小さな家と大きい家
あなたは小さな家と大きな家とどちらに住みたいですか。そんなアンケートがあったら、私はこう答える。
二つ欲しい・・・。なぜならば、基準がわからないからだ。どれが大きくて、どれが小さいのかわからない。二つ、それもこの世の中で一番大きい家と一番ちいさな家があれば、その範囲で選ぶことにする。
あなたは汚い家と清潔な家のどちらに住みたいですか。そして、さらに追い打ちをかける。
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あなたは小さな家と大きな家とどちらに住みたいですか。そんなアンケートがあったら、私はこう答える。
二つ欲しい・・・。なぜならば、基準がわからないからだ。どれが大きくて、どれが小さいのかわからない。二つ、それもこの世の中で一番大きい家と一番ちいさな家があれば、その範囲で選ぶことにする。
あなたは汚い家と清潔な家のどちらに住みたいですか。そして、さらに追い打ちをかける。
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住まいはシンプルな方がいい。でも、いつも周りはごちゃごちゃしている。だから、シンプルさを理想的だとおもうのだろう。
それは、目を閉じるとでてくるのだが、目をあけるとそこはいつもごちゃごちゃしている。それが便利で住みやすいということと、理想はちがう。
現実があって理想がある・・・。そこには大きなかい離があってこそ理想なのだ・・・。
でも、簡素がいい・・・・。いつかそんな住まいにして生活をしてみたい・・・・。
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住んでいる家と住みたくなる家。住みたいと思うのはどんなところに理由があるのだろうか。とくに理由はないかもしれない。
土地柄もあるだろう。家そのものではないかもしれない。その土地のひとがらによるものだろうか。どこにもひとはいろんなひとがいる。だからひとではないだろう。
たべものだろうか。自然だろうか。やま、かわ、うみというものだろうか。
しごとではないか。自分のやりたいしごとのために土地を移り住むことはだれもがやる。親の面倒をみるために田舎に戻ることもある。
住みたくなる家とは、そんないろいろな理由の上につくられるものだと私は想う。
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どんな住宅に住みたいか。
もしそう問われたらどうしようか。なんと答えたらいいかわからない。確かに理想的なイメージのものはあるが、おれには似合わない。落ち着かないのがすぐに目に浮かぶ。
優雅な住まい。
まあそう答えておこうか・・・。
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自分で使うエネルギーは自家発電で供給する。そんな法律がもうすぐ制定されるかも・・・。これだけ人間が多くなると想定されているなら、自然のエネルギーを使うだけでなく発電人間計画を進めたらどうだろうか。
みんなが発電所になる。60億人が一斉に1mも位置エネルギーを持ったら、そこにはすごい量のパワーがあることになる。もうそんな時代に入っているのではないか。ロスのないエンジンは永久に稼働する。燃料の供給がなくても稼働する。食べなくても済む人間も現れるかもしれない。
CO2タイプとか、H2Oタイプ。ハイオクタイプなんていうのもあるかも・・・。
そしてもう旅行して動く必要はなくなっているのだ・・ろう。情報が瞬時に入る。そのまま判断できる。不正も何もない。法律で決まったことはすべて厳守される。信号は100%守られる。もし赤信号で渡ったらそこで処刑される。裁判なんてない。必要ないのだ。
なぜならば、面倒な人間の責務という概念を取り除いている・・だろうから。必要ないのだ。ヒトとしてやるべきことは、法律で決められているから、すべて義務となる。あいまいな判断を個人に求めることはない。世界遺産は変形を加えてはいけないとか、落書きもだめだとあれば、それはちょっと硬いもので傷つけてもそこで処刑される。法律で決まっているから、ヒトの意見を求めることはもうない。
ヒトは、考えることを中止する。ひとが発電所になるような日は、もうこの世の終わりかもしれない。無駄の多い、無理のいっぱいある、ムラの多い社会が、そんなにいいものだとはだれも想像だにしなかった・・・だろうに。
私たちは少し寛大な心をもつように反省する時期にあるのではないかと、私は考えるのだがどうだろうか・・・。
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省エネ。そう言いながら、家族の中ではエネルギーの無駄遣いをしている一番が私だ。
いろいろと理屈を述べる割には、みんな自分のことは考えないようだ。あんただけだよ・・・。そんな声は聞こえてこないし、そんなはずはない。なぜって、結構知識はある方だ。そして結構行動もしている方だ。でも、まだそんなレベルでしかない。
