・・・。そんな声が聞こえてくる。そうではなくて、自然の中に保管しておくことだ。

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行列が絶えない店がある

ここは静岡市清水区。場所は漁港の市場だ。ここに魚屋さんの魚市場がある。

食堂が数軒ある。どうもその一つが評判のようだ。待たないと食べてない店だ。二十人ぐらいがいついっても待っている。一度だけ入ったことがある。確かにマグロ丼の中味も多いしおいしかった。

でも、それだけであんなに行列はできない。みんな並んで食べるのが好きなのかもしれない。こんな不況の町でそんなに客が集まるのはなぜだろう。

マスコミが取り上げたからだろうか。いや、清水すし横丁はエスパルスプラザでちょっと歩いて10分ぐらい離れているし、どうもわからない。

何が客をよんでいるのか。わからない。でも行列は今日もできていた。私はコンビニでおにぎりとサンドイッチを買って食べることにした。並んでまで・・・という心境だから。

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食べること

モノを食べるのは命を維持するためだ。

そんなことを言うと、なんと野蛮なといわれるかもしれない。

でも、それでいい。

これからいろいろなことが解明されて、病気もなくなり、やがて死もなくなるかもしれない。ヒトが死んだのはいつごろか21世紀ごろの科学がまだ発達していなかったころのことだ・・・・。そんな会話が聞かれるのももうすぐではないか。

でも、それはいやだ。

なぜならば、生まれて消えるのは生命体の定めである。いつかいなくなるから、いつか消滅するから・・・。だから、がんばる。ひとの命は継続するものだ。だから、そこに命が伝わり、文化とか伝統も継承されていくのだ。

食べることは、だからその命を支える重要な活動なのだ。それがすべて必要なくなって単に生きているだけなら、どうなるのか。細胞の衰えもなくなるなら、それは後期老齢者の問題もなくなるだろう。でも、肉体的なものと精神的なものはどうするのか。もし生命の誕生は継続するなら、この世の中はヒトであふれてしまう。

新たな消費税、命税というようなものが出てくるのではないか。それとも、身体を動かしひたいに汗して働く必要もなく、ごくごく一部の人が活動することでいい時代になれば、もうミニチュア化していくだろう。今のありの大きさぐらいなら、これから20倍ぐらいになっても十分だろう。人類1000億人は新たな惑星に移動するのではなく、この地球上に居住できる。それを進化というだろうか。

食べ物もアリの大きさなら、体重10グラムなら食糧は0.1グラムもいらないだろう。そうしたらこの地球上の資源はほぼ無限大になる。

それでもグルメは伝統として残るのだろうか。

そんな世界は地球の寿命100億年の今半分だから、崩壊寸前にあるのではないか。やはり宇宙開発を地道に進めていくしかないだろう。それとも、人間は時間を克服して、複数の空間を利用することができるようになるのだろうか。

隣人はちがう時空の住民なんていうのも現実的な解決方法かもしれない・・・。

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食生活について

また食品偽装だという。今度はリンゴジュースだという。

それも、青森だという。産地そのものではないか。ここにも中国産という製品が価格面と品質面で日本の業者や専門家のたくらみを可能にしている背景があるようだ。悪いものは使わない。使えない。すぐに見破られる。素人ではない、専門家はその違いがわからなければ、創意工夫という範囲での努力をしようということになる・・・。

そこにひとつ問題がある。創意工夫。いい言葉だ。わたしも好きだ。それは、能力の低い人がその上の仕事をするようなものだろうか。資格のない人が低賃金でそれ以上の仕事をするなんていうことによく似ている。ブラックジャックは医者の世界だ。

食品偽装も低価格でおいしくて身体にいいものがあるとでてしまうような気がする。同じ賃金でより仕事をする生産効率のいい下請会社なんていうのも同じかもしれない。

中小企業が大企業の代わりに仕事するなんていうのも同じかもしれない。みんな自分では行動しない社会がこの世界にはいっぱいある。経済を牛耳ると生産現場にはほとんど興味がなくなり、お金だけがすべてとなる。でもそこに間違いがある。

