しかし・・・、世の中にはすごいひとがいるものだ。
なんでもないように難しいことをかたずけるのだ。
おたおたしない・・・。
うろたえない・・・。
どかんとしている・・・。
いろいろな表現がある。
でも、そういうちからはどこからでてくるのか。
たべものか?
こころの問題か?
人間力で頑張ってくださいと激励されても、どうすればいいのやら思案に暮れる。
家庭が貧しい。
学校へ行けない。
勉学の機会がない。
貧しさがあたりまえになっている。
貧困が社会全体をおかしくしている。
富の分配がうまくいかないシステムなのだ。
子らは宝・・・という。
社会の宝物だ・・・。
だったら、それらを大事にしていくことが社会の当然の責務である。
でも、ひと社会は比較の原理で成り立っているらしい。
こどもを守る法律ができた。貧しくても学ぶ権利が保証されるようだ。でも、文章だけの紙だけの法律ではだめだ。
時として、法律とか決まりは、あんたはこっち・・・と勝手に決めてしまう。
みんな自分の意思で、どう生きるかを決めたいはずだ。そういう個々の意思をどう尊重していくのだろうか。決まりだから、やれっていうことだけでは・・・。
魂のはいれない仏でしかない・・・。
なれない。ならない。
だが、疑念はここだ。
自然のヒト遺伝子には特許にされることはない。
だが、人工的に作成されたものは、可能だというのだ。
ついつい、変なゆめをみてしまう。悪夢なのだが・・・。
渋谷の交差点で、みんな同じ顔つき、体つきのひと・ひと・ヒト・ヒトだったらどうする。
そういうワタシもアナタも、警備のオマワリサンも、日本代表の選手もみんな同じ顔でからだであったら、どうなる。
DJポリスはどういうだろうか。みんなおなじで顔からだです。みんなおなじです。かわりはいっぱいいます・・・、だから心配しないでください。
ついでに、そのころにはみんな名前も日本全国に数十種類しかなくて、スズキ、タナカ、アベ、スガ、カン、ノダ、アソウ、タモリ、タケシなんていうのかもしれない。
みんな特許のもとで製作された血統書つきのヒトブランドだということのようだ。
悪夢は現実になるのか?
悪いものはいやだから、もう夢をみるのはやめる。
みんな忘れている。
オシャレってなんだ・
自分によいところなんてこれっぽっちもない・・・。そう想っている限り、おしゃれにはなれない。
自分の良さとは、おのれで意識するしかない。
他者にあなたは嫌いだとか好きだとか言われても、己はどうなんだってことだ。
その良さをどう認識するか。ときにうぬぼれてしまう。ほとんどは、ダサイおのれに嫌気がさし、気が沈む毎日である・・・というのが、実態であろうか。
それでも、自分の良さを・・・探すことだ。
そうなんだ。
いぬの好きなひとと、そうでないひとを、我が家のペットは区別している。
わかるのだ。
はっきりとわかる。
そこに頭脳があるっていうことが、わかる。
どうせ畜生といういきものだから、そんなことを想っていたのだが、どうもちがうようだ。
生き物という視点では、ひとも犬も猫も、かなり高等な部類にあるようだ。
毎日、舟で沖合に漁へでる犬と漁師の話だった。
頼りになる。そういっていた。
沖合では犬も同僚のようだ。
なによりも愚痴をだまってきく。
それでストレスがなくなるのだろうか。
生き物という感覚を共有するから、そこに自然を感じるのではないか。
犬嫌いの私も、なにかもう我が家の座敷いぬには慣れた。
そこにいるのだから、まあ仕方ない。
というよりも、ちゃんと対話ができるのだ。
そういえば、生き物として共同生活ができるのは、利巧な証拠だろう。なんで・・・と思ったが、骨組みも筋肉も、循環器系も呼吸系も神経系も思考系も、すべては同じ哺乳類なんだから、当然のことだ。
これが、恐竜とかなったら、それは捕食関係になってしまうので、共同の生活は送れないのだ。
目の動きをみていると、よくわかる。たしかに何かを想い描いて行動しているのだ。思考回路があるのだ。
さらっとして、いぬの生き方を貫いているのだ・・・。
ただ、残念なのは、生き物の種類によって寿命が違うことだ。
犬の寿命は、15年程度と言われている。別れがそこにつきまとう。
愛犬家ではないわたしも、我が家の犬は家族の一員だと・・・想ったりする今日この頃だ。
義援金を呼び掛けているのはいい。
でも、とどけれなければ意味がない。
もう義援金をどうのこうのといっても、被災者に届かない、とどけれない義援金組織ではとんでもない話だ。
どこかで役立つという淡い希望をもってなけなしのお金を供出した子供たちも大勢いるのではないだろうか。
どっかへ消えた義援金・・・というニュースはないから、まだ、行政の手が足りないということなのだろうか。赤十字社の組織が弱体化しているというのではないのか。
何か、大震災にあたって、これからの弱みになる気がする。まだまだ被災者の生活はずっと困難が続いていることに変わりはないのだ。
もっと速やかにとどけることが必要ではないのか。
そんなシステムを作り上げることも大切ではないか。
被災者は当然の権利として早急に義援金を受け取る権利があるのだ。だって、大切な国家の宝なのだ。国にとって一番大事なのは、その民なのだ。
みんな同胞だ。
届けようではないか。
できるだけ早く、速やかにとどけるシステムを研究してほしいものだ。
震災対策にやはり仮設住宅もふくめて、衣食住の問題や、情報伝達の問題などを含めて大きな枠組みを作り上げてほしいものだ。
少慾知足の思想が、これからの日本という国の大きなかけがえのない発展を示していると想うのだが、どうだろうか・・・。
とどけれない義援金の問題も、こんなところから解けてくるのではないか。
ペットが整形なんて聞いたことはない。
だから、そこに癒されるという自然があるのではないだろうか。
いろいろな話題がある中で、自然な動物、とくにその心理的な自然さ、動物的なものはすべて意図的なことはないものだろうし・・・。
ひとがこの世の中で、どんどんと手軽にこころを閉ざすのは、何かこの世の中の厚化粧というか、隠ぺいしようとする考え方にあるのではないか。
テレビでは役者は素より、政治家や評論家など演技とは関係のない出演者まで男女問わずに見栄えがよくなるように化粧しているというのが常識というか標準なのだという。
この傾向はここ数年に急速に大きくなっている。タイで有名なレディボーイがキャビンアテンダントとして採用されるというのだから、大きな意味で歓迎すべきかどうかよく判断に迷ううものの、世の中のひとつの動きであることに違いはない。
こう考えてくると、もちろんペットの世界も整形手術が当たり前になるようにも思える。動物愛護の観点から、反対という意見もあるだろうが、よりかわいらしさを求める欲求は尽きないようにも思うのだ。
それでも、ペットに癒されるのは、ヒト社会とのギャップであろうと言いたい。ヒト社会はなんともどんどんと平準化されているようで仕方がない。個性のない、悪意も善意も感じられない社会という表現が今朝の新聞に見られたのだが、まさにその通りではないか。
自然さを追求することは、ひとの本能だということは変わらないのだが・・・。
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