こころの叫び
なにかをかんじる。
こころがさけんでいる。
それはなにかといかけているもののようにかんじる。
さけびはすんだくうきのなかをはしりさった。
おひさまのひかりよりもはやいきらめきのようにきえさった。
そのさけびはどこでこだまとなれるのだろうか。いつかははねかえるものにぶちあたることができるのだろうか。
わからない。こころのさけびはそのなかで反響しているだけだから・・・。
だれにもつたわらない叫びかもしれない。
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なにかをかんじる。
こころがさけんでいる。
それはなにかといかけているもののようにかんじる。
さけびはすんだくうきのなかをはしりさった。
おひさまのひかりよりもはやいきらめきのようにきえさった。
そのさけびはどこでこだまとなれるのだろうか。いつかははねかえるものにぶちあたることができるのだろうか。
わからない。こころのさけびはそのなかで反響しているだけだから・・・。
だれにもつたわらない叫びかもしれない。
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何もできなくても挨拶だけは、しっかりとやりなさい。そんなことを誰かに言われた。たしかにその通りだと私も思う。そして、つい忘れてしまう。
それが日常的に実行していない証拠でもある。日本では神仏をおまつりしているのが普通だ。それが最近はないうちが多くなっている。実家に帰ったときにお参りするのも、最近の傾向では帰省そのものが少なくなっているので、ますます機会は減少しているのだ。
あいさつ。
そう一言でいうが、実に難しい。身体に不具合があれば、お時儀をするのもためらわれるぐらいだから、すぐに健康状態が反映される。心理的に不満が充満していれば、顔つき、姿勢、話し方がそっけなくなるから、すぐにわかる。
そういうことを悟られるのはだれでも好まない。だから、・・・・。
だから、あいさつをしないようになる。それは、こころとからだの状態を忠実にうつす鏡のようなものだ。そう私は考えている。
そして、その大切さを身にしみて感じてもいる。相手も顔と目を見て「おはようございます」といい、一礼することがこんなにも大変なことであり、それ以上に大事なものを教えてくれることを今思い出しているところだ。
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何をしようか、今年は・・・。毎年、同じことを考える。
今年は、何をしようか。でも何がおれにできるのか。やりたいことは、おれにはできないからできない・・・。毎年、繰り返す言葉だ。
俺にはできることなんてない・・・。そう言い切った。でも考えてみたら、いろいろなことをしている。いろんなことができる。でも大切なことができない・・・。
みんな同じなのにどうして俺だけおいてけぼりなのか。どこが違うのだ。みんなちがうのかもしれない。おれは劣っているのだ。そうにちがいない。
だから、できないのだ。
でも、何がやりたいのか。そんなものはない。何ができるのか。そんなものもない。では何が好きなんだ。何もない。好きなものなんて考えたこともない。好きなことをしたいという観念はあるが、そんなことはできない。
なぜ・・・。なぜだろう。好きなことができないわけはないじゃないか。そんな馬鹿なと私は叫んだ。
なぜ・・・。なぜだろう。好きなことがわからないからだ。そうなんだ。迷ってしまったのだ。みんな迷うのだ。それが嫌だから、自分で迷わないように、自分だけの目印をみんな持っているのだ。
私の目印はなんだろうか。毎日、命を維持することだ。つまり生きるとか、生きているということを実感することだ。
何ができるか。それはとても難しい問題だ。なぜならば、だれにもわからないからだ。おれのやりたいことは何か分からないからだ。おれにもわからないから、他のひとにわかるはずはない・・・。他の人たちはみんな分かっている。なぜできないのか。
それは、いつも自分で今、できないことをしようとしているからだ。そうに違いない。できることを避けて、できないことをいつも頭の中においている。そして、できない・・・、おれにはできない・・・、おれには何もできることはない・・・。そう叫んでいるのだ。
それは、だれでも経験していることだ。あそこのおっさんもむこうのおばちゃんもみんな知っている。そのつらさはだれもが知っている。
忘れよう。みんな忘れてできることをやろう。そうすれば、できないことがいつの間にかなくなっている。頭の中から消えている。なぜって、そんなことはしないからだ。
それで生きていけるのだ。この目と手と足と頭と・・・、今とにかくあるもので十分だ。
そう想ったら、何ができるかということよりも、できることがいっぱいあると気づいた。ご飯を食べること、ひとと話すこともやろうと思えばできることだし、ひとりでなんでもできるのだ。ちょっと他人とのコミュニケーションが苦手なだけだ。おれだって苦手だ。それって、いろんな奴らがいてその時々で対応が違うから反応も変わる。おれはそんなに自分を変化させるのは嫌いだ。なぜって俺はおれだからだ。
だから、この世の中にすねているのだ。そんなことをずっとやっていたら、もう俺はおれではなくなってしまった感じでまたすねてしまったのだ。どうしようもない闇の中で・・・、長淵剛が歌っていたような感じなのだ。
でも負けない。でも勝てもしないし、勝ちたくもない。だって負け犬だから、それで仕方がないのだ。
でも親孝行をしてみたい。いまさらというだろうが・・・。実はそれができないのだ。もう何もできない俺には何ができるかなんて関係ないのだ・・・。何もできないのだらか・・・、結局なにができるかなんて考えもしない・・・。
でも俺は何かをみている。だれかがおれを見つめている。そんな感じがする。それは、とくになにも語らないし、説教もしない。でも、なにかにじっと見守られている気がする。
それは俺も同じだ。たぶん、ずっとおやじやおふくろがみているんだ。そう俺は信じている。ぐれてもだめなやつでも、努力しなくても、堕落しても、真剣に何かを考えても、まじめな時も、けがで苦悶していたときも、よくなったときも、こどもが生まれたときや結婚したときも、ずっと見つめ続けているこころが感じられた。今思えば・・・。そうだった。
そんな親のこころを今頃になって思い出した。だまって包み込まれている感覚はもういない親のことを想うたびによみがえってくる。
みんなそうだ。みんな同じだ。
みんな俺と同じだ。何ができるかはわからない。でも今、生きている。
生きているって、すごい能力が要求されるのだ。健康なこと、こころがあること、身体が実感できること・・・。みんなその機能は同じだ。どんなことをしていても、いくらえらくなっても、しあわせとかは同じものだ。ひとはあったかいこころをもっていきていくことが、いつでもいつまでもできるのだ。