人は、衣食住だ。ひとは一人では生きられない。ひとは食べていくことが必要だ。そこに永遠のテーマがある。

食生活は質素なほうがいいと私は思っている。そしてそれを心がけている。でも、つい忘れる。健康に悪いものや悪いことだけをやってしまう。暴飲暴食なんて当たり前だ。メタボリックなんてみんな同じだ。肥満なんてみんながそうだ。

食生活をみなおさなければいけない。いつもそう考えているのだが、つい忘れる。

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おいしさ

うまいめしを食った。おいしい食事をいただいた。うめえおにぎりを腹いっぱい食わしてもらった。味噌汁が具にあふれてとてもうまかった。野菜があまくてたべすぎた。さかながうまい。焼き魚がうまい。干物のやいたのはさらにおいしい。もちろん刺身もいい。

酒はうまいだろうか。おいしいだろうか。もちろんうまい酒黄桜だろう・・・。うまいということばはとても便利だ。上手だという意味もあるが食べ物ではそうは使わない。

まあ百歩ゆずればいいかも・・・。この味噌汁じょうずですね。そんな使い方になる。作り方が上手ですねということで、おいしとかうまいとかはわからない。

つくり方が上手であって、味は良くないときに使うことばかもしれない。

おいしさとは、あなたにとって何ですか。そう問われたことがあるだろうか。私はない。だから答えはまだ考えていない。おいしさって、なにか嬉しいという感じはするのだが、どんなもんだろう。

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健康食とは何か

おいしく食べる。

それが一番だとわかっていても、おいしさはたくさんのたべものを体に摂取する原因でもある。だから、おいしいものを食べないで我慢するのが、今の常識のような非常識だと私は思う。

健康になるための食事なんてあるのか。

それはおいしく食べることでしかないだろう。ストレスのない生活なんてありえないのだから、いかにストレスを感じとることができるかを競うぐらいがいいのではないか。健康食すなわち不健康食だろう。

おいしいものをできるだけ多く食べよう。それが健康になる秘訣であろう。体力を蓄えることで病気を蹴散らすことが初めて可能となる。健康のためにはバランスだろう。食べ物だけではなく、そのとり方の考え方ではないか。

生きることは健康でなければできない。健康にいきるには、食べものを取らなければならない。どんな食べ物もそれは命を維持するものであり、それには健康が基本となる。そうなれるように規則正しい食事を心がけよう。

健康食とは食べ物そのものではなく、どういう風に取り込むかだと、私は思う。ちがうだろうか。

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おみそ汁はいかがですか・・・

ひとことオーダーした後についてきた。「おみそ汁なぞいかがでしょうか・・・」「おいしいですよ・・・」つい、「お願いします・・・」といった。

ご飯に味噌汁。

この組み合わせは日本人には当たり前のものだ。でも最近は単品注文が多いのでついてこない。つい面倒でみそ汁もくださいといわない。

同じ店なのに言われないことがあるのはなぜ・・・。そんな疑問がでた。店員さんによって変わるようなところではないのにどうしてだろうか。みんな同じマニュアルで応対しているはずなのに・・・。そんなところにもし気がつく人ならたぶんそのチェン店の社長のように、叩き上げて出世するかもしれない。

商売のコツというものよりも天性のものがあるのかもしれない。へんなさわやかさを感じた。だれにでも得意なことはあるはずだ・・・。ただ例外もあるので、いつもいい意味だけではないという方が現実的だ。

おみそ汁はいかがですか・・・。私にもそう言えるだろうか。まだまだ修行が足りないようだ。

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おさかなを食べよう

キャンペーン。魚を食べよう!!!