ほんとうは恥ずかしいのだ。だから理屈をこねているのだ。
省エネの住まいを作りたい。罪滅ぼしをこめて、そうしたいと今想っている。できないかもしれないが、何かそんな感じを抱き始めた。結構、地球環境やなんかにも興味があるのだ。
だって大事なことだ。
資源のない日本がこれから生きていくには、未利用資源といわれるものを利用していかなければならない。ということは、社会インフラのないところで、自然に生活できることがいま求められているのだ。
砂漠の中の住民の知恵とか、大洋の孤島の生活が私たちに教えてくれているようだ。雨が降ると気温が下がる。それが天気予報の原理だ。太陽が照ると気温が上がる。気温によって空気の流れが変わる。
そんな自然の風や光を利用した住まいがいいのではないか。電気に依存する前に、その以前のエネルギーを使おう。太陽エネルギーにしても、膨大で無尽蔵だとは今の科学技術での話であり、近い将来、核エネルギーの代替として利用しようとした場合、そうとはいえないだろう。全地表を太陽パネルで覆い尽くしたら、地か生活になる。
それでは本末転倒だ。あるものは、できるだけ自然のままで使うのがいいのではないだろうか。それとも、生活そのものを二重社会にするのか。
私はシンプルイズベストだ。その方針に変わりはない。面倒なのは嫌だから、そのためにいろいろと理屈をこねて考えるのは好きなのはどうしてだろうか。
省エネの住まいはいいと思う・・・。たぶん植物のはっぱで覆ったようなものだろうか・・・。ちょっとイメージがちがっただろうか・・・。
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自分のすまい。結構、凝り性の私だが、これはまったくの小さな頓着のない我が家となっている。でも、ほっとする。そしてかなり老朽化してきている。
大きさはとく異論はない。そして、機能もとくにほしいものはない。ちょっと気になるのは、最近の環境関連の設備だろうか。今の時代を生きるのだから、何かそんなエコに関係あることをしたい。ソーラーとか風力とか。何かないだろうか。地下水だろうか。海水をうまく利用する方法なんかもいいのではないか。
防災との関係で水関係は注意する必要があるし、弊害がわかるなら、メリットを活かすように計画を練ればいい。小さな我が家にそんな機能が加わるのはいつだろうか。ちょっと夢もあるではないか。
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そんなタイトルの歌がはやっていた。いいなと思った。そして、それが理由とはいわないが、同じような小さな家を建てた。もうずいぶんと年数が経つ。老朽化だろうか。
なかなか維持管理が難しい。自分のこととなると、どんな些細なことでも着実にやるのは難しいものだ。今、小さくていいのだが、ちょっと環境の変わった住処がほしいと考えている。カヌーなんかが作れるところで、もちろん乗れるところとなれば、水辺か海辺かちかくにほしい。
今の住所も海の近くだ。半島で三方を海に囲まれている。だから、ここへ来た数十年前はなにかうれしくてうれしくてたまらなかった。
もう一度、そんな感じを持ってみたい。うれしくなるような海の近くの小さな家を建ててみたい。そしてそこで小さなカヌーを作ってみたい。
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なんともならん。
そんなときは、すっきりと周囲を変えてみようではないか。そうすればきっと環境が変わって気持ちもなにかうきうきしようではないか。
それでもだめならふて寝がいい。
落ち込んでみるのもたまにはいいのだろう。いつも優等生では気がつかれるし、嘘の姿のようでどうもふわふわしてしまう。そしてあまり、うそつきではもちろんだめだ。正直さがなければ人はひととはみない。
環境を変えるには、場所を変えることだ。そして頭を切り替えることだ。自分からちょっと離れてみることだ。他人になったような気分で自分を見ることだ。そうすればきっと自分が結構がんばってきたことに気づくだろう。
ひとでいることは大変な労力を必要とする仕事だ。
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自分の住む家について考えたことがある。
それは、頓着のないものである。とにかく住めればいい。そう思っていた。
広い家もいい。狭い家もいい。中ぐらいの大きさの家もいい。
そして、居候はいやだ。
気を使うのがたまらない気がする。だから気楽な家がいい。
自分の住むいえはそんな気楽なやつがいい。
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子供番組でブーフーウーという3匹の兄弟こぶたの話があった。そこで性格が違っていて、その差がかれらの住宅の違いになっているというものであった。
