ペット

浦島太郎のペットはカメだった

実はだれも知らないここだけの話だが、浦島はカメをペットにしていたのだ。

そういう中でカメは必ずいなくなるので、その原因を探った。それが妄想となって竜宮城という話をでっち上げた。そこからなぜ帰ることにしたのか、それは事実ではない嘘を世の中に広めるには老人となるとしって帰るしかなかったのだ。

ペットがいなくなったら、どうする。かわいそうだと思う。そして、いろんなことが思い出となる。そこからいろいろと・・・。

浦島太郎というのは何か。海に関係したところで、そこに美女の館としての竜宮城がある。それはまさに現実のことだ。カメは関係ないようだ。

おじいさんになる。それが代償というものだろう。若さは永遠ではない。必ず訪れるものだ。そしてどんなに健康を誇り、注意していても、スーパーマンでも老化は来る。どんなふうに迎えるかよりも、そういうことをわたり前として人生を過ごすことではないか。

急に変わるもの。驚くのはそれ自体が頭にないときである。

海の物語は、海外に通じるのだ。そこに何か大切なものがある。しらないものがある。私たちの考えを広めるものがある。でも、それは私たちと同じ生活をしていることでしかない。みんな同じだ。肌の色、頭の良さ、気の使い方、違いはあるが、みんなそれぞれの生活を自分たちでやっているのだ。それが自活し独立している社会なのだ。

初歩的であろうが、それは独自にやっているのであれば同じだ。そこに大切な基本がある。そこを理解すれば、そこからはお互いに同じだ。みんな同じだ。

浦島太郎が一時のがれたこの現実社会に戻ったのはなぜか。ペットとしてカメは関係ない。それは、自分たちの生活そのものがすべてなのだ。

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キンギョのこと

一度、失敗するとどうも次に踏み出す機会がむずかしい。

なんとなく億劫になる。それは、ダメージがまだ残っているのだ。一夜にして数十匹のキンギョたちがなくなった。まさか、病気でとは考えてもいなかった。

知識不足がこういう結果を招いたのだ。反省している。

そして、また再チャレンジという・・・・、それがまだ・・・、やはり…難しいのだ・・・・

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ペットのこころ

なんとも時々、羨ましくなる。ペットの心はひとの心となんら変わらないではないか。少なくとも私はあまり好きではないのだが、何かペットの姿が哲学者のようにみえることがある。

もちろん、昔から畜生というように、人とはちがうDNAなのだが、ほとんどのペットは家族の一員として暮らしている。だから、対等であるのだ。飼い主の上下関係もしっかりと決めているようだ。

私はもともと好きではないから、その優先度が挙がるような餌をあげるとかいう行動はしないようにしている。私は少なくとも飼い主ではない。でも家族のペットだから、私のペットでもある。

必ずというかほとんどは寿命の関係で早くこの世を去ってしまうペットの宿命がある。そんなことを考えるとペットの心がどんなものか、ふとヒトと変わりないと想う。

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ペットは家族か・・・

太郎ちゃん、一郎ちゃん。公園でそんな声が聞こえる。

犬や猫などのペットの名前だ。どうも慣れないと変な気分だ。ペットは家族なのだろうか。どうしてそうなるのだろうか。

そこには、核家族化というものがある。日本社会の中流化がある。裕福でもないが貧困でもない。まあまあ心理的な圧力に耐えているという状況だろうか。胃袋に何かを入れてやらなければいけないという欲求とはまた別の生きる糧がいるということだろう。

心を癒してもらう。そんなことはおなかを癒してから考えようという時代ではなくなった。本当に切実な問題があるのだ。だから、人間社会はペットが必要になった。それは共存というものなのか、それとも人間の勝手でしかないのかわからない。

たぶん勝手なことだろう。

本来野生で生きるのが動物の姿なのだと私は考えている。そこには弱肉強食の世界があり、平穏な状況ではないだろう。でもおなかが満足すれば、餌として見ないので猛獣に食われるだけではないかもしれない。

ペットがなぜ・・・、家庭に急速に入りだしたのか。小さなウサギ小屋だからか。狭い所にまた余計なものがと私は思うのだが、違うようだ。もっと大事なことがあるのだ。

生き物とくらすことで、その生態に接することができる。犬とひととの違いなんていうものも実際の体験であれば、すぐにわかる。喜怒哀楽もあるようだ。だからヒトの代わりにそういう体験もできるし、もちろん癒してくれるようだ。

