沿岸や海上における開発の中心は、やはり「海の幸」であろう。
昔はすぐ地先でアワビや魚が獲れた・・・。
でも、港や護岸、埋め立て、海上空港ができてから、潮の流れが変化し、まったく昔とはちがう海になった。
ほんのちょっと、開発するときに、海の幸をどう維持するかという発想があれば、それは必ず資源の復活や、新たな資源の参入も可能なのだと、だれも考えないのだろうか。
水産分野には水産土木や、水産水域環境というものがある。
なぜ、これらの知識、知見を活かさないのか。
ただ、知らないから・・・なのかもしれない。
海の幸は、どんどん離れていく・・・。
奪われてしまったのだ。
あの時に、生活の場を甘ごとにほだされて、お金に目がくらんだという言わないが、選択の余地は感情論だったのだ。
だって、だれだってもしも・・・ということを考える。
俺たちだって、同じだ。
それに、公共のためのインフラ整備なら、原発も埋め立ても、地先の漁場がなくなってもそれは仕方のないことだ。
反対しても、地域のため、公共のためと言われては、どうにもならない。最後は賛成するしかない。もちろん見返りとしての補償金がそのいいわけになる。
だが、生活の場は、おれたち世代だけのものではない。
持続的な空間が必要なのだ。そこで生まれて育つこととは、生活のための糧を得て、伴侶を得ていける土地のことだ。時間は、ずっと祖父母やその前から流れてきている土地だ。
生活の場、それをどうやって確保するか。
原発だけではない。いろいろなインフラをどうやって整備するのか、しないのか。
生活の場をどうするのか、自然の営みを阻害しないという方法もある。
だが、それは自然災害もいろいろだ。
津波もあれば、がけ崩れもある。
どこにいても、それはひとの暮らしがあるかぎり、付随するものかもしれない。
補償金で釣ってはいけない。また、つられることもいけない。
そこに理がなければ、一時的な利という補償金は、未来を保証はしない。
どんなことをしてでも救いだす。
それが日本の国家としての責務である。
パスポートを持たずに外国で過ごす・・・ことは、本人の意思ではないのだ。
犯罪行為なのだ。
罪を償うには、まずはすべてを戻すことだ。
日本の熱意は強いのだ。
韓国の日本外しなどの疎外感を超えたものだ。
北の思惑なんて関係ない。
潮の流れがかわるときを見逃すな・・・。
こぎれいな住まいがいい・・・。こんなタイトルで書き始めるとすぐに、今、どんなところに住んでいるのかと問いただされそうだ。
その通りだ。でも、自分ひとりではない。使いやすいように、なっている・・・とよく散らかった空間にいるひとは言う。
それをあざ笑うように、なんとか整理術なんていう書籍がベストセラーになっている。
使いやすいっていうのは、つまりは片付けないことではないかな・・・。間違っている・・・らしいが、便利はいいだろう。掃除なんかしない。なぜって、またどうせ汚くなってくるから、そのまま放置すれば、それ以上見た目には変わらない・・・。
最近、ゴミ屋敷が増えているらしい・・・。その背景には、今書いたようなことがベースになっているのではないだろうか。
たしかに、奥さんが掃除洗濯をしてきれいにしている家庭ではとても信じられないことだろう。でも、ご主人やだんなさんは、そんなこと知らないのだ。ゴミを週何回どんな形でだしているかも知らない世代が高齢者にとくに多いのだ。
それが現実だ。
小生の経験でも、それは・・・・わかる。掃除はなんのためにやるのかが、実感できていなかった・・・。反省している・・・。許されよ・・・、である。
空気中の浮遊じんを想像しようではないか。一か月でたぶん、500ミクロンぐらいは積もるだろう・・・。もう、これ以上想像するのはせつないので・・・、この辺にする・・・。あとは、各人の経験で想いを馳せてもらいたい・・・。
だから・・・。
私は、こぎれいな住まいがいい・・・・と思っているのだ。
いつか、あんな家に住みたい。
どんなお家ですか。あんなお家に住んでみたい。
でもそれは、いつでもいいのだ。
そんな想いがあるだけで、いいのだ。
あんな寒空の日に、あんな熱帯夜の日にも、いまでも家のない人たちがこの日本にはいっぱいいるのだ。
仕事を得るには住所がいるのだから、どうするのだろう。住所不定ってなんだと思っていたこともある。子どもの目からみれば、そんな大人はだらしのない存在にしか見えないのだろう。おやじ狩りとかいう言葉は最近見られないが、たしかに外見と内面は大きくちがうのだとわたしは想う。
