文化・芸術

ライフスタイルについて

ほとんど世の中のことを知らない。仕事一筋なんていうのは、ほぼ99%に達する。生活することと仕事をすることは、同じ意味なのだ。

そして一番大事なことを忘れてしまう。仕事が生活になる。

ほんとは生活が仕事なのだ。そんな常識がいつのまにかなくなる。肩書きがついて、そこで生活意識がさらになくなる。会社、企業、組織、そういう法人の操り人形になってしまう。

お金を食うのが法人だ。私たちは自然人だ。ご飯を食べる自然人がお金を食べる法人に奉仕しているだけのロボットになっている。それも知能をもたない旧型ロボットだ。それは江戸時代の操り人形のようなものだ。

動力源もぜんまい程度しかない。そのつど、おかねという食べ物をお供えするために、ねじをまかれて動くだけなのだ。それ以上、動く必要はない。

だから、生活が忘れられる。自然人なのに、食べ物をしらない。世間もしらない。そんな社会がずっと続いてきたのだ。

ほんらいヒトは晴耕雨読がいいと私も想う。それは難しい・・・。なぜ、小人閑居して不善をなすからだ。自然の中で、生きるという中味をしらないのは、私も同じだ。

どこでそういう基本を知るのだろうか。それは、挫折することから始まるのではないだろうか。躓くと、今まで見ていなかったモノや、痛みや、景色が見える。それまで、バカにしていた多くのものがほんとは大切な日々の生活の一部だったことを教えてくれるのだ。

ライフスタイル。それは、何か格好よさという風情が漂うがちがうものだ。

自然さ。そういうものがいい。私は、晴耕雨読とはいかないが、とにかく自然に、より自由に、よりおおらかに生きたいと思う。

結構、難しい。自然に生きるって、どんなことか。よくわからないが、なりゆきで生きるようなことを前もって自分のスタイルにすることなんかではない。そこに、自分の考える自然さがかならずある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

年末年始のこと

とにかく新しくなる。今年が終わり来年が今年になるのだ。

この時期は神棚に手を合わせる。近くの神社が認識される時期だ。神様がいるのだ。

子供たちの行事も伝統がある。いろいろある。

昔の子供たちは、どんな想いを抱いたのか。年の終わりと年の初めに何を想ったのだろうか。きっと、すばらしいものだったろう。

夢であり、希望であり、大人への一歩という胸の高鳴りを感じるときではなかっただろうか。とにかくこの時期にひとは数え年でひとつ年を重ねるのだ。一歩、こどもはおとなにちかづくのだ。

そんなあたりまえのことを想い、雪国のこたつの中はあったかい。首まですっぽりと入って猫と場所をとりあう。円い形のモチを食べて過ごすのだ。

外は吹雪だ。さあ来年は頑張るぞ。

除夜の鐘。さあ今年はきっといろんなことを・・・・。眠ってしまう・・・。朝起きて、雑煮を食べる・・・。もう一日目の夜は終わったようだ。元旦の日の出をみるには近くの山をこえてからなのでかなり遅い。もう明るく輝くころにおひさまを拝むのだ。

今日ぐらいは家にいなさい・・・、とか言われても、外へ飛び出す。長靴でスキーだ。近くの崖にみんなのスキー広場がある。ジャンプもある。手はあかぎれ。耳はしもやけ。足も凍える。

でもきゃあきゃあ言って騒いでいると、楽しいのだ。去年はあの坂をスキーで降りれなかったのが今年はできそうだなんていうときは、一歩おとなに近づく自分の姿を垣間見ることができる。

きっとはやく大人になって働いて・・・・、きっと・・・・。そんなことを想っていた。早く大人になりたかった年末と年始のときだった。

こどものころを想うと懐かしいきがする。正月の思い出だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本人の誇りとは・・・

