ファッション・アクセサリ

センスのもんだい

どんな格好がすごしやすいのか。ファッショナブルなんていう言葉がよく似合うひとがたまにいる。

それは太ってるとか、痩せているとか、ちょうどいいとかいう基準とは違うものだ。

格好いい。

そう思えるひとがときどきいる。雰囲気とかセンスとか、ほとんど関係のない私にも、オーイケテルナ・・・と感じさせるやつらがときどきいる。

それは、機能性にあるんではないだろうか。機能美というものがある。はたらく手は美しいと思う。きれいとかいうのではなく、機能的なうつくしさがたしかにある。

高層ビルも機能的でなくては、時代に遅れるだろう。最上階まで登るのが私はもったいないと思う。もっと低層階でいいのではないか。

高層ビルの機能とはなんだろうか。省エネに反しているのは間違いない。土地の有効利用だろうか。陳腐化する速度と維持管理費、そして周辺地域への悪影響なんて考えればとても理屈はつかないだろう。

だいたい寿命がつきたときに安全に破壊する方法があるのだろうか。造る時と逆のことをやるわけにはいかないだろう。

その答えは、平安時代にある。都の機能を遷すのだ。すべてを一度に移すことだ。それがいいのではないだろうか。東京と大阪、札幌とか北九州とか順番に回ればいいのではないか。

構想があれば、それは意外に簡単にいくのではないか。いずれにしてもセンスの問題だ。

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自転車と車という発想

自転車はなくなる。いや要らなくなる。文明の利器とは、便利なものが不便なものを駆逐することを象徴しているようにみんなが想っていた。

今、どうか。自転車はブームになっている。人力で走るのだ。車はそうはいかない。ガソリンがいる。お金がかかる。運動にもならない。事故も多い。自転車は、その存在価値を車との対比において十二分に証明しており、支持を得ている。年代は多岐にわたるようだ。

なぜ、なくなると考えたのか。便利さが違うということか。いや、便利さでいえば、近いところへいくのはとても便利だし、狭くてもすいすい・・・ということもある。もともとその対比の構図がまちがっていたのだ。

TVと映画。これも同様だ。今、映画館で鑑賞というのがブームだ。なぜだ。TVの画質も改善され、大型化している。でも映画館の迫力にはかなわないというところだろうか。ここにも見落としていたものがあるようだ。

インターネットと書籍。この対比はないだろうか。駆逐されていくのは古くからあるものだ。書籍はなくなる・・・・?わからない。でもみんなが出版している。出版そのものが大衆化しているようだ。ということは、同じようなニーズがあるのか。

書籍という形で広まるのが当たり前と思っていたら、違う。電子媒体に変換されている。だから、どこへでもICT技術の中で飛んでいくのだ。どこでもドアではないが、似たような変化だろう。

ヒトはどうだろうか。実存の人間と虚像の人間なんていうのはないだろうが、・・・・疑問もでるような不思議な微妙な感じだ。

書籍という物体が中味をディジタル化されて、情報になっている。つまり、ヒトという物体がディジタル化されれば、情報になれるということだ。つまり、ヒトの持つ知識とか、ノウハウとかいうものは、書籍の場合と同様だ。ディジタル化できる。

残るは中味の物質としてのヒトだが、これは書籍の紙と同じことだろうか。つまり、物質が電子化されれば、可能だということだろう。どこへでも実体を伴って飛んでいける。でも今のセキュリティではだれもそんな情報網に乗りたくはないだろう。停電、バグ、いろんなトラブルでどこかへ忘れ去られてしまうことになる。

類似の発想はいっぱいあるようだ。

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モード学園コクーン

地上50階、地下4階の高層ビル。新宿の街に新しいランドマークが現れたとのことだ。

コクーンとは繭のこと。それは、この学校のデザイン性という特徴、創造性というようなイメージを直接アピールしているものだ。

東京だけでなく、他の都市にも同様のコンセプトでのビルがいっぱいありそうだ。もし、若かったら、こんなところで勉強したいと思ったかもしれない。

この時代は巨大建築構造物が盛んである。9・11のあの苦い経験が実は、建築界の構造設計の進歩を裏付けていたのだ。エンパイアービルという姿とはもうまったく違うものになっている。

