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携帯・デジカメ

水中カメラ

ゴーグルについた水中カメラだった。

確かに手ぶれとかも自分の目で見ながらであれば、なくなるだろうし、第一シャッターチャンスが確実に性格になるだろう。

いろいろなものを考える人がいるものだ。

ダイバーにとって水中での記録は大切なことなのだ。

シンプルに使いこなす・・・

連絡手段は、電話。今は携帯端末とかとも言わない。

アイパッド。モバイル。

若い人は使いかたがうまい。いや必要なのだろう。

必要は発明の母とかいうが、もし頭にこんなことを思い描いた古代人がいただろうか。

必死になって、津波の脅威を山にいる村人に家に火をつけてしらせたこととか、のろしを上げて遠くの丘にいる味方に知らせたなんてことが・・・、あったことを忘れている。

そんなときに、のろしを上げた人は、想像しただろうか。地球上の軌道にいくつかの衛星を放っていつどもどこでもどこからでも通信ができるような絵を描いただろうか。頭で想像できただろうか・・・。

すべて、社会のインフラのひとつだ。膨大な投資があり、その維持のための多くの力が支えているのだ。そこで、産業は変化したようだ。

でも、便益を感じるのは人間である。技術ではなく、そこにはひとの感性がある。技術はそういう感性をも中に組み込んでいるようだ。下手な魂胆はすてよう。グローバルでないとこれからは生きていけない。日本だけのシンプルさはもう古い。価格が百倍もするシンプルはもう時代遅れだ。その変わり80億の人口があるマーケットだ。1億ではなく、そこにターゲットを絞る。

それがシンプルさを具現するもとだ。こだわるな。マーケットは、かならず技術を追いかけるものだ。シンプルさと快適さだ。その二つがこれからの世界を支配していくキーワードだ。

シンプルを使いこなそう。快適に・・・。

見守られている私たちの社会という誤解

昔、悪いことをすると天から神様がいつも見張っているとか、いいことをすれば神様は天からいつも見守っているとか、言われたことはないだろうか。

実は、それが規範を守るためのいい言葉だったのだ。

今、巷を歩くと、監視カメラが見ている。ビルの中でもそうだ。確かにプライバシーに関係する場所での監視カメラはないようだ。

これは、どうしたらいいのだろうか。いつもいいことをしたいと心がけているとしたら、普通の人は監視カメラに映るということで、何かコイツ格好つけやがってとか言われそうだ。なんら普段は意識しないでいても、ふといろいろな事件での映像が公共の場所にあることを報道で知らされるとそういう気持ちになる。

近年、事件とか犯罪でなくとも、ひとの評価ということが事業評価と同じように取りざたされるのだ。そういう場でも情報とは、普段の情報が使われるなら、そんな通常の場でいろいろな個人情報が取り扱われているのだろう。

見守られているのではなく、見張られているとい表現がぴったりのようだ。どうも私たちは一憶総犯罪予備軍ということのようだ。そんな社会をつくるというのはだれも賛成はしないはずだ。

それは運用の間違いだろう。誤解の誤解は正解なんていうつもりもない。信頼という二文字がどうしても必要なのだ。でなければ、この社会から何もかも消え去って、なんとか予備軍に陥ってしまうことは明白だ・・・。

ミクロの世界の映像化

小さなものを大きな画像で魅せる。それはとても興味のあることだ。

人形を配置して、それを見せるのではなく、映像にしてみせる。つまり、映画と同じようなものだ。海は池でそこに模型の船を浮かべて、実物のように映像化する。

ぬいぐるみの映画も同じだ。そしてCGによる映画も考え方は同類だ。実写でできないことを再現する技術は、ポスターとかにも応用されている。動く画像と、動かない写真、どちらも用途によって価値は変わる。どちらも訴える力を持っている。

ミクロの決死隊という映画をみたことがある。おもろかった。おもろーっだ。そんな魅力をどうやってひきだしたのか、顕微鏡をのぞくときの想像力ではないか。やはり、イメージがなければ発展はしない。

「バックアタックの瞬間」というタイトルの映画をつくったとして、サブタイトルは「・・・血流の変化、その時ヒトの体はどう変わる・・・」なんていうものだ。もし、そんな映画で科学的な解説を入れて制作したら、ほかの競技のときはどうだろうか。水泳なんか・・・、柔道なんか・・・、格闘技なんかでは血液が外へ傷口を通して流れだしたりする・・・、そしてそれを修復するチームの働きも描き出されるだろう・・・。