ひととしての誇りがある。じぶんとしての誇りがある。そして日本人としての誇りがある。

わたしはだれって想うときに、日本人だといえるだろうか。自信をもっていえるのか。

疑問だ。

たまたま韓国人でしょうとか、中国人でしょうとか、東南アジアのひとですね・・・、なんて言われてしまったら、どうする。

誇りをもって日本人だといえるか。

怒りをもっていや俺は日本だというのも大人げない話だ。

たしかに人種的にはあまり変わらない。そして大きな意味で文化も漢文という意味では同じだ。でもどこか違う。

今、こだわりを捨てるひとがおおい。にほんじんという範疇にいる必要はない。それよりもグローバル化だというひともいる。

そこで、わたしはグローバル化だからこそ、日本人としての誇りを今私たちは持つべきだと考えているのだ。

日本人の誇りとは「おもいやり」であると私は想う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

文化とひとの脳みそのこと

どんなにどんなに老化しても、記憶が残っているという。

刺激することで、想いだすという。誕生日の紙芝居という介護士さんのアイデアが効果を発揮しているという。

これからは、私たちはみんながそういうひとの行動パターンを研究して呼び覚ましていくことが大事ではないか。

すぐれた頭脳の老化パターン。普通の脳のパターン。いかにも低そうな脳の老化パターン。意外と意外かも・・・。

この人生の目標をいかに元気に老化するかということにおいてはどうだろうか。そんな人たちがいっぱいいるような気がする。

文化はヒトの脳を刺激するだろう。クラシックは脳を刺激する。これは確かだ。脳みその研究とは心理額ではない。

これから、そのモデルとしていろいろな人たちのパターンを研究していくことが大切になると私は考えている。

だから、どんな経験をしている人でも、そういう人生を代表できる。特異な生き方をしているひと、虐待されているひと、そうでない人、普通のつまらない人、どんなひとでもそれぞれに違うだろう。

そこから出るデータは、これから来る若い人への道しるべとなる。だから、どんどん新たなことに挑戦していけ。それはいいことだけでない。当然だ。みんながしないようなことをどうしてやるのか。信じられないようなことをどうしてやっているのか。

みんな貴重な経験になる。ひとはみんな宝ものだと私は考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

質素な生活が一番だ

贅沢な生活に憧れる。そんな時もある。優雅な人生を歩みたい。そんなことを想ったこともある。

そして、今。質素な生活に憧れる。

ぐうたらな私にはどっちもできない。

贅沢と質素。ほんとは同じものではないか。

そんな疑問が湧く。質素な生活を望むヒトは贅沢な暮しをしているだろうか。決してそうではない。貧困にあえいでいる人たちは、みな質素な最低限の食生活を望んでおり、それは憧れのような希望の光で一生現実にはならないと考えているだろう。

つまり、質素な生活が一番だと想う贅沢さというものに、私は今打ちのめされている。よくもそんなことが言えるものだと、お袋さんに叱られているような感じだ。

でも、私はいわゆる質素な生活を私自身の考え方として大事だと肝に銘じていることを付け加えておくことにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ノーベル賞授賞式の様子

胸躍るのではないだろうか。ノーベル賞を身近なひとがもらったならばである。

賞をもらう。めったにないことである。ひとに正式に褒められる。社会に感謝される。そしてそれにこたえることが光栄なことだと自分で率直に感じる。

受賞の様子は、いつも欧州式で日本人にはなにかこそばゆいものではないのか。ダンス、晩餐会などが続いて、疲れるだろう。研究者はたいていは遊び人ではないだろうから、場になれないという心配をするかもしれないが、彼らは科学で遊んでいるのだから、そういうものは巷とは違うかもしれない。

じっと待つのみ。過ぎ去るのを客観的に見ている。そんな感覚ではないだろうか。

なにか厳かな感じである。たしかにそこで最高の栄誉を手にしたのだ。もうそれ以上はない。そういうものだろう。

ひととして科学に携わったなら、だれもが想うのは、ノーベル賞だろう。受賞の様子をみて多くの老若男女が胸をときめかせたのではないだろうか。

おれは、私はもう・・・。みんなそんなことを想うだろう。そうではない。世の中の総合力がノーベル賞に値する成果を生むのだということを忘れないでおこう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