何ができるか・・・。答えはなんでもできるのだ。そして一度にできることは一つだと・・・。だから俺たちは迷ったりする。でもその目的は一つだ。
自分の存在を自己認識することだ。そして、何ができるか・・・と思案することだ。答えはそれぞれ違うから、だから・・・・。もっともっと時間の許される限り、飯をくって生き続ける必要があるのだ。
でも、どっかで・・・・。
みんな同じだ。そして、何でもできるのだ。一度にやることをこころに決めることがその分かれ目だ。それが楽しくて面白くてうれしいことなんだ。
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ライフプランを作って幸せな人生を送る。そんなことはできっこないのに、どうしてそんなに計画を作りたがるのだろうか。
現実にいろんなひとの人生がある。そこに計画どおりにいった例があるのだろうか。
ない・・・。絶対にない。
それは、ひとという存在は現実に満足しないからだ。不満を持つことが、ひとの成長のもとである。疑問をもつことがひとの本質である。そこから、新たなものが生まれてくるのだ。
計画することは、そこに制約をつくることだ。それでしかない。そうだったら、その制約を外していくというライフプランが必要なのだ。
エリートコース。バカコース。どっちでもないコース。
この三つから選ぶとしたらどれにする。親は一番目をこのために選ぶ。本人は反抗期には二番目を選ぶ。でも、第三者は三番目を選ぶ。
なぜ三番目なのか。それは、可能性が一番大きいのだ。ファイナルラウンドの逆転とかリードとか、いろんな成果がそこに出るのだ。
力を蓄積して初めておおきなものになるのだ。だから、ため始めたころにその圧力を測っても意味はない。だから、早めにつぶせ・・・。そんなセリフもある。成長しないうちに、力を出す前にやってしまえ・・・。それは一つの方策だろう。でも、ほんとの力はそんな作戦のあとにやってくるものだ。
相手のパワー、知力をもらって自分のものにする。それが戦いのセオリーだ。そこで力を大きく発揮することができる。
ライフサイクルは、そんなコツをいかにして手にするかではないか。ヒトと同じだが、ちょっとだけ違うものを手にするには、自己流でいいから、いろいろと考えることだ。そして行き詰まり、この世にすでにあることを学ぶことで、自己流を高める。世間流をさらにパワーアップする。
そんなライフサイクルがこの世界にはあると私は考えている。
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私の特技は、どんな時でもいつからでもドラマに入り込むことができることだ。途中でも終わりごろでもかまわない。
なぜかというと、すんなりと脳の中に入ってくるのだ。だいたい想像できるのだ。だから、この年末の休みは、ルーキーズとかごくせんとかシリーズでつぎつぎと見たのだ。コマーシャルの間は、アラフォーを垣間見てまたチャンネルを戻したりした・・・。
私の奥さんはそんなことに夢中になっている姿をみて自分の見たい番組を遠慮してほかのTVでだまってみたようだ。私は途中で見るのをやめるのもあまり気にしないので、いつでも見たいものがあったらいってくださいと広言しているのだが、やはり、熱心になっている姿なのかも・・・・。
いわゆる根性もの、不良ものといわれる学園物語だ。でも、役者というのは、先生役も生徒役もあまり年は変わらないのによく演じるものだと感心した。
そして、連ドラの構成は、配役のメンバーで割り振るというような基本をみたようだ。次にだれを主演にするか。どんな内容にするか。はらはらどきどきというところを見透かされないように、結末が二転三転するようにつづるのがコツかと感じた。
サラリーマンとは別のものかもしれない。学園ものはなんとなく未来があり、夢に目覚めろ、明日にきらめけ、目指せ甲子園・・・・。すごいセリフだ。格好良すぎて、部分的に見ても何か嫌気がさすようなものだが、一度はまると理解できる。
野球をやる元不良たち。野球選手として非行には戻れないせつなさ。それを陥れようとする現役不良ども。どっちもハラハラする。せっかく更生したのにまたか・・・。やっぱり不良というレッテルを貼られるともうもどれないのだ・・・、どうでもいいんだ・・・・、やっかマしい・・・、おれにかかわんなよ・・・、ほっといてくれ・・・。そんな言葉がぽんぽんとでる。
それでも、何かそこにある一種の情熱が感じられるのは、そのプロセスにあると私は考えている。ひとつひとつの積み重ねが、つぎのステップへと誘うのだ。決して見えなかったものが、一歩すすむだけで見えてくるという不思議さを作者はしっているのだ。
ドラマの品質は、その構成にある。そして物語としての注目度、平均度、かい離度などいろいろと要素はある。でも一番は人間性を描くことだろう。どこにでもある家庭とか、人間関係とか、ふだん面倒でいやなことをひとつひとつ丁寧に描いていることがりっぱだと感じた。
一挙放映なんて、かなりの時間を費やす。でも飽きないでみるのは年末だからであり、汗水たらして懸命に創作した成果でもあるから、見ごたえもある。
かなり客観的にみられるのだが、涙もけっこうでてくる。涙腺の運動とこころの感動の鼓動をみる試練かもしれない。それが一年間の集大成となり、この次の一年への飛躍になる、跳躍のパワーになる・・・。
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昨日の天気図とその画像は冬そのものだった。きれいな筋が等圧線にそってならんでいる。天気図をみただけでああ寒いと思った。
東北のあたりは、こういう天気図では荒れ模様だ。うらやましかった太平洋岸の土地に私は今住んでいる。だから雪はない。それがさみしい。でもそのかわりに澄んだ冬の青空がある。
そして富士さんがある。一番きれない空気のときが冬なのだ。だから日本一の富士はとてもきれいだ。それは自慢できるものだ。駿河の国と次郎長さんが目に浮かぶような気持ちになる。
冬の衛星画像は、とても魅力的だ。29日はちょっと崩れるらしいが、あとはおひさまとほしぞらだと朝の番組でいっていた。
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あがってはいけない。必死になってもがいていた。そして案の定笑い物になっていた。
いつからか、私は緊張するときには、それ以上ない緊張をしようと心に決めた。それはとてもここちよい緊張でもある。緊張するときにそうする。それは極めて当たり前のことだったのだ。