脳は臓器の一部。神経臓器という術語があるかどうか不明だが、どこで神経情報をどんな風に処理していて、最後にそういう情報が断ち切られる状況をミクロの世界で映像化できるのだろうか。

自分の体の中に、自分の細胞で作った防疫隊を派遣するのも面白い。そこで指揮をとれるのか。がん細胞をやっつけるための特別チーム編成なんかもあるだろう。

こう考えると、ミクロの世界の映像化は大きなマーケットを私たちの好奇心と興味と研究心の中に変化を誘発してくれそうだ。そうしたら、引きこもりとか、親とのコミュニケーション不足とか過剰とかいう問題も起こらないかもしれない。いろんな妄想がこの私の頭の中を駆け巡っているので・・・、この辺で・・・。

視点をかえるとは

いつも同じ風景を同じ心でみている。時には古い感度の悪いカメラでのぞいてみるのもいいかもしれないと、ふと思った。

つまらない。そんな人生はいやだ。でも、生活はすべてに優先する。

七十億の人類が、十億人が飢え苦しんでいる。社会の中で生活している私たち人間は、そこでしか生きられない。もちろん他の国の社会に行くことは可能である。でもいやだ。どんなに裕福な暮らしができるとしてもいやだ。同一性のある自分の生まれたこの国で死にたい。

それは畳の上で死ねるかは、その人の行い次第だと、母がいっていた。死の世界について話を聞いたこともある。三途の川があるという。天国と地獄があるという。しんでから、審判が下る。これは、この世の中をどう生きるかという大問題だ。

でも、食べ物がない。子どもにお乳を飲ませられない。働かないと生きていけない。日本は平和だ。あんなに勇猛果敢で怖い日本人はどこへ消えたのか。もう明治の生まれの人はあまりいない。視点を変えよう。

視点を変えてみよう。それは、世界戦略だという。米国の世界制覇戦略の継続戦術もある。中国の世界制覇戦略。欧州の世界制覇戦略。日本の米国従属戦術。そんな中で日本は「俺をバカにするな」と叫んでいるようだ。世界戦略は、日本の戦略はなんなのだ。米国従属戦術を超える国家戦略はあるのか。日本国憲法が日本のこれから生きるバイブルだった。それは、戦略をつくりあげる責任を放棄した結果だ。平和はそんな土台のあやふやなものだったのだ。

視点を変えようではないか。次の1年。次の5年。そして、その次の10年がある。そのぐらいはまだ見れそうだ。どんな社会になるのか。その前に、グローバル化という黒船に脅されて本体がなくなるかもしれない。日本という国が昔・・・、そんな物語が米国の田舎町でとかブラジルのどっかで日本人の末裔たちが文化を守っていることになるかもしれない。

視点を変えよう。これから、何をすべきかを真剣に考えよう。

視点を変えるとは、自分の生き方をしっかりと見つけて責任を果たすことだと私は考えている。

先端を使いこなす

どこまでも使いたいと思わなければその価値もわからない。だから一大決心をして、先端を使いこなしたいと一念発起してみたが、どうも進まない。

なぜ。

なぜ。なぜ。答えは、やはり本当にそう思っていないからだ。どうして、違う手段があるからだ。もっと使いやすい手段が今は気に入っているからだ。

でも、次の時代はもうパソコンではない。やはり携帯であり、デジカメだ。もうその機能は一緒になっている。

先端を使いこなすには、もっともっと現実のニーズというものを自分の心の中に見つけ出していかなければならない。そんなことを思った。

新型モデル

新型はなんとなくうれしい。そして長く使えるのがいいのはいつも同じだ。愛着がある。

いいものは機能的だと思う。それが気に入る。そこから使う人の姿勢が見えてくる。どっちを選ぶのか。使いやすいものを選ぶ。機能的なものを選ぶ。

誰もが選択基準をもっている。みんなの意見も参考になる。

新型モデルを出す力がこの業界にまだ残っているようだ。それでは期待しておこう。それも楽しい。時々かえるのがいいと私は思う。

みんな一緒スタイル

どこでもドア。

そんな世界がすぐそこにあるような気がする。

こうしたいと思えばすべてが実現するような気がする。でもそんなに便利になってどうするのだろうか。すごく便利ととても不便というのは、シチュエーションによって変わる。とても一筋縄でくくれるものではない。またそうしないほうがいいと私は思う。