だから、ペットはほとんどの家庭でファミリーとして認められている。それでも、寿命が人間の5分の1ぐらいなので、家族全体で理解しておく必要がある。

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動物の能力と限界

ワンワン。キャンキャン。まるで家族の一員だ。それ以上かも・・・。

でも、そんなかしこいペットもやはり思考力はない。限度があるのだ。運動神経はすごいし、もし私にあんな俊敏は反応ができるなら、オリンピック選手も夢ではない。ペットはどうしてオリンピックに出場できないのか。人間ではないから、できない。馬術なんてあるが、ヒトが主役の競技だ。

あとはよほど大きな動物をのぞいては、寿命の差だろうか。それは限界がある。ヒトと同じ一生ならかわいそうではある。残してあの世に先にいくのは忍びないだろう。

しかし、その能力はすごい。気配を読む。年齢を重ねると学習したことが蓄積される。

限界はヒトと同じように病気になる。歩けなくなる。そんなとき、なにかかわいそうだと思う。そこに限界がある。人も同じだ。限界はそこにある。いつまでも・・・ことはできない。

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日本平のたぬき

ここ数週間、サボっていたわけではないが、散歩へ行かなかった。

一昨日から、夕方に散歩にいった。日本平の旧道なので、結構きつい、中腹のサッカー場へ車を停めていくので、エコ的ではないのだが、三保の半島からそこまでいくには、40分くらいかかる。この散歩コースはサッカー場から日本平の展望台まで、上って下るだけで1時間半かかる。久し振りだったので、きつい。足が動かない。続けてやることの大切さを思い知らされた。

この日本平コースは人気があり、休日には清水からと静岡から、そしてハイキングコースがいくつかあり、それらを使って頂上へとくる人たちで人気があるようだ。自然があるのがいい。

マムシをみた。

キジをみた。

その後キジは鳴き声で一回だけだ。でもあの独特のメスを呼ぶ声はキジギャー!といっているようで、印象に残る。

マムシは結構いるようだ。小さいのが車にひかれて、皮がずっとへばりついて残るようだ。バッグの材料だから当然か。

近くといっても、静岡側に日本平動物園がある。それで、逃げ出したのかと思ったがちがう。この日本平山麓は自然が残っている。久能山東照宮のがけっぷちはだれも近づかないだろうし、結構いろいろなものがいるのではないか。

そして、新たな発見をした。たぬきだ。

一昨日の夕方。7時過ぎに頂上から降りてくるときに、ゴルフの練習場らしきところ(最近塀ができてネットがはってあるところだ)の曲がり角ですっと走り抜けていった。左から、その練習場の端っこ(ネットのない方)へ這入って行った。たしかに猫ではないし、ましてや犬ではない。

タヌキだ。

犬は嫌いなのでもし野良犬がいるようなら、このコースはもう使わないということになるが、そんな心配は昨年のちょうど5月に思ったことだ。犬の鳴き声はサッカー場のあたりで犬を散歩させている人が大勢いるので聞こえるが、いままでその散歩道でみたことはない。

たぬきだ。すごい。

ケニアの国立公園でサイを見るようなものかもしれない。まだそこでサイは見ていないので、やはり1年ぐらいかけないとできないことのようだ。こういう身近な里山の自然を大事にすることが、これからもうすこし実質的なエコに向けて進んでいくのだ。ちょっと車で途中までいくのは、後ろめたいが、・・・・。

そういえば一年前に、里海ではないが、海岸を散歩しているときに、イワシの大群がカツオなどに追われていたのだろうが、浜に逃げてきた。浪間に5、6匹拾った。ビニル袋を拾ってうちに持って帰ってビールのつまみにしたのを思い出す。

たぬきでは、つまみにはならないが、話のつまみには十分だ。そして、新しい自然の生き物を実際に見るのは、なんとも楽しいものだ・・・と改めて想った。この土地に戻ってきてよかった・・・。そう心から感じた一瞬でもあった。