上がることはひとの前でそうなることだ。もちろん、私的なことではしょっちゅうあがりっぱなしである。そこはまだまだだ。でも、公的な場では緊張することで、逆にそこに適合できるようになった。背筋をすっと伸ばして緊張するのだ。だらだらしないのだ。おれは緊張しているということを全身で伝えるのだ。
とすると、こころはそういう状態を緩和しようとゆるやかなところへと移動していくようだ。バランスをとるということだろう。以前は、体が緊張なんかしていないというようなそぶりでぐうたらしていた。だから心で焦っていた。
ゆるやかな緊張とはなんのことやらと思うだろうが、それはとにかく最高に緊張してみることですぐに自分のものになる。プロフェッショナルとは、何か。それは最高に緊張して物事を自分なりにできるレベルを言うのだ。
緊張している。穏やかな感覚だ。でも周囲からはピーンとしたり、ビーンとしたような感じに見えているはずだ。それが、頭上の視点で俯瞰するとようくわかるのだ。
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私は負けるのが嫌いだ。将棋なんてどうしても勝てないゲームだ。力の差がしっかりとでてくる競技はだから嫌いだ。
何をやってもできないのだ。楽器なんて吹けないし弾けないし、歌もそうだ。音痴の代表選手だ。
でも、負けるのが嫌いなんだ。
だからもう生きるのがしんどい。負けてばかりの人生だから・・・。
でも負けるのが大嫌いなのだ。
だから、生きることでは負けたくないのだ。自分の心にだけは負けたくないのだ。
嘘をつけないのだ。嘘つきは敗者だとおふくろがいっていたのだ。だからどんなに負けて悔しくても嘘はつかない。
まけずぎらいってほんとにつかれるんだよなあ・・・。でもまけないぞ・・・、といつもこころのなかでは叫んでいるんだ。おれは・・・。
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この世に生れて、何を想ったか。自分というものに出会ったことだろう。
自分にこころがあることを知ったのは、不思議なことだった。この自分のこころは、私という自分を乗り物だと感じている。考えているという方が正しい。
そしてときに失望している。どうしてそんなことができないのか。機能不足とか能力そのものがないこともある。でもそれが自分だ。乗りモノであり、自分そのものだ。
そんなこんなでかなりこの自分という乗り物は操作は上手になっている。そしてメンテナンスとか管理が結構大変だ。くせの多い乗り物だから、とても困惑する。
でもそれが自分なのだ。こいつがいなくなれば俺もいなくなる。こいつが動かなくなれば自分のこころという俺はなにもできなくなる。だから、どうする。もっと性能のいい自分になることはできないのかなんて考えているとしたら・・・。それはあり得ない。
だから、この自分というそのものでこの世を感じて生きることが、おれにとっての最大の事業なのだ。
この世に生まれてきたら、そのおわりまでいきることだ。そこに答えがまっていると私は考えている。
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そこまでいかないとわからない。だから懸命になる。そこにいって考える。よく来たなと迎えられる。
そこで終わりである。ありがとう。それで終わりだ。とくに何もない。
ひとはこころで生きているという。ひとはこころで旅をしているという。ひとはどこかで何か壮大なことを想うという。
宇宙の果てを見たか。地球の端っこをみたか。あなたはひとのこころの端をみたか。
そこには隣のひとのこころに移る橋があるという。でも普段は自分からかけない。面倒だからだ。でもときどき忘れてしまう。
わたっていいかい・・・。そんな声ではっとする。
まだ生きている。もう・・・・。もう聞こえないようだ・・・。
ひとはこころでいきているのに・・・、ひとのからだはなにもかんがえもしないのに・・・、私たちのこころの存在をコントロールしている・・・。
ひとはこころでいきているのに・・・。
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もういいかげんにあきらめなよ・・・。なかなか言えない言葉だ。それは、とても冷たすぎるからだ。
ひとのこころがわかるのかどうか・・・。みんなわかるんだと私は考えている。なぜなら、それは自分のこころをかぶせてみることができるからだ。おれなら、わたしならどうするかという場面が教えてくれるのだ。
ところが、あきらめろとは言えない。そして私は言わない。決して言わない。それは、理由がある。私たちがものごとをやれるようになるのは、ほとんどがかなり時間が経ってからだ。急激な伸びをみせるというその最後の上昇カーブが見えるからだ。
あきらめることはそれからでも遅くない。死んでからでもいいではないか。あきらめるのはそれでいいと私は考えている。
あきらめることは、それ自体が生きることと関係している。つまり、そこで終わるという意味ではないか。生きていてもあきらめてしまえばそこで終わる。
だからあきらめることは私は嫌いだ。それは、私の場合、この世にいないということを意味するからだ。
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自分で何かを考えると、そこには確率がでてくる。五分五分だ。どうする。どうする・・・。
迷っているな。相手の心を読むべく必死になる。やつも同じことを考えているに違いない。うらをかくにはどうしたらいい・・・。
相手の考えの反対、逆をいくことだ。そうだ。でも同じことをあいつもきっと想っているだろう。だから、どうする。
いや、あいつはもっとアホではないかと期待しよう。とすれば、そんなに何度も反転する必要はないだろう。どの程度か。二回三回だろうか。
そんなら俺は四五回考えを逆にすればいいのだな。
結局、何を目的にしているのか忘れてしまう。きっとだましあいなんてまったく生産性のないことだ。この辺でやめにしよう。
酒でも飲んでリフレッシュだぜ・・・。
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忘年会と新年会。商売にとってはなくてはならない季節だ。そして、今年は厳しい冬がきているようだ。
リスクマネジメント。そんなことはすでにどこか遠い存在になっているようだ。ある一線を超えているので仕方がないというところだろうか。いや、尋常ではないので、いた仕方ありません。
そんなことでいいのだろうか。以前にあった。百年に一回のきわめて珍しい現象だという。言い訳と言い逃れがすでにある。では仕方ありませんねでは済まされない問題だ。