今、思い返すと確かにそんな気もする。当たらなくとも遠からずということだ。そして、日本の住宅事情を分かっていなかったのではないかという気もする。とにかく住むところを確保する。それは賃貸であろうが持家であろうが、両親と一緒でない子供は自分で調達するしかない。それで、どうするかといえば経済性重視でしかない。資金が許す範囲でしかできない。性格も何もない。そんな風に私は考えてきた。
最近の住宅建設状況をみると、ずいぶん変化しているようだ。りっぱな住宅が多い。ブーフーウーの性格の違いはまったくそこには影響しないような感じを受ける。それでいいのだが、空間の利用技術が向上したのだろうか。医業の経済性追及は、お客様の居住性に対する要求を抜きにしては語れないところに来たのだろうか。コストパーフォーマンスが顧客のニーズに適合する技術レベルになったのだろうか。
夢のような長い返済期間だと思っていたが、何か30年というのはあっと言う間のように今は感じる。
子どもの頃の感覚が今でもはっきりと蘇るのは、やはり社会全体が戦後で貧しかったからではないか。金の卵といわれた義務教育終了後の子供たち、みんなそういうところでギリギリの決断をして大きくなってきたのだ。戦後の子供たちの数は社会のパワーとなって爆発もした。それは、ほんとうに行き場所のない夢のような破れかぶれの風潮が礼節を重んじる社会の中で反抗したものだった。
機動隊の同年代の青年たちが一日4000円の食事をしているときに、貧乏学生は学生寮の1日150円のごはんをありがたく感謝しながらいただいていた。米どころの生まれの私にとって、外米はまるでゴムのまるめたようなものにしか見えなかった。それにもなれて、先に入っている先輩たちのいじめにも耐えて、浅はかにも同じようなことをしようと考えていたら、そういう古い習慣はもうなくなっていた上級生時代だった。
変化は同世代の子供の数に大きく左右される。大人になっても、群衆の中でうごめいている自分をどうすることもできないそんな存在だった。何かをくいしばって、マケタマ・ヤラタマ(これらは、浅田次郎の小説にある負けてたまるか、やられてためるか・・・という意味だ)と心で叫んでいたような気がする。
それも今はもうない。何かすべての気力を無くしてしまったような気がする。そして、やっと自由になれたという風にも思う。まったく今まで感じたこともない表現のしようのないものだ。そしてそういう開放感とは別にやりたいことが山ほどあることに気づいた。生きるためにある種の戦いをしていた時代とは違うものがある。この社会にはもっともっと大事なものがある。働く世代でもっと多様な心の動きを生かせれば、・・・。そして想った。
今、ブーフーウーの家を自分で作るなら、どんなものにするだろうか。住まいはその人の性格・人格などを反映するなら・・・。そこまでいうと、やはり同じような家を私は建てるだろう。小さくて、壊れてもまたすぐに修理するとか新しく建てなおせるような家だ。
でも、もうひとつ自分の棲めるものがほしい・・・。それも普通のものでいいのだ・・・。
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魚のねぐらはもちろん水の中であり、自己保身の防御とともに餌をどうやって確保するかがその選択基準となっている。そして、水域環境というすみかの条件がある。水温と水圧、そして水質である。すみかと同じようにねぐらといういい方もある。これは私たちの家に相当する。
自然の中での野生生物として、自立していなければ子孫を残してはいけない。だから、いろいろなリスクマネジメントの要素がDNAに刻まれている。自律という点も重要な資源の維持に関係する要素である。増えると減少への方針が出され減ると増加への方針がでるようだ。それが人間による漁獲であってもほかの生物による私たちにとっての食害であっても・・・である。そしてそれは当事者にとっては、生存本能への危機となって映るのだろう。
すみかはどんなのがいいのだろうか。水族館の環境だろうか。人工的な中に最近は自然の方法が多く取り入れられている。飼育方法とその技術が向上していることが大きな理由だが、飼育に対する方針と生物の多様性とかこの自然界のあり方についての考え方が大きく変化しているのだと言える。
私は自分のすみかをこんな風にしたいと思うことがある。それはいつも簡素なものなのだが、定住しようというところにちょっと問題があるようだ。
どんなところにでもすっと入り込んでいけるような生き方・暮らし方がいい。そして、時には何も考えないでのんびりすることができるすみかとねぐらがあれば、最高だと思う。
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住めば都という。済めばおわりと何か似ているが全く違う。私は自分たちが住んでいるところが一番いいと思うようになった。ちがう土地では仕事とか何か目的をもった活動が終わればそれで一件落着である。でも、ふるさととか第二のふるさとはちがう。