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キンギョ

はや3か月が過ぎた。

まだ立ち直れないでいる。生き物を飼育するのは、とても大変なことだ。

わかっているのだが、分かっていたのだが安易に考えていた。しかし、絶対に復活する。今度は準備万端でやる。

そうでなければ金魚がかわいそうだ。飼育環境はまず水質管理だ。それがすべてだ。そして、金魚の遊泳メカニズムを学ぶのだ。

とくに中性浮力が見たい。会得したい。そのためには、立ち直らなければならない。キンギョよ許してくれ・・・。

こんどこそはうまく育てるから・・・、水中での泳ぎを教えてくれ・・・。

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生き物のコミュニケーション

動物との話ができる。いきものならできる。そこに相通じるものがあるなら、きっと話は通じる。そんな気がする。生き物なら、みんなコミュニケーションできるわけではない。

そこにペットの良さがある。ペットの良さは人間と社会で生活を共にしているところにある。こころがつながっている。だから、ほんとうにコミュニケーションができるのだ。

そんな嘘みたいな本当のことがようやくわかってきたような気がする。生き物のコミュニケーションはあるのだ。

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おとなしいのは心配だ

ちょっとおとなしいな。そういったら調子が悪いと奥さんがいった。彼女ではなく、うちのペットのことだ。そういえばちょっと元気がない。心配だ。

目がちょっと力がない。いつも運動神経の塊のような動きでぴょいぴょいと俊敏に跳ねまわっているのに元気がない。

おとなしいのは、いいが・・・。心配だ。

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失敗は成功のもととはいうが・・・

ペット飼育のコツはなんだろうか。

対象となる動物そのものが好きでないとやはり難しいのだろうか。

魚の飼育で、一番やさしいと思われるキンギョを1か月前に始めたのだが、2週間で全滅してしまった。その後、水槽を洗い直し、フィルターも取り換えて気持ちを新たにしてやろうとしているのだが、実際にやろうとすると、また同じような結果になるのではないかと不安になる。躊躇している。

もっと責任をもって飼育しなければ、もっと愛情をもって接しなければと思案しているうちに時間がたってしまった。

失敗は成功のもとというけれど、当事者にとってみると、それはとても辛いものだ。あらためていきものを飼うという重大性をしらされた気がする。まだ当分手をつけられそうにない。

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俊敏さ

ほんとうにうらやましい。俊敏な我が家のペット。小さな体ですごく運動神経がいい。それは動物の特徴だというだろう。それでもひとにはないものだ。どこからああいううごきがでるのだろうか。

完成された芸術品のようだ。それも己の意思で動くのだ。そこが素晴らしい。そしてその俊敏さは・・・。すごくうらやましい。

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観賞魚の飼育

全滅してしまった。やはり飼育方法が甘かった。とてもやりきれない気持ちになった。どんな小さな生き物でも命は大事なものだ。そう思ってはいたが、大丈夫だろう・・・としか考えていなかった。それがいけない。

水が大事なのだ。1週間に1回かえるぐらいの頻度で進めるべきだった。白点病と尾腐れ病が大きなものだと説明書にあった。全滅だった。

・・・・・・・、・・・・・・・。

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金魚の飼い方

むずかしい。金魚が一番やさしいと思って飼い始めたのだが、やはり難しい。餌を食べれないことに気付かなかった。大きさが違うのだ。小さな奴は餌を食べていなかったのだ。食べれなかったようだ。なんと気の利かない飼い主だ。

水の濁りもある。フィルターを変えなければいけない。でもはじめは何もわからない。本だけではわからないことが多い。生き物の飼育は本当に大切なことを教えてくれる。

海水魚を飼えるようになるまで・・・、どのぐらいかかるだろうか。気が遠くなるような・・・。遠い道のりだ。でも、金魚をまず最後までやってみることにする。

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うぐいす

うぐいす。この鳥は日本では有名なトリである。だれもが知っている。ホーホケキョと鳴く。モノマネのうまい芸人がいてまねする。素人でもまねできる。そんなところが気に入っている。

ホーホケキョ。ホーホテチョ。ホケチョ、・・・。

幼いトリは鳴き方も下手だというのがわかる。近くの丘への旧道があり、新道があり、畑道もある。都会で仕事をしていた時には自然のトリの鳴き声なんて興味もなかった。でも、やはり自然環境が変化していることに気づいてきたのは身の回りの状況がちがうということが、私たち個々のヒトにとって大切なことである。遠くのことは関係ないのではないが、実際に分からない。だから、身近に起こる出来事は一人一人にとってとても大事なことだ。