フリータが若者に多いのに、どうしてこれ以上の失業者を増殖させるのか。企業が生き残るにはこれしかない・・・。そんなことでいいのだろうか。なんのための企業なのか。企業のための企業でしかない。ひとはそこに奉仕している。まるでどっかの悪徳代官のようだ。
吸い上げる。すべての成果を摂りつくす。そんな化け物のようだ。社会を汚染させて、世界を不況に陥れてそれでまだ生き延びたいと税金に手をだす姿がそこにある。
いや大事な生命線だから救済する。さもないと社会が崩壊するからという脅迫だ。つぎに何が続くのか。社会を崩壊させないと、企業が続かないから、崩壊してくれ・・・。そうなることは間違いない。
でもやめられない。止められない。止まらない。
年末年始の動きも止まらない。忘年会新年会だ。騒いでも不況はどこへも行かない。懐がさみしくなるだけだ。
危機は転機になるのか。チャンスにできるのか。好機がくるのか。年初めの富士山に何を願ったらいいのか。質実剛健がいいだろう。不景気なんて吹っ飛ばしてやればいいのだ。
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どんな道があなたは、大変だと思うだろう。
坂道、急坂だろうな。
でも、私は平坦な道が一番エネルギーを使うと気づいた。
なぜって、坂道は登ったら下るだろう。重力のエネルギーは逆に作用するから±ゼロだ。
それに比べて平坦な道は、どうだい。ずっとこの体重を引きずっていかなければならないんだ。ずっとだぜ・・・。つかれるぜほんとに。箱根駅伝なんてどうして登りと下りを別のランナーが担当するのか。両方やってみてはどうだい。
ほんとの力がでるのじゃないかい。
とにかくイメージだな。まっすぐにずっと続いている平坦な道を想うともう受験勉強のようでそこで脱落だな。おれの場合はそうだな。
でもすごい奴らがいるよな。マラソンでずっとすこしずつ追いかけてつには抜き去るなんていうのがいるもんな。どんな精神力なんだろうか。信じられないっすね。
雪道なんか結構面白いんだぜ。真っ白な雪の上に寝転んであそびながら学校へいくなんて気分がいいんだな。そのうち学校へいくのがいやになるけれどな・・・。それでも行かなければ帰りの道のりがなくなるので、行くんだよな。そしてちょっと勉強して何か興味のあることをいっぱい覚えてきたんだよな。
吹雪の道なんて、もう何も見えないんだぜ。砂漠の砂嵐と同じようなものだぜ。どっちもどっちだがな・・・。
平らな道が、やはり日々の生活に似て一番大事だから、大変だと感じるのだと、私は考えているのだ・・・。
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DIって何だ。業況判断指数のことだという。なんだそんなことか。英語でなんというのか。Diffusion Indexだという。
景気判断とかもいうらしい。
良いという数と悪いという数のプラスマイナスらしい。業況ー41は、中小企業の結果。同じくー14とかいうのは大手のものだった。ちがうのだ。足腰の強さが、法人としての頑固さが違うのだ。大金を毎日、食べている巨人の企業は、私たちと同じ人なのだ。法で作られた人なのだ。そして、相撲とりの何倍も食べている。かれらの食べ物はお金なのだ。
そこにお金の食事を運ぶために、働いているのがサラリーマンだし、その番頭さんがCEOだ。どの程度大きくなると、ヒトのこころから離れていくのだろうか。つまり、人間生活の感覚が自然人と法人で差がでるのか。
自然人に害を及ぼす事実があっても隠し通すようになると、たぶんだめなんだろう。法律でできている人なのだから、法で守る行動をとる。そこにおかしなものが生まれる。自然人の健康被害だろう。一番大きいものはそうだろう。そして、ヒトを飛び越えて大自然である海とか山とか、空気とか水とかを汚染してどんどん基準が緩和されてしまう。なぜなら、そこから入ってくる税収がないと社会が動かないからだ。
どんなことでも、悪の根源であっても、子孫が病気に苦しむことが分かっていても、今を生きるために容認し、肯定するしかない。
なぜ。
なぜだろうか。だれもが、学校で学んだことと違うものが、この社会では正義とされている。もっと大きな循環がこの世界にはある。大事な循環が傷を受けてそこからウイルスが侵入してくる。その傷口は社会正義といわれる法人、巨大企業の責任だから、ほんの言い訳程度で責任転嫁される。
元凶がその克服に成果を上げて努力しているという自己欺瞞の報道が、評価されてうやむや・・・。
DIって人心を惑わすものではないのか。科学的ではないのではないか。でもひとのこころで感じることを集めて単純に±しているのはいいのかもしれない。
そういっても、仕事がなくなり、収入がなくなり、財布が底をつき、食べ物がなくなり、寝る場所もなくなる。そんな現実がいっぱいある。若者が多い。年配者は体力がつづかないから目立たないが、もう無力でしかない。
そこから生まれるものは、無気力である。無の境地だろうか。無念のこころだ。そんな社会をどう導いていくのか、これから厳しい冬がやってくる。凍死なんて嫌だ。だれもがいやなことだ。でも無念さもいつまでも続かない。
なにくそ。やらたま・・・、とか・・・。気力がない。もうだめだ・・・。
DIがそう語っている。企業が生き残るには自然人はしぬしかない。そんなことを経営者はいっている。自分もそのしもべになり下がってしまい、もはや、法人への食事当番でしかないのだ。自然人の家族が必要とするお金をもぎ取って、そして企業という法人にお金という食事を上納するだけの仕事なんて、・・・・。意味がないのではないか。
もっと、人間らしい・・・・。まあ何をいっても無理かも・・・。もう気力が・・・・、・・・・、な、く、な、り、そ、う、だ、・・・。無念・・・・ダ
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もし心の中を何かで表現しろ。そう言われたら、わたしは真っ先にM51星雲を思い浮かべるだろう。
ニュートン1月号に写真があった。暦のあるやつだ。その渦巻きは単純だ。でも何かいつか来た道ではないが、こころの空間に似ているような気がする。
あの渦は中心に向かっているのか、それとも放射しているのか。どっちだろうか。成長するならとか、発生するならとか、・・・。
集中と発散。そんなイメージだ。M51星雲よ、私はこれからやりたいことがある。おまえは今どっちへいこうとしているのか・・・。
何かアクションを起こすには、莫大なエネルギーが要る。そのためには、集めることだ。そして次は発散していくことだ。途中でなくなるまでしか続かないのだから・・・。できるだけいっぱい詰め込むのだ。どんな力でもいい。この自分の心の中で加工してやるから・・・、どんなパワーでもいいのだ。
M51星雲は、今、私の事務所の壁に横たわっている。