それでなければ、こころのバランスがとれない。だから、私たちにんげんは、勝手に時間の制約なしにであれば、何でも心の中に想像し、その宇宙よりも広大な空間に創り上げることができるのだ。
あんなうちにすみたい・・・。いつか・・・、いつでもいいのだ・・・・。
どんな住宅がいいのですか。そうですね、狭いのはいいとして、シンプルで機能的な住まいとでもいう内容でしょうかね。
そんな会話が聞こえる。
最近、ゴミ屋敷とかのニュース報道を見た。どこにでもあるらしい。原因はもったいないといいて捨てたものを拾ってくるパターンと、毎日の食べ物とか生活そのものがゴミをだすのに処理しないというパターンのようだ。
毎日コンビニで食べ物を買って、袋も容器もそこにおいて片付けない。いつかやればいい・・・。それでいるところがなくなる・・・。
これら二つに共通するのは、いつかやろうという気持ちだろうか。それで本人の中ではバランスがとれているのだ。
今は、ゴミゴミして散らかっているが、いつか片付けるそれまでのことだ・・・。だから、私は何も悪くはないと・・・。しっかりと正当防衛の言い訳をして納得しているようだ。それでは周りがとても困ることが、本当にわからないのだ。
たいていは一人暮らしなのだから、周囲の変化がわからない。時代に取り残されているというのがわからない。
とうことは、まずしくとも、田舎でおじいさん、おばあさん、ちち、はは、こどもたち、いぬ、ねこ、にわとり、池のこい、庭の柿の木、リンゴの木、グミの木、梅の木、杏の木、サクランボの木、洋ナシの木なんかがあり、ときどき、ひいおばあさんが訪ねてくるなんていう風景はすばらしいとしかいいようがない・・・。
そこにあるものが、日本の生活の原風景のような気がする。
そんな時代の住まいは土間があり、農作業に合わせたスペース配分がしっかりとなされていた。ひとつのうちが、結婚式場になったり、いろいろなことに使われていたのだ。もちろんそんな時は、となりのうちの台所が追加の調理場に早変わりするのだ・・・。
そんな機能は、今の社会にはもうない。これから、そういう風景を復活するのが、必要ではないだろうかと私は考えている。
質素な家にすみたい。贅沢ではない家だ。
生活はそれでもなかなかそういう願いをかなえてはくれない。普段は汚れていても機能的になっているという考え方があり、だれがそこを主体的に使っているかでも変わる。
キッチンは通常、そこで作業をするひとが主役だ。そして、他人の家はその持ち主が主役のはずだ。部外者がなんやかやというべきものではない。
でもあんなうちに住みたいと思うことは多々ある。それは叶わないものだとあきらめている。それが一番無難かもしれない。
あんな車に乗ってみたい・・・。想いはいろいろある。
三匹のこぶた。ブーフーウーだったか。それぞれ違う性格で違う家を建てる。
私は、そんなときどんなことを考えていたのだろうか。清潔な家に住みたいとか、大きな家とか、小さな家とか、大自然の中の家とか、牧場の家とか、浜辺の自然石のあるリビングのある家とか、体育館のような家とか、そして何もない家というのもあったようだ。
で、どうしたのか。
何もない。変わらない。家ってひとが住むとそこで家が機能する。だれも住まないとどんな建物も死んでしまうようだ。
ひとの考え方が家をつくる。暮らし方が家を守っている。家をもつことが人には大切なことだ。それは、空間として私たちを保護してくれる。雨風から守っている。
たしかにそれが一番だろう。そしてふとんの中でぐっすりと寝るのだ。そんなことがほんとは幸せということだ。そして、そういう家をいくつか持つのもいいだろう。山、川、海とか温かいところ、寒いところなんていうのもある。
なにもしないてボケっとしていれば、そこにはいろいろな空間が現れるし、その小さな頭の中に宇宙のような広大な空間がでてくるのだ。ほんのちょっとのやすらぎがそんなところへと導いてくれるのも家のすごさだ。そう私は考えている。
あなたは小さな家と大きな家とどちらに住みたいですか。そんなアンケートがあったら、私はこう答える。
二つ欲しい・・・。なぜならば、基準がわからないからだ。どれが大きくて、どれが小さいのかわからない。二つ、それもこの世の中で一番大きい家と一番ちいさな家があれば、その範囲で選ぶことにする。
あなたは汚い家と清潔な家のどちらに住みたいですか。そして、さらに追い打ちをかける。
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