うぐいすはペットだった。かごのトリはうぐいすでなければならない。そして鳴き声を競わせる。いい鳴き声のウグイスは高く取引される。

いまもいるのだろうか。ペットのうぐいすが・・・。

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20匹500円

3か月ほどのから運転。我が家の水槽には、この3か月間、何も入っていなかった。水を入れて回してみただけだったあ。だいたいよさそうなので、金魚を20匹いれる決心をした。なぜか真剣だ。生き物を飼うのはほんとうに大変だと感じるから、一大決心が必要なのだ。

海水魚がいいとはじめは思った。そして、まずは水槽ってどんな感じなのかを体感するために空のやつを買って数週間ほったらかしておいた。次に水を入れた。循環装置はかなり静かなのだが音はする。少々気になる程度だが、人によっては嫌がるかもしれない。そんなレベルの騒音だ。でも初心者は淡水魚で慣れているのがいい。アロワナなんかをすぐに飼育できるわけはないし、私はこの近辺の魚をもうすこし飼育の観念ができたら、やりたいと思っている。泥にもぐるやつなんか面白そうだ・・・。

約2ヶ月の出張から帰ってきた。翌日に金魚を買った。水槽に入れた。餌をやった。元気に泳いでいる。でも隅にかたまっている。一人ぼっちのやつがときどきいる。そして、中には中性浮力を自慢げに見せてくれるのがいる。左右を移動する泳ぎを見せてくれるのもいる。餌をとりに急に浮き上がってくる奴もいる。SCUBAではない素潜りだから、とくに問題はない、・・・なんて考えたりしながら見た。

「20匹500円の金魚」がいろんな動きを見せてくれている。今日も帰ったらのぞいてみるつもりだ。

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らくだとろば

砂漠地帯での生活に欠かせないもの。らくだとろばだという。らくだがいれば何週間でも旅を続けられると地元の人が言っていた。それだけ、厳しい自然に適応した動物なのだ。らくだが長距離用とすれば、短距離の小型トラックはろばである。1インチ径ぐらいで3インチ長さの棒一本でコントロールする。荷物は何でも運んでいる。建設用のブロック、飲料用の水タンク、壊れた車の残骸、ヒト、家具、ドア、食糧など・・・。

らくだは日本円で十万円ぐらい(ヒトコブらくだはほとんどが家畜化されている)、ロバは一万円ぐらいという。ろばは荷物を運んだいないときだけ解放されている。口先に餌袋をさげている。おとなしい。だれかがろばにはなりたくないといったのを思い出した。たしかに眼は従順であり、じっとしている。なにか切なさを理解しているような雰囲気だ。先に述べた棒でコントロールされるのだが、尻の皮の一部に血がにじんでいるのがいた。まだ若いのかもしれない。まるでどこかのサラリーマンのような感じを受ける。なぜなら、その土地の経済を支えているから・・・。もちろんろばは何もしらないのだが・・・。

らくだは頭がいいと私は思う。でもかなり以前に哺乳類の中で分化したらしい。だから、発情期以外はほとんど何もないという。おとなしいという。野生のらくだはふたこぶらくだの種類が800頭ぐらいで絶滅危惧種になっている。家畜化が進んだひとこぶらくだが、売られるとき何か悲しそうに鳴いていた。前足の関節を曲げたまま縛られてすわっていた。多い時は5、6頭大きな邸宅の塀の外に置かれていた。ラクダ商人のうちのようだ。

らくだとろば、そのほかやぎ、にわとり、犬はもちろん放し飼いである。ねこはめったにみないが時々見る。砂にまみれたねこの死骸が最近いった海岸にもあったし、街仲の道路脇の砂の中に埋もれていた。乾燥しきっていた。この国は全体がモスレムなのでぶたはいない。酒も飲まない。飲酒は宗教上の悪であり、そういう行為は神を冒涜するという考えのようだ。よくわからないがだれも酒を飲みたいとかいう思いも考えもないのは明白だ。どうしてアルコールなんか飲むのか。そういうイメージが彼らの目を通して頭の中にあるのが見えるようだ。どうも法律で禁止されたドラッグの1種という見方だ。健康のためではないようだ。というのはたばこはよく吸っているから、たばこは罪悪ではないのだ。