ドバイに世界最高のビルができる。どうしてあんなところに・・・。だれもが想う。でも、土地がありお金があり、ひとを集める力があれば、それは可能なのだ。狭い土地で、あくせくしている時代は終わったのだろう。

広い敷地でいい環境を人工的に創造していく。そんな姿勢は今の時代に合わないかもしれないと私は考えていたのだが、どうも流れは逆のようだ。新天地というか新規開発という意味では、何もないというスペースの方が経済的にも有意義なのだ。

自然災害も少ない広大な土地で生活する。それは、都市の適地選定基準が変化していることではないか。国家戦略もあるだろう。

とすれば、このモード学園のコクーンは、砂漠の広大な土地の利用方法をも提案しているような感じを私は受けた。若い人たちにこのビルは衝撃を与えはしないだろう。それは、彼らの方が新規性に満ちあふれているからに違いない。

こんなビルで勉強してみたい・・・・、そう想うのは私だけではなさそうだ。すごい建物だろう。一度見たいが、中には入れないのだろうか。数十年前に、新宿高層ビル群が建設されたころ、門前払いされたことがある。せっかく地方から見に行ったのに、ちょっとぐらい・・・。セキュリティの始まりだったころだったので仕方なしか・・・、な。

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ファッションのこと

気にしないという気の仕方がある。それは、精神的にはまったく同じものではないか。ファッションの表面を気にすることと、内面的な心理にある。

ひっそりとした暮らしをしたいと思うとき、街角で目立ちたいという思いはない。山中でいるときは、安全が大事だ。しっかりと身支度をして、とくに足元を固めておきたい。怪我をしないようにという思いがそこにある。

もし、熊と同じところにすまなければいけないとしたら、私たちはどうするだろうか。殺傷するようなものがないとしたら、いろいろと工夫するだろう。まして、家族と一緒だったら、それはとても大切な作業だ。生き方そのものを、コンパクトにして餌になるようなものは残さいとして捨てないというようなことや、土手や塀のようなものをつくるだろう。

熊がいるかどうかたしかめながら、移動するだろう。その生態に注意していくだろう。情報を集めて対処するだろう。それでも、犠牲はでるかもしれない。それでも、その土地を捨てることができないとしたら、さらに工夫するだろう。

最後は共存という問題を捨てることになるだろう。それは、もうどちらかが生きるという二者択一の世界でしかない。

ファッションについて、実用という意味が土地によって変化する。TPOがある。でもそこで私たちは、楽しみとしての意味を、心の在り方と着衣服装は関係していると思うし、大事なものだと考えている。

でも、江戸時代にはもどらない。社会的なこともファッションである。どんな影響を受けてどういう風に変わるのか。そんな経緯を調べることも大事だ。

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ダサい演出

昔はバンカラというファッションがあった。そして、なぜか今そのまったく逆のような女々しいファッションが男性の間に広まっている。

これは、私の誤解かもしれない。

では、どんなことが起こっているのでしょうか。

きっとボーダレス社会がどんなことに対しても襲ってきているのだろう。

男女の性差は実は、簡単なことなのかもしれない。雌雄同体とかいうことが、自然界にはあるし、ましてや孵化するときの温度で性差がきまるのがカメの場合だという。

だから、ダサイ演出も実はおしゃれの一つなのだというのが、私の今日の主張である。

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個性的なこと

私たちは生き物だ。ヒトという生き物だ。

それは弱肉強食の世界である。当然のことだ。菜食、肉食、雑食などと分けられるが、そこまで進化していない生き物がいっぱいいる。

個性的なヒトはたくましさと、その生の喜びを表しているようだ。スポーツ選手の鍛えた身体はまるで宝石のように見える。

個性は私たちの誇りだ。だれもがどんなヒトでもそれは必ずある。そんな個性をいいとか悪いとかではなく、そういうそのものとしてみていきたいと私は考えている。

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生活様式の選び方

ファッション。あの人はファッショナブルだ。そんな声を一度聞いてみたいものだ。

縁がない。私はそんなどぶくさい男である。そして、それがそういう類のものだと私は思っている。あまりにちゃらちゃらするのは好まない。できないといった方がいいかもしれない。一度どっかで、イメージチェンジをすれば変わるかもしれない。