旬の魚はおいしい。冬のハタハタなんてよだれがでる。

最近はなかなか魚をおいしく食べることができない。新鮮さは格段に向上しているだろうになぜだろうか。冷蔵庫で温度管理をしているうちにおいしさがどこかへ逃げだすのだ。そういう表現は間違いではない。うまさという感覚はちょっと違うもののようだ。舌の肥えたひとが言ううまさというのは贅沢さを感じさせるだけである。私は興味がない。

おいしい魚を料理できる人は、たぶん自分で浜に買いに行くのではないだろうか。新鮮でおいしいというのは目で確かめて、その場へ行ってみて選別してくるのだろう。

だれもおいしさを保障はできないだろうから、そこまでみて確信してだすのだろう。自分の腕に自信がなければだれもそんなことはしない。調味料を使えば、すぐに自分の腕を超えるのならそんな必要もない。浜のおばさんたちが魚を売り歩くことができたのは、そこに絶対的な信頼があったからではないか。

お金と品質と、そして時間。この三つを満たすには、どこかで協力してくれる人とか、信頼できる人がいなければならない。それが、これからの世の中をつくっていくと私は思う。なぜならば、それが一番理にかなっているからだ。信頼してそういう風にならないこともあるだろう。それでも社会の仕組みはそういう方向へ進む。それが必要だからだ。今、足りないもの、それは信頼のもとになるものだ。

儒教でいう倫理とはちがうのかわからないが、やたらに義務の多いこの世の中で何が倫理かとバカにされそうだ。そして、法律だけに頼っている社会そのものがおかしいということにだれもが気付かない。気づいていても日本は高学歴社会だから、その中身は別にして何も知らないのだといわなければいけない。どうして法律に頼るのか。

どうして普通の常識ではいけないのか。専門家がいるからだろうか。今、専門家は素人の考えを一番必要としている。だからみんな普通の人になろう。もっと多くの人たちがふつうのあたりまえのひとになれば、未来のこどもたちもそうなる。きっちりと、社会の責務をしっているひとたちがでてくる。いや、いまもほんとはほとんどの人たちがそうなのだ。それが普通のひとは声が小さいので、ちょっと声の大きい一握りの人たちに踏みつぶされているのだ。

おさかなを食べよう。近い海から今朝とってきたさかなを毎日たべよう。それが普通の健康をくれるに違いない。そして、ちょっとまわりをみてみよう。大きな工場とか、空気・水・動物がおかしいところは前もって注意してみてみることだ。

おさかなを食べるときは、自分でその魚がどこでどんな風にとられたのか考えよう。よくスーパーでみるタコは西アフリカのモーリタニアとかモロッコからくるものが多いのだ。そしてもっと考えてみよう。マグロもイカもサケも日本からのものはごく少ないことを知ろう。おいしいさかなをできるだけ経済的に日本に持ってくることは間違いではないが、私たちはいつも利益を追求しているのだ。普通の生活がその対象にされるのは、おかしい。普通のひとが普通の生活をするには、自分たちで自分たちの食べ物を生きていく最低レベルは確保しなければならないのだ。

燃料が高くなって、高い魚を売らなければならないのはさびしいことだ。

だから、できるだけ経済的な価格で私たちは提供できるように仕組みをつくらなければならないのだ。どうしたらそうできるのか。あまり、過度に依存しないことが基本だ。ひとはみんな足元をみるという。なぜなら、みんな利益を追求しているのだからだ。それが、一部のひとだけ儲かって、多くの人たちの貧困を生みだしている。そんな仕組みをしらなければ、だれもが利益をあげてほめられたいとそう考えてしまう。簡単なことだ。

おいしいさかなを大勢の人たちが食べることが一番大切なのだ。

なぜならば、お客様がいなければだれも働かない。お客様がよろこんでおいしいと言ってくれればそこから、またいい魚を漁師の漁業者はとってこれる。でもだれもたべなければ、漁師の漁業者は海にでるお金もなくなる。みんながたべる普通の魚は、みんなで安定した流通ができるように仕組みをつくろう。それが、地球の裏側であって、すぐそこの海辺でもいい。

こどもたちがおいしく魚を食べる。

そのことが、この社会の仕組みでは一番大事なことだ。私はそう考えている。どこでも、世界中、どこでも同じことだ。そんな仕組みがかつてはそこらへんに転がっていたのだ。いまは探してもみつからない。

