恋愛

おなじ気持をもつ

何かを伝える。何かを教える。何かを与える。

場面は、恋愛だったり、育児だったり、教育だったりする。そこにあるのは、だれかに何かをわたすことだ。

どうもうまくいかない。その人のためにと思っていることが逆効果だったりする。だれもが経験していることだろう。なぜなんだろうか。好きなひとにそのことを伝えるのはできる。けれども伝わらないことが多い。それは、認識がちがうからだ・・・。

自分勝手な思い込みが、いつも安易に相手に伝わることは少ない。同じ気持ちになっていないからだ。こんなことを聴いた。

そつたくどうじ。ひよこが中から殻を破ろうとしたときに、親鳥は外から殻をつついてたすけるのだそうだ。まだ、なかから要求していないのに、卵の殻をやぶったらそれは・・・、ちがう。

なるほどと思った。大器晩成なんていうのは、とかく気をつけてみていかないと育たないのだ・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ふじとざん

富士の山。日本で一番高い山。

日本の誇り。そんな感じのおやまだ。ずいぶん前にトライした。高山病で途中で引き返した。平地に戻るとなんでもない。船酔いのようなものだった。

一度頂上へ行ってみたい。そう想う。

天候、登山時期が制限される。難しい。そう簡単ではない。それで人だかりのするような混雑があるという。ご来光をみるために、ラッシュアワーは動けないぐらいだという。もう8月の半ばだ。今週、来週あたりで今年の時期は終了する。

のぼりたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

すききらいの感情とは

好き嫌いが激しいとよく言われた。

食べ物しかり、人間しかり、動物しかりである。もう駄々っ子の典型的な姿かもしれない。いやなものはどうしても嫌だという気持ちは譲れないというところだ。赤ん坊のころからそんな感じだったのだろうか。

うわべはすごく大人しいのに・・・。そのギャップは子供心を苦しめた。おれは悪い子なのにそんな風に見られていないのはなぜだろうか。わかっていないのだ。そうだ・・・。

そんな葛藤がいつもこころの中にあった。こどものころのこころの動きは活発だ。すぐに反応する。すぐにいやだとかすきだとか答えがでる。理由はとくにない。

こどものころに比べてそういう好き嫌いの感情が遠のいた。関係なくなってきた。反応が鈍くなったのだろうか。感度が単に悪くなったのか。どっちでもないだろう。

このこころは生まれたときからあまり機能的には変わっていない。変わったのは、そこにかかわる回路の漠然さだろう。本質はかわらない。すききらいももとに戻れば直観だ。でもそこに利害関係が見え隠れすると、でてくる表現態度ははっきりと変わってしまう。でも本心はちがう。

すききらいの感情とはコントロールできるものなのだ。右脳と左脳の使い分けだ。べつになんともない。そんな感情はときにジレンマを生みだすことも確かだ。

どうしても好きだ・・・、とか。どうしても嫌だ・・・、とか。そんなときはどうするのがいいのか。頭で考えても答えはない。何も考えないことだ。忘れることだ・・・。すききらいの感情なんていうのは、他人にとってはビルの屋上からふいに鉄骨がおちてくるようなものでしかないのを知っているだろうか。

そんなもんでしかない。好き嫌いの気持ちはそんなもんでしかない・・・。私はそう勝手に想っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自然なふるまい

自然をどんな時に感じるか。なにかがほかの何かをみつけたときではないか。

好みというのはなんだろうか。自然なことだろうと私は思う。自然なことは風だったり、波だったり、雨だったり、雪だったりする。そういうものが、台風やハリケーン、サイクロン、豪雨などとなる。

地球にやさしくする。それはいいことだといわれる。なぜだろう。地球は人類や生物に対して、ときに災害をもたらし、全滅に追いやる。それでもあらがっている。しかし、百億年という寿命のうちどのぐらいの期間が生育できる環境を維持できるのだろうか。数千年ではないのか。数億年だろうか。人類が数億年この地球で生活しているかもしれないし、恐竜から進化したか、熱水鉱床から生まれたものかもしれない。

しぜんなふるまいが、私たちはいいという印象をうける。しぜんのなかの生き物だから当たり前だ。いつか、なくなる命なのだし、それがしぜんなのだ。

しぜんなふるまいがいつか、しらないことをしらせてくれる。小さな知識の貯えがいつか、大きな答えをくれるかもしれない。しぜんにいろんなことを学ぼう。風と波はいい先生だと私は考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

こころとからだ

ひとは恋をする。年ごろになると、男性も女性もそれなりに変化する。

そして、変わるようだ。こころとからだがその変化の象徴になる。それは、こころが体の変化を感じるのか、からだが心の変化を察知するのかわからない。でも、それは両方があってはじめて恋になるものである。