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久し振りに登った。石段。
ここは久能ざん東照宮だ。石垣イチゴで有名な久能海岸だ。
ここの石段がいい。上がるときと降りるときの差がいい。そして眺めがいい。駿河湾が一望できる。伊豆の山々が見える。
何がいいといっても、その荘厳さがいい。時代劇でもありそうな雰囲気がいい。ときにいろんな魂を感じるような不思議な感覚もある。
なにか懐かしいひとがそこに昔いったのではないか。そんなどこでもドアのような感じがある。気配というのだろうか。自分が敏感なときは、すこし震えがするような感じもある。だから、こんな険しいところに創ったのだろう。
篤姫の徳川慶喜公がよく隠居後に散策したということを聴いた。
静岡の良さを表しているひとつの空間だと、私自身は考えている。
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寒くなると、想うことは一つだ。
春のさくらが咲くころをおもう。
桜吹雪はたしかにすごい。いい。抜群だ。
季節を感じるのだ。異境のひとに見せたい日本の景色はさくらだ。
咲きはじめから終りまでなんという風情なのだろうか。
そう想うととてもこころが温和なかんじになる・・・。
ことしももうすぐおわりあたらしい年がやってくる。
もういくつ寝ると・・・、お正月が・・・。そして桜咲く春がつづく・・・。だからわくわくする。
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きっと助けにきてくれる。
大事なときには必ず正義の味方がくる。
叫び声が聞こえる。あっちこっちから聞こえてくる。
正義は悪を倒すというのは、昔の人の錯覚だったのか。
社会正義というものが、法文化されている。それが機能しない。
そういう叫びがいっぱいある。交番におまわりさんがいる。
どんな田舎にもいた。今はいない。
叫び声は、そんなにないと嘯くひとがいる。
叫ぶひとたちの心の中から訴えるものが消えてしまう世の中ではだめだ。小さなともしびを絶やさないようにしよう。
まず、拉致された人たちを救い出そう。一億三千万人のこころを結集して、救出のパワーをこの大地に注ぎ込むことはできないのか。
一国のリーダーのこころが正しいのなら、その決断の内容は世界が望むことになる。でも、もうすでにいないという情報もある。もし、いるなら・・・・すぐに決断すべきだ。返すことだ。むりやりに本人の意思に反して奪ったものは、返すべきだ。
そう長年願っている両親のこころがわかるなら、ひとのこころがあるなら、いますぐに日本の両親のもとへ親戚のもとへ家族のもとへ帰すことがあなたの責務だ。
この世のに生まれたら、貴賎に関係なく、ひとついいことをするのが私たちに共通の東洋文化の偉大さだ。
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しあわせとは、なんだろう。
そう想うことが、じつはしあわせそのものではないのだろうか。
この世の中にいる自己に目覚めて、そして忘れていること・・・。
それが、ほんとはしあわせではないのか。
ここにいるということについて、なんら疑問をもたない一瞬が私はそうだと想う。
そんな情熱がこころに迸っているときがあれば、しあわせだといえる。
みんなそうだと・・・・、しんじている。
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でも、そうはいかないのがあなたにはわからないのか。だから、何もできないという状況があなたないはわからないのだ。
そんな切迫した状況でも、ひとはのんべんだらりとして生きていける。だから、どうする・・・。
ひとは開き直ることで、自分の姿勢を制御しようとするのだが、一度自分の開き直り前の本音を思い出すとできなくなる。本心はそこの開き直りにはないからだ。
どんな高等なことを考えていて、どんなつまらないことしか頭になくても、それは変わらない。だから、どうするのか・・・。
何もできなくてもいい。だから、どうするということも何もかもどうでもいいのだ。そんなことではなくて、・・・・。うまく言えない・・・・。だから、・・・・。
だから、・・・。だから、どうする・・・・、と問われても・・・。
何も答えられない。もう身体がぼろぼろなのだ。だから、どうする・・・。
何もない。もうこころが空っぽなのだ。だから、何もないのだ。
無の境地とかではない。ほんとのからっぽなんだ。だから、どうすることもしない・・・、のだ。
だから、そんなことを想うひとはあまりいない。みな平平凡凡と暮らしている。だから、そこにひとつのあなたの生きる意味がある。そこにヒトが望まないし、決してできないことがある。そんな多くのひとの意見をあなたは代弁できるはずだ。
私にはできない。でも私があなたの立場で、あるときふと親がいなくなって気づいたときに、そんなことを想ってくれないだろうか。でも、それはあなたがきづくと私は信じている。だから、私は平平凡凡と生きるふりをしている。
決してそうではないのだが、それでも平平凡凡として生きることが、私にはできる。それは、私がそうしんじているからだ。
だから、どうする・・・。
だから、何もしない。それは信じているからだ。だれでもいつか復活すると私は考えているからだ。だから、どうする・・・。
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こころは大きくて広くて無限大だと、私は想っている。でも、現実はちがう。こんなちっぽけな狭い了見のこころがあるだけだ。
何もできない。何もしない。ただ流れに押し流されているだけだ。
だから、広くて大きくて限りないものなんて必要はないのかもしれない。でも、考えるとそうではないといつも思うのだ。確かに、広いと思う。大きいと思う。でも、再び自分のこころということになるとちがうのだ。
どうもちっぽけ以外のなにものでもない。そんなものかもしれない。いやちがうだろう。みんなと同じこころをもっているはずだから、やはり広くて大きいのではないか。
こころの狭さってなんだ。自己主張だけってことか。他人を思いやらないってことか。利己主義ってことか。いじめっことか、いじめられっことか。みんな狭いこころになっているからだろうか。
ほんとはちがうのに・・・。この世の中のちょっとした加減でどっちへでも流されるのだ。
すぐに虐めるのは、どうしてだろうか。その虐めにすぐに乗ってしまうのはどうしてだろうか。手加減をしらないのはどうしてだろうか。ひとはこうあるべきだということを柱にしていても何か物足りないものがある。狭さだろうか。この空間の広がりに対する恐怖はだれにでもある。
景気後退という文字は、言葉は、けっしていい印象を与えない。下り坂か、ああだめか。悪い時に生まれたなとしか思わないのではないか。