だからもう一度探し出して、なければつくっていかなければならない。

ほんとうは簡単なことだ。

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いい食生活の知恵

食事ほどこの世の中で大切なものはない。そのために身を粉にして働くのだろうか。いろいろな食べ物が不足する。奪い合う。手に入れるために競い合う。近代的なシステムでも同じだ。

暴力、軍事力、政治力、腕力などを駆使して食べ物を手に入れる。それがこの社会だ。懸命に努力しても手に入らないなら、さらに努力しなければ手にできない。そのために必要なことは、いい仕組みを創りだすことだ。決してむやみやたらに努力することではない。

社会の仕組みに沿わないで努力した成果はどこか違う方向へいく。貧しさゆえに収入も少ない。質が低ければ量で稼ぐしかない。そのうち質が改善されても量を減らさないとなると、物品が不足してしまう。余剰のエネルギーが不健康を誘う。貧しさは必要な栄養を取り上げる。ありまった栄養は私たちから健康を取り上げる。どちらも代償を要求する。

いい食生活とは均衡のとれたものだ。そのためには知恵と工夫が必要だ。

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食事のこと

日本では1日3食を食べるのが普通だ。この間いったアフリカの国では、職場では正式に昼食をとっていなかった。宗教が違うので、お祈りを決まった時間にしている。だから、アポをとらない限り事務所にもいないことが多い。

食事で困るのは、昼食は働く時間内だから、現地に合わせないとうまくいかないことだ。もし昼食中にかれら現地の人たちの間で協議や仕事が終わればそこで機会を失する。したがって、やはり郷に入っては郷に従えということわざを尊重するのが利巧な選択だろう。

確かに気候が違うので、日本人本来の厭味な言い方での生真面目さは身体に良くないし、役に立たない。だから、その土地の風習に合わせるのがいい。治安も同じだ。完全ではないのだから、リスクは大きいのだが、実はあまり過剰に反応すると危険だ。おどおどするのが一番よくない。正々堂々と控え目にしているのがいいだろうと私は思う。

食事では、1日2食であることはいいとしても、アルコール類を飲むことも、宗教上から、悪習とみなされており、ちょっとつらい。悪いドラッグ類とか、それ以上の堕落した悪習とみなされている。もちろん欧州の人たちはビール・ワイン・ウィスキーなしで生活できない人たちが多い。だから、そういうところがある。でも、それはちょっと悲しいスペースではないか。もっと、正々堂々とすべきである。しかし、生活の最重要点が違う。政府の方針が違う。

食べ物は、やはり育った環境によってちがう。そんなとき、自然体としての私たちの身体の要求、欲求は正確だ。1食の量が増えるのは間違いない。それは、生きるための最低の欲求かもしれない。時差と同じように体内なんとかがいっぱいフルに働いて外敵から防御してくれているのだ。

食べなければ死んでしまう。食べることは究極の問題であり、争いのもとともなり、友好の礎にもなる。食習慣は大切な宝物だと私は考えている。

もっと自給率を上げるべきだ・・・。挙げていかなければいけない・・・。そう思う。

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健康時代とは

健やかに育て!何がなくとも親はそう思う。

そのためには食物が大事だ。自然の中で生活するのは不自由がついて回るので、私たちは社会基盤の整備を進めてきた。水道、下水道、食品流通、文化、科学、教育、スポーツなどが現代社会では標準的に整備されてきている。都会が先に整備され、田舎へと普及している。先進国から後進国、途上国へとこの流れは進んでいる。

健康とは長生きすることだけではないと私は思う。結果として、病気にならなければ長生きすることになる。それはいいが、健康時代というには何か大事なことを忘れているような気がする。本当の健やかさとはなにか。社会そのものが抱えているものではないか。不健康時代があれば逆にそうでない時代もあるはずだ。

今はどっちなんだ。安全安心という標語が今年もこの数年間、時代の寵児となっている。だれがなんのために安全で安心を確保したいと考えているのかわからない。そしてなんびとかが、それを阻止し不安全、心配という病を振りまいている。今はわからない。だれが何のために食品に毒をいれ、公共施設や公設の花壇とか展示物とかを傷つけるのかわからない。