そして、今生活のスタイルもどうしたらいいのかと思い悩んでいる。ひとにはいろんな選択がある。何かこう透明感のある居室で活動したい。そんなイメージを今もっている。

考え方が一番の元だ。それはわかる。では、それはどんな方針で求めたらいいのか。自分というものを、あまり意識したら、それはおかしいものになる。そんな気がする。でも、自分のいないこの世界は自分には関係なくなるということでもある。しかし、どっかでだれかの心の中にいきていることもできるだろうし、それはそれでいいかもしれない。

そして生きている今、どうするか・・・・。どう選ぶか・・・・。

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インターネットの未来

これからどんどん世の中は進歩するのだろうか。それとも、途中でなにか大切なものを忘れているために、立ち止まらざるを得ないのだろうか。

果てしないということは、どうもなさそうだ。その変化が現在の一酸化炭素の問題のように主流となっている排ガスのようなものなのか。よくはわからない。クジラを食べないでという保護団体のように、空気を汚さないでという運動もおこるのだろうか。空気も消費しないでといういい方が正しい。それでは生きていけない。

循環型社会なのだから、リサイクルさせるのがいい。再び使うのが当たり前だ。そしてもちろん消費量を減らすことも大事なことだ。インターネットとは何か。情報・通信の技術である。コミュニケーションの手段である。大事なことは、それがどこまで必要となるのかだろう。将来を語る時、そこにある技術がどんなプラスマイナスの働きを総合的にこの自然社会に対してしているかであろう。

木を切ったら植栽を考える。当然のことだ。インターネットで通信手段が大幅に改善されたら、そこでその利益をどこに使うのか。いままで一週間かかっていた仕事が移動の時間が短縮され、正確性も高まったために、短時間で終わる。とても効率的だ。でも、そこで本当に生産性が挙がったのだろうか。プロセスが短縮されるとどうなるだろうか。あいまいな時間、考えなおす時間、無駄な時間がなくなる。それでは、生産性も段違いに変わると言えよう。でも、現実はどうか。いろいろな弊害がある。スローな生活の中に急激に広まるファストスピードの世界が襲いかかっているようだ。

弱者をさらに弱くし、強者を極限まで強く傲慢にする。そんなものがインターネットなら、それはおごりである。そうなら、すぐにだめになる。しかし、弱者の糧としてのインターネットなら、強者も弱者も差がないなら、それは男女平等法と同様にいい働きをするのだと私は考えている。

インターネットの未来は、きっとそんな方向へと進んでほしい。

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組み立てること

いろいろな素材がある。それらをどう活かすか。地域振興、とくに地方の活性化という問題はどこに原因があるのか。資本が地域に密着していない現状では、どこにでも飛んでいく。生活を自然の形で残すひつようがない今、多少の投資はあまり関係ないようだ。暑熱下にドームスキー場を作る。極寒の地に熱帯プールを作る。どこか方針が狂っているとしか言いようがない。

そんなことが服装でも起きている。暑いところで、冷房の利いた空間にいると、それはファッションも極寒のものになるだろう。寒いところで、暖房のきいたところにいるとそれは同じことだろう。

でも何かおかしいと感じないだろうか。不自然だ。土地に付帯しない、土地に愛着を感じない企業風土も同じだ。そのファッションスタイルは自然の法則を無視した資本依存の世界でしかない。お金がなければ自然はない。ジェラシックパークも危険動物を人為的に囲ったものだ。自然の猛威でもし不具合が発生すればそれは、そこで終わりになる。

そんなリスクをどうして異常だと言わないのだろうか。よくわからない。環境問題で、CO2がその原因なら一番大きな排出先であるものをなくさなければならないだろう。でもそこが今の経済を支えている。技術を支えている。そんな時代の趨勢はすぐに変化するのだが、今は離れられない。もともと消滅させなければいけないものを、言葉を変えて削減という。1000分の1ぐらいにしなければいけないものを、半減で大幅削減という。それは五十歩百歩だとはだれも言わない。成果がでない範囲の違いを評価することでごまかす。

組み立てることで、いろんなことができる。ファッションも同じだ。でもまずは地域に密着しようではないか。この私たちが住む土地を活用し、そこの生活を楽しめるように、地域経済の振興を考えようではないか。資本は、もうけを追及してどこかへ行ってしまうものだが、そこに地域住民という形で人材を育成していかなければ、まるで係留地のない気球のようなものになる。それは、すぐに老朽化し、どこも逗留すらさせてもらえなくなり、朽ち果てるのは目に見えている。