ニュートンの1月号は「波動」だ。波がある。波が見える。わくわくする。どきどきする。サイン、コサイン、タンジェント。そうだ。狭くてもその中で、動くことでエネルギーが湧くのだ。それは狭いこころとかではなく、ちがう物差しをくれている。
どうも一つにこだわると、なにもかも、日本の首相もだめだなんて想いこんでしまう。そうではない。波があるのだ。波の上にいくには下で上昇の気運をつかまなければいけない。何度かやってみよう。
小さいからだめではない。波のような動きがないからだめなのだ。いつも上ばっかりではだめだ。同じエネルギーを永久につかうには、きっとアイデアがあるはずだ。小さな体は大きなこころももてる。大きな体の人ととくに変わりはない。
心の狭さを嘆く前に、考えることはなんだ。この場合なんだろうか。
それは、こころそのものがあるということではないか。こころがあれば、こころを使う。なければできなかったことができる。まず考えることができる。それは狭くても関係ないし、その方が目が行き届くのでいい。
日本の首相にのぞむことは、私たちのこころと同じではないか。その人格とか品格とか能力とかそんなものではないだろう。そこに首相としているということではないか。そこにこころがあり、日本の他の大勢のこころの真髄とおなじものをもっているひとであるということではないか。おおくの国民のこころを感じることができるひとであれば、それが一番ではないか。
ひとは、できるだけ自由であってほしい。失言とはなにか。時に厭味の一つもいいたくなる。いいじゃないか。国民の狭い了見もしっていて自分もそうならそうでいいだろう。隠すことではない。一国の首相は、いっこくの首相なのだ。そこにいなくては国民は何もできない。
首相がいることで、私たちはいろいろなことができる。利害得失はある。国民のそれは一致している。だから、国民のこころをしっていればなんら問題はない。主張は大いにすべきだ。波動は鎮まる。しかし、波動がなければ無のせかいでしかない・・・。
イエス、ウィキャンもいい。そして、波を起こせ、こころを振るわせろ。そこから光が放たれる。きっと、私たちはへこたれない。わくわくさせる波を大波をつくろう。
たとえば、永久サイクルのパワーを獲得することだ。太陽エネルギーも100億年で消滅するという。それでも宇宙はある。地球は狭い。でも宇宙はある。いろんなものが波動で伝わってきている。狭い地球から、そして狭い私たちのこころから、なにか永遠の大切なものが生まれるに違いない・・・。
そんな気がする。いつかそんなことが当たり前になっていると私は考えている。
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笑顔っていいと思う。どんなヒトでも笑い顔はいい。どんな時でも上品なものを醸し出す容貌の人がいる。そんな人は選ばれたひとに違いない。
どうしてそんなに明るいのか。天真爛漫なのか。わからないほど、美しくなって微笑んでいるヒトがいる。どうしてそんな風にふるまうことができるのか。わからない。
天性のもの。そうなんだろうな。
うらやましい。
もっとうらやましいことがある。微笑みの中に多くの人を引き込むような魅力のあるひともいるのだ。だれもがはっとしてしまう。邪心も洗われてしまう。そんな感じを持たされたことはないか。
暑い真夏に、涼しさをくれる微笑みのひともいる。どうしてそんなにちがうのだろう。この世の中は不公平ではないか。でも、きっとバランスがあるのだろう。よくばりでないことが、そういう表情をつくりだすのだろう。
ほほえみのなかへと引きずり込まれそうなきがしてはっときがつくことがないだろうか。
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いくつになっても、未熟だ。いつになったら、立派な大人になれるのか。子どもの頃に夢に見た大人とは、この世の中をよくするヒーローではなかったか。
それが、今の私には何もできない。世の中には立派な成果を上げている人たちがいっぱいいるのに、おれはまだまだ何もできないでいる。
日々生きるのが精いっぱいで、それ以上のことは何もできないでいる。うじうじしている。そんな中で不安ばかりで自信なんてないし、いつもできるどうかわからないでいるのだ。
そんな人生でいいのか。もっと自信をもっていきなければいけないのではないのか。
でも、いいのだ。これしかできないのだ・・・。
まだまだ自分が何かもわからないのだ。どうしてここにいるのかもわからないのだ。そんなことで立派な大人になったと錯覚もできないでいるのだ。どうせなら、嘘でもいいから、おれは立派な大人になったと思わせてくれないだろうか。
それで俺は錯覚したまま、どこかへいってしまうから・・・。そんな願いは聞き入れられないだろう。みんなそうだもんな。おれは偉いなんて言うやつにろくなやつはいねえ・・・。そんなやつがいたら、じっとみてみたい。どんなにりっぱなのかを・・・。
日本の総理は立派なひとだろう。そうみんな思っている。そういうひとに首相になってもらいたい。政治家は、自分でみなりっぱだと考えているのだろう。そうでなければ首相を目指せないだろう。
でも、へこたればかりがいるのはどうしてだろう。いや、そこが二枚腰であり、常人では計り知れないものをもっている天性の粘り腰であり、複数枚の舌さえももっているのではないか。
そういえば、やはりまだ未熟だ。でもそこの域に達することはもう目の前だ。この世の真髄をきっと見つけられそうだ。未熟だからできるのだ。
おお・・・、なんか自信ありそうにみえそうではないか・・・。でも未熟者だということを忘れるなよ。そこからなんだから、どこへいくのも未熟なところからいくのだから・・・。
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ときどき自己嫌悪に陥ることがある。それは、とばっちりを受けそうな時に、そこにのこのこと出かけたりして、日本と同じような気持ちでいると、急に何かつつかれたりして、腹が立つことがある。だから、そういうときは近づかないようにする。
今日も乗継の香港空港で、中国の人らしい一団が大声で叫んでいた。カウンターを占拠していたので割り込んでチェックインの手続きをしていると、まだ隣でわめいている。集団は怖いというのが私の経験だ。自分がそっちの立場なら、同じような心理状態だろうと思うと、とても嫌だ。
そんなわけで自己嫌悪というものが襲ってっくる。でも、今日の私の目的は日本に帰ることだ。だから、チェックインが終わればその場を去る。どうもチケットのエクセスの件でもめているらしい。