らくだとろばの支える経済は、いつの間にか。サッカーに熱狂し、携帯を駆使して駆け回る社会に変化している。砂漠の中の幹線道路は整備されてきた。通信用の鉄塔はソーラーパネルで動いている。でも水が・・・。川をせき止めた巨大ダムがある。もうすぐ生活基盤は整いそうだ。でも何かが足りないような気がする。

らくだとろばに対する信頼性と比べると、ヒトが作りはじめた砂漠のインフラは脆弱だ。携帯は地方では充電できない。大きなバッテリを持ち歩くわけにはいかない。4駆がどこにもあるわけではない。砂漠ではトヨタのランクルが一番だという。でもトヨタはらくだをモデルにした車を開発しているとも聞いた。やはり、自然の中では先人の教えをないがしろにしてはいけない。

フラジャイル。どうもこの言葉は好きではない。鋳物より、粘りのある鍛鋼品の方がいい。車もフロントガラスがイナヅマ状に亀裂があるのは怖い。破損防護用熱処理がされていない以前のモデルが多い。もちろん新しいトヨタのランクルは強力だ。仕事が終わって事務所に帰るとき、携帯電話のながら運転のウィメンドライバーの乗用車に左側面後部をぶつけられて半回転して止まった。JFK通りの交差点だった。わっと人だかりがして渋滞した。けがはどちらもない。後部バンパーの強化プラスティック製で衝撃を吸収したようだ。ポリスがきた。レンタカー会社の社長、保険会社の調査員が来た。ポリスの指示でドライバーが交差点の横に車を移動した。2時間ぐらいそこで待機した。もう役所の事務所は閉まっている。担当者がぶつくさ言いながらも待っていた。明日は帰国するので、彼をうちまで送ってお礼をいって別れた。どちらもけががなかったのが幸いといわざるをえない。全部仕事は終わった後だった。そんなものだ・・・。

らくだは砂漠があるかぎり、家畜として役割を続けるのだろう。

ではろばはどうするのだろうか。

今、道路は車とろばの馬車(ろばの車)は同格である。右側通行で右側から進行する車が優先権を持っている。3すくみの状態が起こる。これはとても難しい。ヒューマンエラーを信じないルールのようだ。ろばは路上で車と同じように安全に動いている。ろば専用道路というものをつくるのだろうか。いずれなくなるというのが実態だろう。

でもまだ私はこの社会をよく知らない。だからろばの車がこれからどうなるのか、注目している。同様に砂漠のらくだも砂漠仕様のニューモデルのランクルに制覇されるのだろうか。車も自然に還るリサイクルが実現すれば可能かもしれない。もちろん、その需要があればの話であるが・・・。

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こころーその2

こころとはなにか。無ではないか・・・。何もないこと。私がこのテーマを取り上げたら、テーマが勝手に動いた。中味のない形でブログに走っていいた。これはその2である。実際にわたしの役割はないに等しい。ひとりでに走って行った中身のな中味の入るべき文章がひとりでいってしまった。今それを追いかけている。

でもいい。私の意思とは関係なしに、無意識のうちにブログにのっていったのだ。私はそこで伝えたいものがあったのだが、かってに行ってしまった。それは仕方がないことだ。あきらめよう。もう二度とそんな文章をどこかでみんなにみてもらおうとかおもうのはやめよう。そんな価値はないのだ。

こころの中で、いくら泣き叫んでも現実の世界には届かない。それでいいのだ。私はいい。それでいいと思っている。ここから立ち上がヒトなどいないのだから。こんな世界があるのだということはしらない方がいい。

それでもいつかは事実がでてくる。それでいいのだ。時間が必要なのだ。私はそれまでこの組織でがんばるだけだ。

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こころ

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さかなを飼おう

とにかく水の中にいるという感触がいい。それを常に見ていられるのがいいと思う。どんな動きをするのか。観察してみよう。魚は識別してくれるのだろうか。こっちも識別できるのだろうか。

面倒なことは嫌いなのだが、なぜか、魚を飼育するために水槽を準備してポンプで循環運転している。まだ中には何も動くものはない。水と底の砂利があるだけである。以前集めた貝殻も少し入っている。