ここらで考えようではないか。今ある地元の資源を活用する組み合わせをしっかりと組み立てていこうではないか。きっとあるはずだ。ひとがいる限りそれは不滅だから・・・。

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はやりの格好

恰幅がいい。そんなほめ言葉がいまはない。だれも言わない。

そして、恰幅のいい人たちがいっぱいいる。それは、メタボリックという流行語になっている。後期高齢者ではないが、どうしてメタボリックを差別するのかとだれも言わない。朝のTV番組でもメタボリックはどうして差別されなければならないのかなんていう議論はない。

動きやすい。働きやすい。そんな独特の格好は体格にもある。事務所で仕事をする人。外で作業をする人。いろいろである。そこではその要求に対応したものが求められる。

炎天下での仕事は、それなりの馴れが必要だ。農作業とか、山の仕事とか、海の仕事とか、いろいろある。オフィスの仕事も多様だ。

今、はやりの格好はどんなものかといえばやはり、メタボだろう。ファッション的にはやはりバランスだろう。どんな人物も均衡のとれていないものはいい感じを与えないようだ。でもそれも不均衡のバランス感覚なんていう視点からは、希少なものなのかもしれない。そこに気付かせる・・・、誘導する・・・、自分を欺く・・・。他人をだますには自分をまず目くらまししなければいけないだろう。耐えられないのはもともと自分しかいないのだから。自分のことを恥ずかしいとか思うのは、その人だけだから・・・。

誰も興味を持たない。そんな社会がメタボリックシンドロームを生んだのかもしれない。そして社会の転がりのメカニズムが回りまわって、今、スパイラルに移ろうとしているのだ。

はやりはすたる。それが現実だ。だから、批判対象になったらそれは覚悟して次のはやりの逆の現象を演出しようではないか。悪いからすごいへと変えるのは、はやりの現象からみれば単なる立ち位置の交代でしかないように私は思うのだが、どうなのだろうか。

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おとこのファッション

いがぐり頭は、日本の男児のファッションだった。

それは明治の文明開化とともにやってきたのではないか。それまでは、みんな独特の頭をしていたのではなかったか。僧侶はもともと頭を丸めていたのか。それとも、文明開化とともに身だしなみの基準が変わって清潔さを重視したための毬栗頭なのだろうか。

それが、今また面白いことに増えているのだ。

なぜだろうか。若いファッショナブルな人たちが坊主頭にしている。有名なサッカー選手も例に漏れない。もう、若い人にとっての違和感はないのだと思う。

海外では、かなり毛髪の少ない人が多いのでホルモンのせいかと思うが、やはりはやっているのだ。有名選手だけではない。けっこう生かしているのはなぜだろうか。

さっぱりした男性がもてるのは当然かもしれない。おとこのファッションもいろいろ変化しているようだ。注目すると結構たのしく見れるものだ。

日本人の考え方も幅広くなったという証拠かもしれないですね・・・。

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さまにならないこと

急にファッションとか言われても困る。

さまにならない。どうしたらそうなれるのか。土台が悪いからどうしようもないなんて言われたらなおさらいやだ。

いつまでもさまになっていなければそれでいいのかもしれない。

でも最近なんとなく、ちょっと雰囲気がでてきた。長年のリーマン根性がどこかに残っているのだろうか。まわりと同じ格好をしていれば、それはつまりネクタイと背広だ。それが免罪符なのだ。長年そうだった。

最近は、あまり気にしない。でもやはり、事前にちょっと・・・、はてな・・・。そんな気分の時はネクタイと背広になる。まだ、まだリーマンのようだ。

まあ、どっちもさまにはなっていないので、あまり変わらないのが慰めではある。

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はやりのスタイル

年相応という。

だれでも成れる。なぜならそのままでいればいいのだから、だれでもなれるのだ。流行の格好は、なんとなくそうなる。

だらしない格好もそれが一般的となればだれでもすする。なぜなら、それが一般的だから。そんな理由でいつも生きている。生活している。

ちょっと目を離すともうそこに流行の感覚はなくなっている。

でも、いつもそういうはやりのスタイルを探している。だからほどなく見つかる。見つけられる。どこへいってもそういうものがある。先端から帰ってきても、その土地のはやりはちがう。