だれにもできそうでできないこと。じっとこの社会を見つめて判断することである。それはこの時代が健康な時代なのかどうかである。私は今も昔もこれからもこの社会はあまり変わらず、ほとんど変わらず、一進一退の動きをしていくだけではないかと思う。時に大幅改善策があっても、それ以上のマイナスの要素が働き、無にするだろう。

健やかな笑顔が子供たちに現れるのが健康な時代であり、お年寄りがしかめつらをしてけなしあっているのが不健康な時代なのではないか。とすればまだ改善の余地はある。まだこの社会に笑顔がいっぱい残っている。そうなら、健康時代といってもいいのではないだろうか。どうだろうか。

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食べること、あるくこと

安全な食品はいっぱいある。安心して食べられる食品はいっぱいある。おふくろがつくったおにぎりは安心して食べられたのだろうか。安全なもんだったのだろうか。食べることに精いっぱいだったころには考えられない贅沢かもしれない。

表示を見て信用して食品を買う。どこかが保障している。人がやることには必ずヒューマンエラーがある。克服できるものがそういう人のエラーなのだが、実は再度起こるのだ。だから、安全で安心して食べられるものをいただくには、そういう制度を設けて監視することになっている。そして安全性を保障する。不衛生で用心して食べてもだめなものでも、保障しているものなら解決策はあるのか。実はない。かならず間違いはあるのだから、百%ということはない。

発想を変えるなら、昔に戻って、何でも安全・安心して食べられるからだを作ることではないのか。自然にはできないだろうから、人工的に作ったらまたそこには倫理上の問題がある。そんな安全安心を食の世界で望んでいるはずはない。すこし飛躍しすぎだ。

これは安心です。労働厚生大臣・・・とか、食品監視機構とかいう名前で保障されていたらどうなのだろう。水俣湾の魚にそういうラベルがはりつけてあり、保険制度もバックアップされている。そんなもの私は食べたくはない。そうでないと食べてはいけないという社会になりつつある。私はだれ、あなたは誰・・・。そんな世界が認証制度となって始まっている。自分が自分でなくなることがあるかもしれない。人間なのにある日間違って動物に家畜になっていたら、それが制度上の間違いであって形も人間なのに豚とか牛とか鶏として扱われて食品になり合法化されて・・・・。もうそんな想像はいやだ。

歩くことも同じだ。信号がないとわたれない。車も1日に1回も通らないような道でも信号がなければ渡ってはいけない。いや、もうわたれないのだ。法律を破れば死刑になるのだから、だれも渡らない。そんなところに限って1台の車が久しぶりに道路を走って青の横断歩道を渡っているひとに接触して事故を起こすなんていうことが起こるのだ・・・。

結局、食べることも、歩くことも一人ではできない。常にコンピューターに制御され、安全安心の許可がでて行動する。そんな社会がそこにきている。わたしは反対だ。ではどうしたらいいのか。みんな安全安心という言葉に乗せられて賛成するだろうから、どこかで気付かないと大変なことになる。これは脅しではなく、そこまで来ている現実の世界だと私は感じる。

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おいしさ

たべものがないと生きられない。食べ物が足りるとさらに味を追求するようになる。おいしいものでなくては我慢できないようになるのだ。

おいしさとは何だろうか。味覚、嗅覚、視覚、触覚、聴覚、そして雰囲気ということだろうか。そういうものが総合的にかみ合っておいしいという概念を作り上げているのだ。新鮮さはおいしさの一つの条件のようだ。中には発酵する食材もあるから、食べ時という意味での新鮮さだろう。

さいきんおいしいものを食べていない。あまり魅力を感じないのだ。単純なもの、自然のままのものが何か受け入れやすくなった気がする。手をかけてごてごてしたものは、それはそれでいいのだが・・・、と言葉を濁すしかない。