誰にもある。航空会社との談判は、もうそこに頼るしかないときには、たしかに大声もでようというものだ。わかる。だからいやなのだ。わかると知ったかぶりをすると、当事者は腹が立つだろう。攻撃の矛先をそんなやわな理解者もどきに向けてくるのだ。
てめえなんかにわかるわけはない。そうやわな理解者は一蹴される。それが環球にくるのでいやなのだ。そんなことを何度も何度も私たちは続けてきているのだ。
とばっちりを受けるのはいやだし、やわな理解者になるのも嫌だし、もうやりようがない。自分がそんな立場のときは、きっとそんなことまで頭は働かない。単にもう弱点をついて自分の主張を受け入れさせることだけだ。
でも、何か姑息でいやだと思うのはわたしだけだろうか。
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からだの発する信号は、痛みとなって現れるようだ。もし、感じることができなければ、それは大変だ。
いや、そうではないと思うこともあった。いたくなければ、怖くないという発想だ。でもそれは誤りだった。ものとしてのからだは、やはり腐敗したり崩れていくのだ。そこでなんら痛みを感じなければそれはからだとこころが分離していることでしかない。
こころは違うあたらしいからだを求めてさまようというのもまんざら嘘ではなくなる。
私たちがすこやかに暮らすには、こころとからだが同一でなければならない。個体識別ということにいては個人ということだが、それがこころとからだがことなれば、そこには別の識別が必要となり、もうそれはありえない・・・。
感じることは大事だ。指先とか髪の毛の一本まで感じる、そして手当をする。それが人として生きていくことだろう。
ここにいる。
そういう叫びを自分で自分のこころの中に持つことだ。そのためには、まず自己を感じて、それを社会に広げて感じることを研ぎ澄ましていくことだろう。
からだを感じて、こころに己という存在を認識させよう。
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どうしてなんだ。なぜなんだ。答えてみろよ。
そんな口調で、激しい言葉が行き交った。てめえが悪いんじゃないか。俺は何もわるくないのだから、お前がが悪いのだ。そんなことがわからねえのか。おい、どうんなんだよう。わかってんのか。黙っていないで答えろよ。
いい加減にしろよ。
どうして、なぜ・・・。
こんな言葉が飛び交うところが最近は多い。そこでへこたれるとへこたれやろうになってしまう。ほんとはみんなそうなんだけれども、肩肘はって粋がっているのだ。でも俺はいやだ。そんな形だけのことは格好つけやがってという以外にはない。他の言葉は見当たらない。
なぜ、どうして・・・。
こんなことを真剣に考えているのか。必要なのか。こんなことを考えるために俺はこの世に生まれてきたのか。なんということだ。こんなつまらないことをどうしてしなければいけないのか。
どうして、なぜ・・・。
どうしてなんだろうか。なぜだろうか。なぜおれはここにいるのか。わかるだろうか。それはここにいるという認識ができるからであろう。なぜ・・・。
疑問はつきない。
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実は、それは最高の企業秘密です・・・・、・・・・。
もし、何年か前ににこの言葉を聞いたら、すごいいろいろな研究開発をやっているのだな・・・と感じ入っただろう。
そして、今、この言葉は、何だこの会社は今時公開できないことをやっているのか・・・と非難されるか、信用を傷つけられてしまうだろう。それも一瞬のうちに、大衆の心にそんな気分が走るのを私は感じてしまう。
生き残れない。そんな切羽詰まった厳しいものだ。秘密のあんこの中味はなんなのか。いくらおいしいといっても何が入っているか分からずには評価されない。詳しい分析結果が独自の成分表示と異なっていたら、それは偽証でしかない。
隠し味という文化を誤って解釈してはいけないのだ。秘密はそれは機密であり、社会が正当に保護できなければならない。客観性のある第三者機関が認める秘密情報でなければならないということだ。ということは、それは社会制度上は秘密ではなく公開されているとことであり、社会が認めたということなのだ。
ひみつのあんこは、それ自体が偽証そのものであるということに気づくのが遅かったと嘆いてはいけない。今が一番のタイミングなのだ。いつもこの社会ではいつも一番最前線のときを刻んでいるのだ。
でも焦る必要はない。今はずっと続くのだから、正々堂々と十分に時間を使っって判断することだ。そう私は考えている。
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時の首相は、一番えらい。日本の中で政治家を目指すものの注目は、総理総裁になることではないだろうか。
どんな政治家もなれるものならなりたい。そう考えているだろう。与野党にかかわらず、常にそこを目指しているのだ。
つい最近、といっても5年ぐらい前だろうか。老人政治家の定年ということがあった。時の首相は小泉さんだった。やはり、何かあるのだろうか。年齢はほんとは関係ないと私は言いたいのだ。それは、もう10歳ぐらいでりっぱな学者になる天才もいる。40年、50年経ってもなんとなならないものもいる。そして、これからは老いてからやっと動き出す天才もでてくるのではないか。
つまり開花する時期が異常なんとかのせいで大幅におくれてきたのだと言えないだろうか。それは、尊敬される時の首相と、国民に蔑視される総理総裁とが、同居しているようなものではないだろうか。
つまりそこで大切なのは、日本古来のものでもあり、世界でも通用するものとして、男義とか騎士魂とか侍魂といわれるものではないか。要は、カリスマでもなんでもなく、覚悟があるかどうかで、ひとはついていくし、おさらばもするのだ。
まるで、そこに尊敬するものがあって、ときにまったくバカにしてしまうようなことがあるのだ。そんな最中にあって奮闘できるのは、やはりひとのそのひとの気概でしかないと私は考えている。
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かけひきの上手なひとはどんな人生を歩むのだろうか。すべてに気がきいていて、きっと素晴らしい人生がまっているのだろう。そう私は思った。
かけひきは、空気が読めないとだめだという。そして、勝敗があるのだという。だから勝ちにこだわってしまうようだ。
駆け引きっていうのは、好きでないという人もいる。
そんな人たちになぜって問うてみよう。どんな答えがまっているのか。なぜ好きでないのかは、創造性がないからだというのは私の持論である。まったく、なんの価値も見出さないからだ。一方が他方を葬り去るというのが駆け引きだろう。