みんな一緒。

そんな世界があれば、私はいやだと叫ぶだろう。同じところと違うところ、同じでもそこに至るプロセスの違いも重要だと思う。そこからまたいろいろな所へ発展するためには、一番ベースとなる考え方が大切なのだ。薄っぺらでもある段階までは同じものができる。いくら重厚でも薄っぺらかも知れない。それは本質をどうつかんでいるかによって変わってくるのだ。

みんな一緒のスタイルをまねするのも一つの訓練としては面白いかもしれない。携帯・デジカメはそんなものかもしれない。使い方とどう使いたいかで変わるものがある。若い人の使い方はなくてはならないものという気がする。私はまだ重要性を無視しているのだが、そろそろ降参しなければならない。そんなところまで発展してきている。

これからどういう方向へ進めたらいいのだろうか。もちろんあの世までもっていくことを望んでもそれはこの世との交信はできないだろう・・・。そんなことを考えると現実に達成してしまう人も出てくるかもしれない。死後にお父さん葬式はどんなスタイルでしますかなんて問い合わせが子供たちからあったら、・・・。どうこたえるのだろう。

ちょっとまってて。今、帰るから・・・。そう言っているだろう。

ゆびきたす

事務所、家庭、外出先、出張。私たちはいろいろな場所を飛び歩いている。

そこで、どこでもITという発想が大事だと私は思う。

パソコン、携帯、電子手帳、電子辞書、デジカメ(ビデオ)、オーディオ、計算機、メモ手帳、スケジュール表などがカバンに詰まることになる。

これらを一つにしないまでも、必要な情報を必要な時にという基本の基本がとても面倒になる。ユビキタスに相当する日本語はなんだろう。いつでもどこでも・・・(なんとか)だろうか。それともそのままひらがなで「ゆびきたす」、または「指喜多巣」とでもした方がいいのだろうか。

携帯と超小型PCがこの傾向を示しているのだろうか。私には、もっと違う「不携帯」という方法が待っているような気がする。

私は、とても面倒がりなので、そういう安易なことを考えるのだろうと奥さんに言われそうだ。でもその通りだから、とくに反論はしない。

でも、発想はそういうところから出てくるとだけ言っておく。

新しい知識のもと

目に見えること。とても大事だ。情報の力が数倍になる。通常、いろいろと新聞を読んだりする。情報を手にすることよりも、大人としての常識として新聞を読んだいないのはダメ人間の象徴のようだ。でもそうかな・・・。新聞も日経を読まないとだめではないのか。朝日では左よりで読売はどうなのだ・・・。毎日はどうも左下がりで・・・。

そんなことはまったく関係ない。私は新聞は読まない。そろばんのおさらいを昔むかしにやめたのは面倒くさいからなのだが、その時理由を考えた。もうすぐ計算機が流行る。だからそろばんを習う必要はない。代替がそこまできている。そういうことを平気で考えていた。現在を馬鹿にしていたのではない。自分で努力する価値のないのはいやなだけだ。

いや面倒なだけだ。それでもやらなけらばならないことはやっている。新たな知識は何か刺激をくれるから好きだ。それは、ある時までなんの意味もないような格好をしている。でもいちど興味を持つとそれは数倍に膨れ上がるようだ。まるで何か別モノのようになる。

味の素ではない。あらたな知識のもとである。それはどうやって手に入れるのだろうか。種をまくのだ。肥料をやるのだ。土壌をしっかりと作るのだ。そして種をまくのだ。それから見守ることだ。だめなら違う方法を試そう。そこから知見が生まれる。それは次の新たなタネになる。失敗していいのだ。成功は失敗のもとであり、失敗は成功へのステップである。成功するまでじっと待つことだ。それが秘訣だ。

新たな知識はどこから手に入れようか。10冊、20冊、100冊、200冊の本を読む。それはテーマが統一されていることがたった一つの条件だ。それでいいのだという人がいる。私はまだ試してはいない。フォトリーディングのまねごとをしている。それは大切だ。いつの間にかそれが自分のスタイルになっている。知識のもとは自分で仕入れよう。

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