ほんとうにおいしいものは心の片隅にいつもあるものではないだろうか。四季折々の果物なんていいと私は思う。木の上から離れないで食い続けていた柿はその一つだし、リンゴも同じだ。いちごはあまりなかったが、紅く色づくのを待てないで口にいれて怒られたりしたものだ。家の裏のぐみもいい。野イチゴもいい。野草も食べられるものがある。学校の帰り道に塩をつけて食べたのを覚えている。

おいしさを求める人生もあるらしい。究極のおいしさを題材にした漫画があった。素材と料理人の腕と、食べる人の感性がその内容だった。食べ物の使命は飢えをしのぐことにあるなら、おいしさもそういうときに最高潮になるように思うがどうだろうか・・・。

もちろんひとによって変化するものだというのはわかるが、いただきますといって感謝の念を表すことを忘れなければ、おいしさもついてくるような気がする。

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すききらい

好きなものだけを食べている人は健康を損なうだろうか。必要な栄養素は、不足すると身体が要求するという。甘いものを長い間禁じていると思考力が劣る。そんなことを信じていなかったのだが、何かとても気になる傾向を感じたことがある。

ほんとうだった。糖尿病になると脅かされて甘い糖分を摂らないようにしている人は多い。年配になるとそうならざるをえない。でも、一病息災ともいう。健康のためには、きらいなものを食べなさいという教育を子供にする必要があるだろうか。うまれつき嫌いな食べ物はある。私はとくに好き嫌いが多い。日本人ならそんなはずはないというものもその中にある。理由はわからない。生まれて気がついたらそうなっていたということだ。

お酒が嫌いだという人も多い。でも日本人は、ほとんどが酒好きだ。人生はそれがなければ価値がないという人もいる。宗教とか伝統文化で大きく違う。もうひとつ体質的なものがある。ある酵素がない。分解できない。気分が悪い・・・。そして生命に危害を与えることもある。だから、食べ物というのは本当に大きな力を持っている。人生では食べ物を獲得するのが仕事だと私は納得している。決してお金ではないと思う。食べるために、働く。食べ物を社会に供給するために働いているのだと思う。

生命を維持するためのたべものには、私の場合は、該当するものはない。だから生きているのだが・・・。そういう中でも質素な食生活が一番いい。そういう伝統が一番大切なのではないか。

もっとも、プロのスポーツ選手やとくに専門の能力に必要とされる体力がいるのなら、それはそのニーズに応じて努力するのは当然だ。その任務が終了したらまた元に戻そう。健康を考えるとそうなのだ。

プロのフットボーラになるために、学校で早飯をさせたという母親がいたという。相撲とりは普通の少し大きいというぐらいの子供が、食事の指導管理で3倍ぐらいになる。それは筋肉と脂肪の芸術のようなものであり、伝統的な精神修養の面も合わせて受け継いでいるのだと思う。しこを踏むと日本人だと感じる。大地に足の裏をぴったりとつけて勝負をする。単純だが複雑で崇高なメカニズムがある。バランスの方程式だけではない。パワーの強弱もある。ナノテクノロジーの世界で肉体をコントロールしているようなものではないか。すごくデリケートなんだ・・・。

私は、目的にあった食べ物の摂取を心掛けたいと思っている。だから、私の好き嫌いはこの意味で特に問題はない。そして、子供たちはだれも私の好き嫌いとは関係なく暮らしているようだ。食べ物はもちろん、ペットも同じようだ・・・。

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私ができること

あなたには何もできない。

そういわれることが多い。自分でもそう思っていた。たとえば、遠くは台所の食器、食べた後始末なんかは、不可能の域にあった。私はそんなに汚れた多くのなべやかまや食器を数分で洗えるものではない。そういう風にかたくなに頭で想っていた。自分にはできないことの一つであると考えていた。思いこんでいた。

ある時、通っていたところの実習があり、航海中には食器洗いの当番が回ってくる。クラスの人数分を数人で手分けしてやるわけだがかなり量は多い。こんな多いのに終わるわけないだろう。でもやった。すぐに終わった。段取りが大切なのだ。それから、皿洗いへの先入観はなくなった。