それよりは、共通のものを探すのがいいのではないか。だれものが得するものや得することはないのか。相手が駆け引きをしようとするのは、公表された交渉術をしらないからだ。
そんなことをしても仕方がないことがどうしてわからないのか。たんなるゲームでルールを作るのを忘れているとしか私にはわからない。
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ワクチンを使う。予防する。今年もインフルエンザの季節になった。風邪なのかインフルエンザなのかわからない。
でも季節の変わり目は、いつも何か体調に変化がある。とくに寒くなる時期は、いわゆるカゼのシーズンとなる。今は電車通勤ではないので、満員電車のせいにはできない。
やはり手洗いとうがいが一番の防御方法だろう。
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なんでもできるヒトをスーパーマンという。それは創作上のものである。なんでもできるヒトは実はいないのだ。
すべての名誉と富を得た人間は何をするか。社会に貢献するだろう。人類の未来は現在のこの人間社会が担っているのだから、ここから改善していかなければならない。ここから改善していけば、この社会はきっとよくなるはずだ。
そして、逆もまた真なりである。今やらなければ、決してよくはならない。どんなことが、その根幹になるのだろうか。この世の中は、衣食住である。それが生活だ。生きていけないということは、経済的な理由もあるし、精神的なこともある。
社会と協調できないことも多いだろう。そんな時は阻害されてそこで生きる望みを奪われてしまうのだろうか。それでいいのだろうか。なぜ、こんな簡単なことができないのだろうか。
もっと、みんなが食べて、着て、住むところがもっと満たされるにはどうするのがいいのか。悪条件を改善する。そういうことだが、どうも何か70億とか、80億という人口の規模がこの地球上の資源を枯渇させるのではないかという不安があるらしい。
つまり、どうしても不公平が出てしまうということらしい。それなら、先取り競争が資源争奪戦になり戦争になってしまう。できることとできないことがある。一方、競争して資源を争うのに、資源が無駄に捨てられている。どうもおかしい。
食べ物に関して言えば、もっと有効活用すれば、十二分なはずだし、そういう風にやっていけばいいのだ。無駄を省くことで、資源は余裕がでるはずだ。おなじパイを奪い合うのではなく、平等に必要なところに分配すれば、そこに余裕が生まれる。それらをさらに分配していけるというものではないか。
どうして、その前に取り込んでよく利用せずに無駄にしてしまうのか。こういうことは、どこでもできるのではないだろうか。
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たのしいこと。それは、遠足の前の日とかだったように思う。何かを期待しているときが、私は楽しいと感じる。
すべてを忘れて、没頭しているときも楽しいはずだ。みんな忘れているから、その時は感じないが、それが楽しいことを表しているのだ。
大きな魚を捕まえたときは楽しいだろうと想う。ソフトボールでヒットを打ったときは楽しいと思う。それは、打てないときに次はと思うときにも楽しさがどっかにある。準備中というような気分だ。
楽しさを味わうには、準備が必要だ。そして、それを感じるこころが必要だ。そういう心を支える身体が必要だ。健やかさを感じるのは、たぶん楽しいことだとも想う。
探せば、結構楽しいことがあるものだ。些細なことでも、見方、考え方、心の持ち方で楽しさはそこかしこに見え隠れしているものだ。
楽しさは、自分自身の心とか身体についているものであり、からだじゅうで表現できるものだ。それが正体なのだ。私たちの存在そのものが、楽しさなのだ・・・。
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ヘルマン・エビんぐハウスの忘却曲線のことは、あまり知らない。でも、忘れるということはとても大事なことだ。
そこで、忘れる率というのは、初期にかなり早いということだ。一日で半分ぐらい、でも一ヶ月で2割ぐらいは覚えているということらしい。
では、どうするか。
繰り返すことや、他人に話したり、教えたりすることがいいらしい。
もっともなことだ。復習することが、予習するよりも効果的だという証拠ではないか。
実は、脳の働きというものを実感するのは、頭を使うことで確かにエネルギーを消費することだ。運動と同じか、それ以上のエネルギーを頭脳を使うひとは消費している。効率を良くするためには、やはり訓練が必要のようだ。
つまり、考える力を養うには、努力が必要だということだ。
忘却曲線は、そのつど興味のあることに対しては復活するということだろう。要は、そのメカニズムをつかみ取ることだ。
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自分のことは一番分かっている。そんなことを想うことは、あるだろうか。実は、そんなことを考えてみることは今までなかった。自分のことを知っているのは当たり前だ。
でも、違う。ほんとはわかっていない。灯台もと暗しというのはほんとだ。
近くて遠いものなのだ。ここに同居している自分と自分のこころが実はよくわからないということだろう。近い。でも遠い。適当な距離感を自分に対して取っておくことも大切だろう。それが実は、わかるまでに結構時間がかかった。
自分は自分であり、自分ではない。鳥獣戯画というものがある。あなたは自分を動物にたとえるとしたらなんだと思いますかなんていう質問があれば、どうする。よくわかりませんとか言ってしまうだろう。
ふだんはあまり意識していない自分というもの。そんな存在が近くて遠いものの代表のように私には見える。
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強弱と老若男女だけの世界なら、なんの面白みもないだろう。この組み合わせだけなら、到底大したことはできないだろう。
しかし、よく考えてみよう。強さの中には、ヒトの持っている優しさとか思いやりとかいうものもあるのだ。だから、弱さが救われているのだ。弱さは強さの裏返しでもある。または、同じ尺度の強弱という程度の問題でもある。老若というものも年齢という同じ尺度上にあるものだ。
だから、これらの要素を組み合わせれば、私たちはいろいろなところを常に共有できるということなのだ。
そこから、この社会の本当の姿があらわれてくるような気がする。強く明るい社会をどうやってつくるのか。
それは、弱くて暗い社会をどっかに追いやることではなく、同じ強く明るい社会の尺度の中の一部だと認めてやることではないかと私は考えている。