タイミングが合わないとただのアホでしかなくなる。それがはやりのスタイルだ。

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センスの問題

若い人の間では毛髪が立っているいる。とんがっている。ぐちゃぐちゃになっている。寝ぐせがそのままのような・・・。自然の寝ぐせはみっともない。はずかしいものだ。直そうとする。また、形状記憶合金みたいに元にガーンと戻る。その繰り返しだ。

でも、かなり自然のように見せるには寝ぐせも大変だろう。本当は寝ぐせではないのだ。かなりの芸術作品なのだという。中にはラーメン構造を応用しているものもあるという。それはどんななんだろう。だれかが設計図をもっているのかもしれない。もっとも女性の髪形は芸術作品がいっぱいある。そういえば男性用もちょんまげとかあるか・・・。

時代によってセンスも変わる。男女同権とか男女平等とかいう言葉をどっかでみたような気がするのだが、ファッションとか、アクセサリーとかはバリアフリーとか、ユニセックスなんてはいわないのだろうか。格好いいのはかっこういい・・・。自然に美しいものは美しいのだと中学の数学の先生がいっていたのを思い出した。田舎の学校で受験にいったときに付添できてくれた先生だったが、あまりに直接的で、強烈なことばであり叩きのめされたような衝撃を受けて、試験はだめだった。中学生は昔からセンシブルだったのだ。やはり平静な心とか平常心というのは大事だ。

センスは自分で磨けという。それでいいのではないか。時代をみるのは自分の感性なのだから、己の住む世界が江戸時代なら、そういうファッションが似合うだろう。ぴったりと自分にはくるだろう。だれも判定できる人はいないのだから、なんら問題はない。それがセンスだ。他人に惑わされるものではない。

でもあまりに時代感覚がなくなると、問題はセンスだけではなくなるのが怖い。

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仕事の仕方

どんな仕事をどんなふうにしていくのか。仕事ってなかなk難しい。気に入らないとできないし、気に入ってもその準備ができていないとできない。慣れである。必要なのは、あまり考えないことである。

そんなところから入っていくのがいい。仕事は仕事であってそれだけのものである。そんなに価値の大きなものでもないが小さくもない。一人の人が一生かけて付き合うものだから、大事にしていかなければならない。

今、外国の人たちが日本に大勢いて仕事をしている。個々で能力は違うのだろうが、国による違いはその国・地域の教育の違いのように思う。みんなが国際基準で教育をうければそういう差はなくなる。そして、国による文化とか伝統とかもなくなる。どっちがいいのか。仕事がグローバルになるということでは、後者のほうがよさそうだが、すぐにイエスと私は言わない。いや、逆かもしれない。差別ではない、独特のものが残っていくのは、いいことだ。それが伝統になり、人の尊厳とか誇りになる。そんな世の中がいいと私は考えている。

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考え方というアクセサリー

ブログを書くのはなんのため。そんなことを考えたこともなかった。

私は文章を手書きでずっと書いてきた。朝の10分から20分ぐらいを充てていた。出勤前の忙しい時間なのだが、その5分がとてもいいのだ。それでどれだけ書けるかを競う。手書きだから、漢字の誤りやうすら覚えのものもある。その点、パソコンは変換を注意すればいいのでらくだ。でも頭の中は同じプロセスが要求されるようだ。

ブログは何か考え方を整理するとか、自分の主張をそこに表現したいときにかなり重要になると私は考えている。それは、急に言われてもできないことである。手書きであろうが、この自分の頭の中にそういう構想がなければ書けないのだ。ブログに対する心構えというよりも、自己主張のための練習という位置づけだ。そこに何も求めないし、ひとつひとつを丁寧にやっているという感じなのだが、わかってもらえるだろうか。

考え方というスタイル。スタイルオブウェイオブティンキング(SWOT)とでも言おうか。そういうものをひとつの表現手段としてもちたい。そう私は考えている。それは人生における自分のブランドとかそこまでいかなくとも、腕時計や指輪、服装などと同じようなアクセサリーのようなものだ。

考え方というアクセサリーの開発もある。今は借り物だ。それらは、ハーバード流交渉術だったり、マインドマップだったり、フォトリーディングだったりする。そういうものを身につけて自分のものにするには、やはり時間と経験が必要だ。ブログは私にとってそういう試練の場でありとても大切なものだ。