ずっと自宅のある土地で仕事をしていた。

職場と家庭との毎日の往復の繰り返しが続いた。他の家庭では主人も奥さんの台所仕事を手伝うらしい。私はそんなことは私にはできっこないと思っていた。そう信じていた。みんなで口にいれるものをすばやくそして毎日つくり準備する。大変なことだといつも感心してみていた。あるきっかけで、東京で一人暮らしをすることになった。週末とか仕事の区切りだけ帰ってくるという生活である。スーパーでの買い物が恥ずかしい。そしてどうやってご飯を炊き、その水加減とか米の量、炊飯は自動だけれどもすぐには食べないで少し蒸らすというようなことも聞いたことがある。どのぐらい保管しておけばいいのか。食糧はどういうものがあるのか。外食すればいいではないかと思っても、どんなものをどうやって頼んだらいいのか、おひるは混んでいるしいやだと思った。そのうち慣れたようだ。でも自分でやれることは自分一人でいるときだけにすることに限定した。家にいるときは今までと同じようにふるまった。本当はできるのに何もしないのは少し心苦しい。そして、私にもできるということを表現してみたいと思うとともに、そんな必要はないとも思った。

日本にいるときは、そんな状態だった。

時々海外へ出張する。ホテルでの短期滞在は楽だ。そういうことをする必要がないのだから、東京での生活に比べたら楽だ。その前に出張の準備とかも、奥さんにしてもらっていたことを思い出した。近くでの国内の出張でも着替えとか靴下とかYシャツとか・・・。洗面道具とか・・・。みんなそうである。最後にカサはどうする・・・。みんな依存の状態だった。それが、準備ができるようになった。どこかへいくためには、お金とチケットと渡航書類、仕事の資料・・・。個人のものは簡単にする。かなり要領よくなった。できるようになったことの一つだ。

でも海外で、アパートで自炊で滞在するという経験をはじめてした。今終わろうとしている。結構大変だ。いろいろと経験のある友人に教えてもらった。まず水がポイントだ。健康に直結する。食べ物の偏りがある。治安の問題がある。土地がらにより全く異なる周囲の生活と外国人に対する対応も戸惑うものの一つだ。物乞いがいる。恵まれない人たちに何かを恵むのはヒトとしての行いである。しかし、直接はやらない。周囲からどんどんやってきてすっからかんになる。目に見えている。この場合は、目をつむり自己防衛に徹することだ。欧州の年配の外人が同じように若い婦人が現地の物乞いの子供にお金を渡すのをとがめていた。同じことだ。そう直感した。その若い人は納得したようだったがしょげていた。そんなものだ。自己を防衛する。自立する。そういうことだ。

こうみると、私はずいぶんといろいろなことができるようになったようだ。でも、環境が変わると、つまりホームに戻っていくと元のだらしないヒトに自動的に復帰するようだ。これは本能的なものだ。私は何も自分ではどうのとか意識しないでそういう風になる。

この時代でも自己では調整も何もできないことがある。でもそれにも自己管理は必要である。海外への移動とか国内の移動での航空機の利用である。移動中は、私は貨物である。こころはあるものの、何かあれば何もできない。あきらめを自分に納得させるのが私の仕事である。そうでなければ仕事はできない。確率なんて関係ないのだ。自己の身におこるかどうかでゼロから100%かなのだ。オーロアナシンなのだ。

そうなのだ。だからあきらめというより、前向きにこれからのことを考えるのだ。空しい場合のことは考えない。そう自己コントロールする。こんなことがいつの間にかできるようになった。

いま、新たな考え方を考えている。ほとんどは繰り返しのパターンなのだ。温故知新というのが実は新しいのではないか。バイオエナジーしかりである。古来、ヒトはバイオを使ってきた。自然エネルギーはもともとヒトの生活そのものを支えてきたものだ。それが量産体制を必要とするようになって変わってきたものだ。ヒトの食糧も同じだ。量産する必要があるのか。みんな一番大事なそういう自己の生活のために働くという意識がなくなっている。当たり前のことが実は一番大事だということを忘れている。私は、今、そんなことを考えられるようになりたいと・・・。もうすぐできると・・・。期待されているのかもしれない。もうすぐだ・・・。