こころとからだはやがて、ふたたび変わる。老いる。そして・・・。

無から無へと移り変わる過程で、何かが活動し、次の世代へと動かすのだろう。

私たちが深層心理といっているのは、たぶんこのDNAの伝達の中で行われているのではないか。もし類人猿から人間になったとか、その前は・・・、その前は・・・、ずっとさかのぼると、有機物になるのだという。タンパク質ができた時点にずっと蓄積されたものが、そこに詰まっているらしいというのは、真実味がある。

とすれば、ちょっと工夫すれば、古代からのすべての変化をそこから取り出せるのではないか。家系図というものはそんなことから残されているのかも・・・。天皇制とか、貴族制度とかあるのは、そこに何か隠された才能が伝えられているからかも・・・・。

なぞは深まる・・・。

こころとからだの神秘さは、こんなことを空想していると際限なく広がっていく・・・。小さなウィルスが人類滅亡計画を今画策しているのだとしたら、それに対抗するDNA情報もきっとあるのではないか。

でも、人間はその前に、目の前の現実の中で争うことの方が優先プログラムとして決められているようでもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ひとをすきになること

人を好きになるのはDNAの中に刻み込まれているからだと私は信じている。といいうことはそういう遺伝子がなければひとをすきになることはないということになる。

どうしてそういうことを許すのだろうか。基本的なひととしての要件がDNAになければどっかで途切れることになる。ひとの遺伝子ならそうらしくみんなに公平に備わるべきだ。不公平であって悪いものの一つだろう。

ひとりでは生きられないのが人というものなら、それはなくてはならないものだ。そんなDNAを欠いた条件で生まれさせて良いわけはない。だれでもひとをすきになる権利はある。

そういう基本てきなものを奪うことは許せないし、許されないことだ。そう思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

私の奥さん

結婚記念日。今日1月10日がそうである。

ここ10数年、何もしていないが、決して忘れているわけではない。というより、普通に過ごすのが記念日として尊重することにつながるのだと、私は思う。

普通に生きることが続けられれば一番いいし、できるだけ質素な生活の中で日々を感じていきたいと考えている。そんなところは、たぶん同じ感覚を共有しているのだろう。いろいろなことがあるが、人は自然に生きるのがいいと思う。そういうと何か冷徹な感じをあたえてしまうかもしれないが、決してそうではない。自分の心に素直になるということは、自然体で生活することである。でもなかなかそう頭の中で考えるようにはいかないものだ。

私が私の奥さんに会ったのはもうずいぶん前である。30数年経過している。私は自分の性格から一生結婚はしないと思っていた。すべて偶然かもしれないし、何かかかわりがあったのかもしれない。とにかく偏屈で自分勝手だから、他の人と協調して生きていくなんていうのは無理だと・・・。というよりも自由に縛られないで何か興味のあることに打ち込みたいと、なぜなら人生は一度きりだから・・・、そんな思いがあった。これは人見知りのより激しかった子どもの時から、変わらないものである。でも、今も一緒にいる。私の両親は「夫婦は空気のようなものだ、いい時も悪い時もある・・・」と言っていた。私もそう思う時もあるし、そしてほとんどはどうして一緒にいるのかさえ忘れている。

好き嫌いの激しいのが私の自己評価である。だから自分ではどんな人生を送るのかについてあまり展望は持たないことにしていた。自然体というほど枯れてはいないが、社会の中で生きるにはパートナーが大切だと思う。人として生きるには、人のDNAが持っているものを自然に受け入れていきていくのがいい。生来、開放的で社交的であれば、それでもいいし、そうでなくてもそれはそれでいい。

今、このタイトルでどう締めくくったらいいのかわからないでいる。私の奥さんは、そんな私をよく知っているようだ。自分勝手をどうコントロールするのかという課題を、私はずっと抱えてきた。その中で、私は私の奥さんに会ったことで何か生きるための客観的な基準、自分の自分勝手なものに加えて、これとは違うより信頼できる基準とでもいうのだろうか、そういう大切なものを手に入れたのだと感じている。

ある有名な歌に、「自分より先にいくな、一日でもいいから長く生きて、・・・。」という歌詞がある。そんな気持ちがする。この社会で、今の時代に生まれてきていなかったら、だれにも今ある出会いはない。だから、できるだけ自由によりおおらかな人生を一緒に送っていきたいと考えている。

そんな夫をもった私の奥さんは何を考えているのだろうか。でも限られた中でかなり自由な発想をするので面白い。

小学校の恩師がクラスの名前をふるさとの方言で「けげしこ学級」とつけた。そして、私たち子供に対して、「将来、結婚するなら、男女とも頭の良し悪しではなく、賢い人(けげしこ)を選びなさい。」と力説していたのを思い出した。私は、その時、心から「そうだ。そうなのだ。」と納得し、それを実行してきたようだ。それが私の奥さんである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)