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想いこみ

ふだん使わないタイトルだ。普通は思いこみだろうか。

あいつはあんなやつだ。そんな声が聞こえるような気がする。だれもが想いこみをもっている。本当はそういうやつなのだが、実はちがうこともある。しかし、単なるふるまいだけでその評価が変わるものではない。だから、そういう役割を演じているのだ。

それがどっちであっても、ときどき大変苦痛に思うときがある。

ほんとうはちがうのだが、そういえばそんなものか・・・、と妙に納得したりする。なぜだろうか。ほんとうのものはあってもなくてもいいのだ。そういうシツエーションをシミュレーションできるだけでいいのだ。

そうは思わないだろうか。私の想いこみだろうか。それとも思いこみだろうか。どっちでもかまわない・・・、よね。

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いつでも夢を

ファッション。アクセサリ。身だしなみ。目立ちたがり屋。恥ずかしがり屋。人見知り。そんあいろいろな面を持っているひとたちがいっぱいいる。そんなことは考えたこともないが、ファッションリーダといわれる人もいる。いくら努力しても似合わない、場違いな人もいる。

でも、最近は何かこう変化があるようだ。いわゆる当たり前というのは常識すぎて個性がないという評価しか得ない。飽きてきたということだろうか。基本はそれでいいが、もう退屈ということか。だから、多少、これまでの風潮に合わない基準外のヒトたちも、私もそうだが、それはそれでいいという態度でおおらかに生きられそうだ。そして自分なりにファッションというものを取り入れていけばいいのだ。労働者の作業着はいわゆる背広・スーツというのと同じだし、ヘルメットに安全靴というのもそのシチュエーションではプロのファッションである。

格好いいのだ。プロの仕事姿は確かにいかしているようだ(表現が古い・・・)。格好よさというのは決していつも同じではない。以前デフォルメということについて述べたが、本質があるかどうかの判断。または本物かどうか、偽物出ないかどうかという判断基準でみることだ。プロになるにはどうするか。好きこそものの上手なれという。それだろうと私は思う。誰が何と言おうとこのことについてのプロになると決めたらそれがその道の第一歩であり、それが持続すれば簡単にプロになれる。しかし、本気になれるかどうかが、そこでは関門になるようだ。

なかなかあれもこれも、あっちもこっちも・・・。焦点が定まらない。というよりもそこに集約するための準備と知識情報が欠落している。前段階での作業を終わらせないままで次のステップに行こうとしても無理だ。急がばまわれというのはいつも正解である。だから、いつでも夢をこころにもつことが大事なのだと私は思う。

夢は必ず現実になる。それまでずっと望み続ければの話でであるが・・・。それはそんなに難しいことではないだろう。興味はなくならない。一つの成功は次の成功を生む。一つの失敗は次のステップへの踏み台になる。飛び級も可能になるかもしれない。失敗と成功は同じものだと私は思う。それは常に夢を持つことで双方とも生まれるからである。同じものなのだ。成功も失敗も同じだ。失敗は次の成功を生むものだし、成功は次の成功への一つのステップでしかない。

スピードも一定ではない。ある時に理解が加速して早くなる。すごい信じられないくらいの速さで一瞬に夢を実現することになる。いつでも夢をもつことが大事だと私は信じている。

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機能的なものは美しい

確かにあるのが、機能性の高いものは美しいフォルムになるということだ。形だけを追求しても、機能美は生まれてこないようだ。人の動きとか心の変化などと同じように、何か目的をもったものは集中力が凝縮されている。だから美しさが生まれるのではないだろうか。

魚を捕る漁船。成果をあげる船は確かに美しい姿をしている。貨物船、稼ぐ船は美しく見える。今、環境にやさしい人は美しく見える。環境を本当に考えて行動しているグループは活力に満ちている。力強く美しい姿を誇っているわけではなくても、回りに大きな輪を広げているようだ。

ファッションを考えるとき、機能についてほんの少しだけ配慮する。リーマン語録ではないが、そんな些細なことが、同じファッションを数十倍にも美しくみせてくれ、本人の魂にもおなじような数百倍の効果を発揮させて大人にさせてくれるのではないだろうか。