KHVなどで大変なのでそのための知識が重要である。使った水はどういうように捨てたら安全なのだろうか。飼う種類によっては外来種という問題もある。自然とは隔絶して育て方に徹底することだろう。寿命もある。どこにどうやって後始末をしていくか。これも大切である。こう考えてみるといろいろなことがペットとして魚を飼う場合に留意点としてでてくる。

それでも魚を飼育したいのか。水族館で見た方がより効果的・経済的ではないか。それとは違うものだろう。動物園でみるものと家庭のペットは違うのだ。それは違うもののようだ。まだ飼育していないのでなんとも言えないが、興味はいろいろな分野に及ぶので・・・。3日坊主かもしれない。それでもアクションをどこまで続けていくのかを自分自身で見ていけばその熱中度がわかる。それまでは自分でも自分のやっていることが本当に真剣なのかどうか判断は保留だ。そんなことは関係ないようだ。興味が続いているのは何かの知識を具体的にえたいからなのだ。何かはよくわからないが、浮いている感覚ではないだろうか。中性浮力の感覚をみたい・・・。動くときの水の動きをみたい・・・。潜航浮上するときの様子を観察したい。何かいろいろある。そのためにはもっと大型の水槽がいる。

まだ実は繰り返しになるが、水槽に魚は入っていない。でももう大きな水槽のことを心配している。それを観察して、海上で船で魚の行動を観察したい。もぐって観察したい。一緒に泳ぎたい。でもさめに襲われそうで・・・。船はどうするのか。まだもちろん持っていない。エンジンはどうする。最初は船外機付きのものでいいのではないか。馬力は15程度でいいか。でも海況がいいときでないと50とか75とかが必要ではないだろうか。一つでは海上では安全は保持できないのではないか。とすると2台必要だ・・・。船内機エンジンの方が安心だが、手入れが大変だ。

今ちょっと家を離れているので帰ったら魚を飼おう。でも水槽が家に残っているか・・・などとへんな不安もでてきた。帰ったら水槽が小さくみえてしまうのではないか・・・。空想だけが空回りしているようだ。でも帰ったらさかなを飼うのは決めている。

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気配り

KYとかリーマンという言葉を知らない。遅れている。でも同じことが繰り返しているだけであるというのは理解している。今、どんな言葉でそれが語られているのかを知らないだけである。

ペットはこの世の中でどんな達者な人よりも私たちの心の中に飛び込んでくる。素直に、動物そのものの力強さもある。でもヒトよりもその寿命は短い。ペットは飼い主の気配を読み、それに応える本能を身につけている。媚びるのではないだろうが、餌をもらえるという単純な構図の中でヒトが媚びるような動作もなんなくこなす。

すごい能力ではないだろうか。でもより野性的なペットもいたはずだ。田舎のワンちゃんと都会のワンちゃんは違う。よりヒトに慣れているのは言わずと知れた都会の方である。田舎の方は、かなり本能的であり、知らない人には襲い掛かってくることもある。より飼い主に従順なのではないか。生活力もあるようだ。ふだんから独立したくらしをしている田舎の犬たちは野生により近いのだろう。ちょっと前は、イヌにかまれるような弱虫は生活できなかった。自分でそういう動物から、わが身を保護する手立てを身につけていなければ一人前ではなかった。へなちょこなやつとみられて相手にされない。そんな社会があった。

子供のころから、大人になるという目標があった。そこには立派な大人たちがいた。時には命をかけて争う勇者がいた。サムライではなくても、百姓でも漁師でも猟師でも同じである。商人と工人が多少違うのかもしれない。生活をどこに頼るか。すべてを頼った侍は権力が第一の生命線である。百姓は自分の暮らしの糧を作る技術がある。でも生活の自主性は武力をもったサムライに依存せざるを得ない。商工業者はどうかというと、その中で衣食住に必要なものを扱い、作ってきた。分業がいつのころから始まったのかはわからないが、どんなにヒトの生活を無意味なものしてきたかがわかる。

生活そのものは、いろいろと生きるための目的をもった活動をすることで生き生きとするはずである。砂を噛むような生活は味気ないだろう。もっと、もっと自由でおおらかな人生を送るのがいいのではないだろうか。でもどうやったらそういう生活ができるのか、私にもわからない。頭で想うことはできる。そして現実には何もできない。