生活をしていくには好きなところがいいし、現に生きているところが確かに好きになるようだ。なにがいいかというのではなく、とにかく好きだということだろう。落ち着くという気分だろうか。ほとんど知らない土地であってもだれかの故郷だといわれると、思い出深いものを感じる。共感と呼ぶのだろう。それは、自分の心の中に、ながらく帰らなくとも子供のころの近くの神社とか、川とか山とか自然の四季の移り変わりがこころ残っているからだろう。失敗したことや恥ずかしいこともその中にいっぱいあるが、もう忘れている。
住むところを大事にしよう。それが私たちが生きていることの証になる。そして生活を基にした考え方が実は世の中を動かしていることを理解しよう。これからの若い人たちがどんどんと成長し、あとからあとから続いてくる。知恵と工夫を伝えていこうではないか。
その一番のもとになる考えは、住んでいるところが好きだという想いである。私はそう思っている。
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ヒトの生活。都会と田舎。先進国と途上国。ヒトの生活は衣食住が基本であり、そこから礼節が生まれるものだと聞いた覚えがある。私もそのとおりだと思う。そしてその程度がいつも問題ではある。贅沢と飽食の時代であれば、その限度は超えているに違いない。質素で清潔な生活態度とはいっても、文化や伝統的な慣習で多様な世界に入ってしまう。
あるところというか、ほとんどの人々の暮らしは本来、総合的なものであったはずだと私は思う。先祖、祖父母、両親、自分、子供、孫、子孫という家族の中で、家畜を飼い、ペットとともにし、作物を作り、魚や鳥や野生のイノシシなどを糧にして暮らしを立ててきたに違いない。そこには、生まれてきた背景とか、これからの世界とかいうものはなく、その一員として立派に人生を送ることがしっかりと守られているのではないだろうか。
生活そのものが、その中ではまじりあっており、すべてを包括したような全体の暮らしが創られているように思える。生まれた土地がすべてであり、そこで一生を終える。そういう生活がある。住まいは人生そのものではないだろうか。家族・親族の生活を守るための防護、食糧の確保、自給自足の生活、精神的な自立など、この世の中で必要なものはすべてあったに違いない。
質素な生活に必要な住まいは、機能的であり、インテリアは単純でも何か時空を想わせるものがある。それは、私たちの生活が如何に貧弱になっているのかを彷彿とさせるものでもある。いろいろなものがまじりあってそこから醸成される文化伝統慣習が私たちの暮らしに大きなヒントを与えている。そのことに気づかずに長年、無意味に時間を過ごして必要な大事なことを忘れてしまっているような気がする。
地に足がついて生活とは、いろんなものが側にある暮らしをいうのではないだろうか。それが私たちに必要な暮らしの栄養素そのものではないだろうか。必要なものが側にない生活からいいものは生まれてこないと私は思う。
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どうして煙草を吸うのですか。何故なのだろう。子供のころ、父親に対する疑問であった。直接、どうしてと聴いたりはしなかった。でもわからなかった。
子供たちが小さい頃、どうして煙草をやめないのかと聞かれた。大人になれば分かるさとうそぶいて終わらせた。それはやめたくてもやめられない・・・。それだけの理由なのだ。たばこを止めるならご飯を食べない方がいいと私は思っていた。起きている間中、どこに出かけるのでも、まずたばことライターを持っているか確認する。残りの本数まで気になる。不安がもしなくなったらというもの以外にはない。
最近、吸わない人が多い。でも周囲にはまだまだ多くの愛煙家がいる。喫煙室をうまく設計した住宅が売れる時代がくるだろうか。外で吸うのがたばこという定義はない。でも禁煙区域とか全面禁煙という時代のようだ。地球温暖化にも影響しているという前に、分煙で周囲に迷惑をかけているという宣伝の方が喫煙者の心を痛めているのではないか。
加齢臭というものがある。男の臭い、女の臭いというものがある。子供っぽいという臭いもある。大人っぽい臭いというものはあるのだろうか。それは大人っぽい雰囲気と使うべきか。でも、ヒトって、動物だから、ZOOの臭いと同じものをいつも発散しているのは間違いない。それが悪いことだろうか。
住まいにも臭いがある。ペットの臭いや毛がチリとなっている。ハウスダストもある。外気にも大きなチリや浮遊物質がある。それは時に有害なものである。季節の変わり目に訪れるものもある。少々きついがモクレン、キンモクセイとかいうのはそういうものを与えてくれる。
暮らしやすさとは、一切気にしないですめる場所があることではないだろうか。山の中でも都会の中でも、自分の縄張りを持つことで人はいくらでも幸せになれる。そして質素な生活を最も贅沢と思うときがやってくればもっと暮らしやすくなるだろう。そう思う。
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