技術者として、機能のみを追求してみて感じたことは、いろいろなことに共通の成果をもたらしてくれる。一つのことは他の多くのことにつながっている証拠である。機能を追求しよう。そこに美しさが必ずある。しかし、逆は真なりとはいかないと私は信じている。

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格好をつける

あいつ格好つけやがって!そんな感覚が子供のころにあった。そしてそういうものを私は実態のないものだと思っていた。だから、見かけを気にしないという生き方、スタイルに興味を抱いてきた。

そこで、いいなあ。あんな生き方はいいな。そう私が感じたことが、実際にはそういう演出がされていた結果であり、まさに実態のないものだと言わざるを得ない状況がでてきた。一番避けたいことが、実はつながっていたのだ。

世の中にはこんなことがある。いっぱいあるらしい。そして自分らしく生きるということが、実は自分に嘘をつくことになることを知ることになる。では、どうしたらいいんんだ。そんなに悩む必要もない。自分の考えの中で逡巡しているものがあり、どんなことでもPDCAのサイクルを通りぬけるには、いろいろな思いがあり、失望もあり、失敗もあり、そして成果が必ずある。だいたい、考えたことが実現する方が少ないのだ。採用されるとか、自分の計画が実現することの方が少ないのだ。そういう中で、先輩諸氏の言葉の中に、何か昔は嘘っぽいと思っていたことが、実は本気だったのだということを知ることもある。

格好をつけるのは、考え自体は見えないので、自分で何かを認識するためにやるサインではないのか。本当はもうひとつの意味がある。

田舎で生まれたものは、田舎の人のままでいる。言葉もそのまま使う。ありのままというのが掟のようなもので、私もそういう生き方を夢に見て尊重してきた。しかし、できなかった。知らないうちに、どこで生まれたのかわからないような生活のスタイルになっていた。

たしかに、何か特徴を出そうとすると無理がある。そして、隠そうとするとその特徴が出てくる。そういうのが恥ずかしいと思うと、さらに出てくる。もうそれからは恥の上塗りでしかない。でも、どうしてそこにこだわるのか。田舎者はそれでいい。都会で生まれた人がうらやむ自然な生活の中で育ってきたのだ。それだけで十分に貴重な体験だ。そこに生まれなければできないことが、その人に与えられるのだ。それは都会の下町で育つことも人間社会の自然な形の典型的なものであり、その人の宝だろう。私たちはみんながそれぞれの体験で他人が経験できないものをもっている。

そういう私たちがるつぼの中で掻き回されて自分のスタイルを忘れるとか、他の人たちのものをまねするとかいうのも自然である。自分と違うスタイルがある。それを真似することが実は私が子供のころ抱いていた「格好をつける」というものらしい。それはそれでいいではないか。でも自分のスタイルがないうちに、他のまねをしてしまうのは、決して推奨できない。中途半端な人間になってしまうのではないかと私は心配してしまうからである。

しかし、世の中は変わる。標準とか基準とかいうものが変わる。いままで普通の善良な人が悪人になり罪人になり処刑されるというのは極端だが、いままで悪人が善人とみなされることもある。復権するならいいが、それがパラダイムシフトという劇的な変化なら、みんなそれに従わないと生きていけない。

時代に合わない人がいままで大勢いたのではないか。原始時代なら、すごい英雄になっていたというような人もいるだろうし、数百年後の科学全盛の時代でしか生きられないような人もいるのではないか。その時に活躍する場がなくとも、それは次の時に再度やり直せばいいだろう。そんなときがあるのかは知らないが、望めば開けてくるのではないか。

決して格好をつけるだけではなく、今はそういうレベルでも、いつか自分のものにするという意思を貫くことで、そこに新たな意味が生まれてくると私は信じている。

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ヘアースタイル

例の宣伝のもの。カリブの海賊の主人公が演じているコマーシャルのものだ。どうも使いこなせない。

少し研究しないと、何かとてもダサい気分になってしまった。これではいけない。若い人のスタイルをちっとも理解していないのかも知れない。

年齢は関係ない。今が一番、自分の人生では若いのだ。生まれてこのかたずっとそうだったのだ。だから気にしない。でもすこし格好よくなれれば気分も・・・。はずむのではないか。まだ整髪料をつかえるだけいいかという変な納得の仕方もある。

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