ペットのように、いろいろと奔放な気配りをして、ヒトとして生きるのは容易ではない。ヒトは本来、生まれながらにそういう素質はもっている。他人と仲良くすることは得意なはずである。でも最近は、あまり気配りをする人は好まれないような空気が漂っているのも確かである。いろんな社会があり、そういう風潮を繰り返しているだけなのだ。時代に遅れていると思うこと自体が無意味であり、人生をまだ理解していないということだと私は思う。

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脳の存在

心と身体というテーマがすごく気に入っている。そして、ペットがなぜか頭に浮かんだ。脳の反応ということの面白さは動物も同じだ。家庭の中で、家族になっている。おなかがすいているようだ。具合わるそうだ。楽しそうだ。怒っているようだ。

我が家のペットは少なくとも私とは対等だ。意識において私は飼い主ではない。私は決して餌を与えないようにしている。そこに対等の関係が崩れるからと、素人なりに考えているからだ。

関係が面白い。服従するのでもなく、時々遊んでくれるのもいい。遊ぼうといって誘ってくる。自分が嫌になると、そのまま放置されるのだが、それでも何か脳が反応して、びんびん響いてくるのがわかる。

たしかに脳がペットにある。かなり質のいい脳だ。人間だったら、どんなことを考えているのだろうか。そういう想いを馳せさせてくれる。自己自身をペットたちはどう感じているのだろうか。昔から畜生という言葉があった。恩をしらないということだろう。それだけあっさりとしているということだろうか。本能のあるがままに行動する野生動物とは少し違うだろう。人間の心が読めるのではないかと思う時もある。

猫は何か脳みその中が人に似ている気がする。相手が思うことを彼らは知っている。犬は少し違うのだが、でもすごくうらやましいこともある。その脳の反応の速さと運動神経である。中には人が肥満を移転させている場合もあるが、でももともとは本能の持ち主である。勘違いしてしまうのはヒトが悪いのだろう。

イルカとか、クジラとかの脳はどうなのだろうか。ゾウだってネコ、イヌと同じように、そしてウシ、ウマと同じように飼育されて仕事をしている。そういうゾウもたくさんいる。時々暴れるニュースがあって、その原因は何かとかいっているが、ヒトと同じではないのだろうか。少なくとも彼らの脳の方が重さはあるだろう。

脳科学者。この人の行動に今注目している。面白いと感じている。

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さかな

犬の嫌いな私がいる。でも我が家に犬がいる。

どうしてこんなことになったのだろうか。それは長いながあい話になるのでやめよう。あるとき犬が身内になった。その一代目はすでにいない。たしか15年が犬の平均寿命。そんな期間以上、うちを留守にしていた。なんということだ。うらしま太郎のようなものだろうか。そうだ今日は魚がテーマなのだ。

ペット。魚。海水魚か淡水魚か。まで決めていない。水槽は買った。水槽には水を入れてある。時々電気をつけフィルターを通して水をまわしている。まだ魚はいない。ペットとしての魚の飼育経験はない。子供のころ落ちた田舎の池には鯉が泳いでいた。冬ごもりの準備などを手伝ったことがある。

金魚とかメダカとかかわいい気がする。でもやはり気分によって行動が変わるのだろうか。どっちがペットか分からなくなりそうな水槽がりっぱなものがあるうちがあるらしい。結構その中でダイビングをしているなどという人もいるのかもしれない。魚の健康維持は犬猫と同じように大切なことであると自覚している。病気になったらKHVにかかったらどうしたらいいのだろうか。動物病院に運ぶのだろうか。慌てふためいてペットの名前を呼んでいるのだろうか。

海水魚。それを飼いたい。でも淡水魚からはじめることに決めた。

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ペットの幸せとは

日本の犬さん、猫さんは本当に幸せだろうか。それはひとさんにとって大事なことである。すべてに規制され、いろんなリスクをなくすために、まったくなんの違いもないペットになっていないだろうか。

発展途上国では、犬も猫はもちろん、鶏やかも、豚、その他多くの動物が放し飼いになっている。もちろん牛や馬は多少のヒモつきではある。しかし、基本はまったく自分で動いて餌を食べている。自然の中ですくなくとも生活している。

そんな中で生活するのをペットというのかはわからないが、ちょっときになる。日本のペットはどうなるのだろうか。ちょっと心配だ。

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