科学者の脳みそ

みんなと変わらないと誰もが思うだろう。でも、実は限られた人たちがそこで成功を収めている。

脇目を振らずにあるいている人たちだ。なにかおかしなことをやっているようなこととしかわからないかもしれない。でも、かれらは成功を望んだのか。何かを獲得しようとして頑張ったのか。

脳みそは違うだろう。そこに集中して、それこそ相撲取りの肉体の筋肉のようなものが頭の細胞に蓄積されるのではないか。つまり、鍛錬された脳みそがあるのだ。そこで横綱になるには運がいる。

あるひとつの強さだけではひとは頂点には立てない。その強さの大きなものを支えるものがなければだめだ。それは相撲取りの肉体と精神だろう。科学者の脳みそと精神だろう。

アンビション。

それがなければ何もならない。他人の行動をけなすような言動はそれこそが自分にむけられたものだろう。

サッカー選手が水泳選手に、水泳ってつまらないでしょうといったら、それは挑戦だろう。個人攻撃だろう。なんの目的があるのか。なんらつまらないことでしかない。サッカーがつまらないと言っているようなものだ。

それはそれでいい。

科学者の脳みそはきっと巨大だろうと思ったのは昔のことだ。大小には関係ない。見かけが大きくともだめなものもある。小粒の山椒である。

鍛えた脳みそは、母親の胎内から始まっているのだろう。子供は、母親の気持ちを汲み取り無事に産み落としてくれるように祈っているだろう。みんな本当はそういう記憶を持っているのではないか。胎内にいるときにもうひととしての生き方は始まっているのだからきっと記憶もあるはずだ。

胎内で教育もできるはずだ。

そのうち、小学生の知識をもった赤ちゃんが生まれてくるかもしれない。幼児教育の革命であるとはやし立てることはない。そんなことは、ある程度の長さのある人生では関係のないことなのだ。

人とどう接触するか。それが大事なのだ。コミュニケーションをつかさどるのが実は脳みそだ。

科学者は脳みそを「鍛えている」。考えることで栄養を補給していくという訓練をいつもやっているのだ。でも、血液は血管を通して流れる。だから身体というインフラが大事なのだ。

科学者のインフラ整備は、やは早くから行われている。脳みそを育てるにはノウハウが必要なのだ。そんなことを真剣にこれからは、考えていく必要がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ひとの感性に訴えること・・・

文化とか伝統とはなんだろうか。その土地の醸し出す雰囲気であり、自然そのものなのだろうか。

自然がそこにある。そして、それらを写し取るのは何か。私たちの感性でしかない。受けとめたものを再びこの社会で表現していくことは、私たちのつとめかもしれない。

そのほかにどんなことがあるのか。私たちの五感といわれるもの目、耳、鼻、舌、皮ふであろうか。これらを通して、いろいろなイメージをつくりあげることを私たちの先祖はずっとやってきたのだ。

ひとの感性に訴えることができるのは、己がそこにあるイメージを抱くことができるからだ。何も感じないという無の世界も実は多くのことを感じることで、無というものを悟るのだ。

でも、そこにはとても言葉では言いあらわせないような感覚もある。ひとのこころを動かすにはそこにある文化や伝統をしることから始めるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本語を大切にしよう

日本国内では、比較的外国語での会話はすくないようだ。とくに日本人同士では基本的に使用しないことが、暗黙の了解となっている。

そして、日本語での会話というのは、あまりないようにも思える。議論とか討論とかいうときに、どんな日本語を使うのかといえば、ありきたりのことしか言わないのが普通だ。

だから、何も面白くはない。

そんな面白くないところに少し薬味を利かせたいと思っても、そうは問屋がおろさないのだ。そして、放言とか失言とされてしまう。世の中の反響に驚いてそこで抵抗したり、解説したりする。そこで大衆が期待するのはさらなる失態でしかない。あるひとはそこでけつをまくることになったり、いいようにあしらわれてしまう。

ひとつのトラップなんだということを理解しようにも、ほとんどの日本人は良心的な発想にあるので、思いもよらない反応ということの洗礼を浴びることになる。世間は冷たくてあったかいものだ。ひとはみなやさしくていい心をもっているのだ。どちらも正しいが、いつまでもつきあってくれるのは自分だけである。