私は結局できることも場合によってはやらない。そんなこともできるようになった・・・。これはかなり難しいことだ。私にとっては新たな領域である。これもあれも自分でやることの一つである。いろいろとできるようになるものだ。そういう考え方を持つことができれば・・・。

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うどすぱ

うどんをもらった。海外での話なのでそれをどう食べるのかはいろいろである。自炊なので自己流であれこれやる。うどんをスパゲッティ風にして食べた。その発端はスパゲッティ用のソースがあったからである。たらこ入りの和風味であった。えいや・・・、という感じでゆでたうどんを水を切ってからフライパンに移して、ツナ缶と一緒にまぜあわせた。

どうもゆですぎたようですこし歯切れがわるい。失敗か。でもまあまあとしておこう。そしてそれから数回トライしている。結構いけそうだ。でも飽きてきた。偽物はそれだけでしかない。あとはラーメンがある。日本製ではないのでスープの味がよくない。合わない。賞味期限なんかも気にしていられない。関係ないというかんじだ・・・。

栄養に注意してなんとかこの短い期間を健康に過ごさなくてはいけない。栄養に留意といってもそうするとかなり日本にいるときよりは、食事はしている。もっともアルコールがないので、その点はかなり違う世界にいる。宗教が違うので飲んでもいいのだとはいっても、郷に入っては郷に従えという。その方が仕事もやりやすい。あまりこだわらないようにしているし、ほとんどこだわってはいない。

たぶん帰ってからこの話は絶対に口にしないと思う。なぜって、食べ物の味はその土地でのものだから・・・。おいしいといって買って帰っても、風土が違うとまるで香水を嗅いでいるようなスパイスが多いから、要注意である。

うどすぱ。うどすぱ。うどすぱ。次は、そばすぱにチャレンジしようかと考えている。これはちょっと味がいまいちではないか。これはやめよう。話だけにしよう。それがいい。

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なべの炊飯

フライパンが一つあった。ラーメンを作った。この土地の水はまだよくわからないので、ボトルの水を使った。でも、なにか足りない。

こんど鍋を頼んだ。ふたのない鍋を台所にひとつおいてくれていた。柄の樹脂製部分は半分かけている。まあ、なべ本体には関係ないのでいい。ゆで卵を作った。おいしかった。塩がなかったので次の日、買った。また作った。今度は塩味で結構・・・まあまあと強制的に自己満足してみた。でも何か足りない。なんかの味が懐かしい気がする。米飯である。

でもでは炊飯できないだろう。そんなことはやったことがないし、お粥を作るのは確かに鍋であるが・・・。そうこうしているうちに、知り合いができると教えてくれた。

なべに米を入れて水を継ぎ足しながら芯が柔らかくなるまで煮沸した。なんとなくできたようだが、火加減と水加減が難しい。不揃いの米粒たちという聞いたことのあるようなキャッチフレーズが頭に残った。ずっとパンだけだったので、まあよかった。

けっこう面倒なのでジャガイモを煮たりして、数日間ごまかしていた。ジャガイモもおいしい。ニンジンもゆでてみた。まあおいしいほうだろう。

またトライしてみた。なべの炊飯である。この前から少し上達した。でも、まだ不揃いの米粒たちのままである。インスタントのカレールーとふりかけを知人からもらったが、使うにはもう少し上達する必要がある。すくなくとも均一な米粒たちのレベルにしなければもったいない。

ご飯は炊飯器で炊くものだとしか、考えていなかったが、なべでもできる。この地にいくらでもある砂は食べられないが、建物のコンクリートの材料になっている。なんでごはんと砂なのだろうか。今、私の頭のなかには、この二つのキーワードしかないようだ。砂漠の国だから、仕方がない。昨日のお昼の漁村で食べたのはラクダの肉だと運転手のソーさんがいっていた。

また、なべでごはんを炊くことにしよう。あまり上達しても役に立つことはないだろうが・・・・。

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