生きていることは楽しい。ましてや母国語があり、なんら日常生活に不自由はない。でも、そこで失言とかで攻撃されたら、とてもいたたまれない気がする。

しまった・・・。だれもが思うだろう。

でも母国語なので、そこに文法とか話術とかいうものが足りないという理由ではなさそうだが、ほんとうは日本語をあまりにも乱暴に扱ってきたために、言葉からの反撃にあってしまうのかもしれない。

もっと、日本語というもの本質、日本のこころを表現するもの、日本人としての誇りを表現するものとして、大切にしていかなければならないと、私は昨今の有名人、政治家の発言を聴いていて思った。

日本語は、私たちの生きるあかしでもあると私は考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

依存することの大切さ

時には、答えのないテーマにぶつかる。そこから逃れられない状況になる。どうしようもないというのは、自分では解決できないということである。

でも、自分でやるのだと、つい自分を追いつめる。そして、何もできない悔しさが大きくなる。みじめになる。それが、当然のことなのだ。

私たちにできないことはいっぱいある。すべてが思い通りにできたとしても、最後はそうはならないことがある。セレブの生活はもしできてもそれは永遠ではない。人生の終わりはある。だから自滅してしまうのだろうか。まだまだ生きる力があるのに、不安がその命を短くしてしまう。

あまりに自分ですべてをやらないことが大切なのだ。時には、他人に社会に依存していいのだ。プロに相談することもできる。知識のないところにアイデアや解決策は出てこない。ほんとうは簡単なことなのだ。

お互いに依存しあう関係は、つまり協力ということだ。ひとつの力が倍以上に膨れ上がることもある。要は、認識を同じにして依存するとの大切さを知ることであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お笑いコンビ

一人でもいいのにどうしてコンビを組むのだろうか。そういう漫才という下地があるからだろうか。ぼけとつっこみが巧みな技をさらに効果的に演出するからだろうか。

それは、一組というものだろう。ある芸を見せるのに、複数でやる方が確かに厚みがあると言えそうだ。落語はまた違うのはなぜだろうか。複数の人間の絡みをひとりで演出する。まあ道具もつかう。扇子一丁であるが・・・。

いや手ぬぐいとかもあったか・・・。

お笑いコンビのことなのだが、なんらかの理由で相棒がいなくなることも多いようだ。そんなとき、残されたというか残った一人がどんな風になるかといえば、かなり活躍しているのだ。

それぞれの才能がコンビでいるときには封印されていたといえそうだ。結局は個々の能力でもって活動していくのだろう。

同じように、一人だけが売れっ子になり、他方がおいてけぼりになる場合がある。でもコンビを解消していなければ、その売れない方の一人として芸能活動をしていくしかない。まあそれでも、ほんとうに売れない芸人とはステータスが違うようでもある。

お笑いコンビは、多様であるようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

私は中国人ではない・・・の意味するもの

ノーベル化学賞の下村脩さん。米国に住んでいるが、日本国籍であり日本人である。その下村さんと同時に化学賞を受賞したチェンさんは、米国で生まれて、米国で教育を受けたと人だという。だから、米国籍の米国人でしかない。

インタビューで、中国の若い人に対して、コメントをといわれて、「私は中国人ではない・・・」といったという。確かにそうだろう。日本人でも同じだ。米国に長らく住んだだけで、母国をけなす若者もいる。中国系の米国人なのだから、人種面での才能とかいうのなら、大いにこれから続く者たちの励みになるだろうし、「そんなの関係ない・・・」という世界かもしれない。

雲上人ではなく、米国では科学者がそういう成果を上げるのは当然のことなのかもしれない。それは人種とか、国家とかいうものとはあまり関係づけても意味がないのではないか。

私もそう想う。富国強兵。科学立国という政策を続けてきた成果だという人も日本の場合はいっぱいいる。でもそんなことが必要なのだろうか。ここにその才能を発揮することができれば、あるひとにとってのノーベル賞はもっとちがう形のものかも知れないだろう。

国をあげて喜ぶことには反対しないし大いにいい方向へと励みしてほしいともいっていた。そういうものだと私も思う。

日本人の先生方も同様に戸惑っているような感じがする。もっと違うところに、教育の基本があるのではないか。それは、自分にあったことで、力を発揮することであり、それぞれの努力による成果はみなノーベル賞ものであると、私は考えている。

私は日本人ではない・・・、中国人ではない・・・。人間だ・・・、そう言っているのではないか。だから、人間であるあなたにも可能性はあるのだ・・・と言っているのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

世の中の仕組みとは何か

ノーベル賞で日本国内は沸いているように思われる。

久し振りに日本人という感覚を楽しんだのではないか。そして、そういうことから新たなことを想っているのではないだろうか。

不思議なことは、いっぱいある。医学がいくら進んでも、そこでいい医師に巡り合うかどうかというめぐりあわせもある。終わる命が生きることで、社会は確かに変わっていく気がする。少なくとも絶望という二文字が希望に変わる可能性が広がると私は思う。

それでも、すべてがそうはならない。

希望を託すものに「iPS細胞」がある。京大の山中伸哉教授らの研究によって、どうこの世の中が変わるのか。そんな素朴な疑問が満たされるとどう変わるのだろうか。

望んだものをそのiPS細胞からどうやってつくるのか。そして、たとえば身体のどの部分、部位、または部品までできるのか。病気の治療や、怪我の治療にどう影響を与えるのか。医学の進歩とどうかかわりあうのか。

いろいろある。

ニュートンの10月号(先月)で「iPS細胞で足1一本をまるごとつくれる?」という記事があった。私ははっとした。単に技術の進歩としか見ていなかったし、現実にどんな身近な成果が得られるのかについては、ほとんど考えもしなかった。

それでは、だめだ。

基礎的な学問の成果は、今ある問題と照らし合わせることで、その威力を発揮していくのだ。お坊さんが、村村の往来の利便を図るために、岬や山にトンネルを掘ったという話はよくあるし、そういうトンネルがいまも残っている。当時、お坊さんは修行で何を学んだのだろうか。人々に奉仕することを学んだのだと私は考えている。

そして、問題を解決するために、奉仕をしたのだ。それは、問題を探していくというよりも、村びとの抱えている問題は何か、貧困だっただろう。幼い娘を手放すような田舎で、なんとか生計を立てるには、往来を改善して物の売買を促進すると、考えれば、そこに立ちふさがるものに穴をあけることがその解決策となったのだ。

だから、庶民がこの世の中の主役であり、そこでいろいろな基礎研究を行う人たちへ現実の問題をしっかりと伝えるひつようがあると私は思う。

それは、ひいてはビッグバンとか宇宙の起源とかいう大きすぎるスペースと素粒子論という世界との狭間を身近なものとして気付かせてくれるのだ。人間がそういう空間にいるということは、なにか大きな意味があるのではないか・・・。

この世の中をどうにかしていくために、この地球に人間をはぐくんでいるのではないか。その問題はなにか・・・。宇宙が100億歳で滅びるときのために存在しているわけではないだろう。

それとも、人間が争いをやめられないという自然の法則を宇宙論と素粒子論から証明しようというのだろうか。今の政治の在り方が大きく問われそうなところに私たちはいるようだ。

何のための政治なのか・・・。もう一度考える必要がありそうだ・・・。根本から・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

緒方拳というひと

あったことはもちろんない。テレビで見ていてファンなだけである。

役者と言ったらいいのか・・・。良くわからないが演劇派であると思うのは私だけだろうか。そこに魂を入れている。そこで生きた証が映像に残っている・・・。そんな大げさなというようなことがを目指していたと私には思えるのだ・・・。

だから、多くの人たちがファンでその死を驚きで表現している。まだ、今の時代には早すぎるのだ。あそこまで生きるなら、もっとできる・・・。そんなことが言えそうだ。

りっぱな役者を育てており、それが子供たちだという。二人の子供たちは立派な独り立ちの役者さんだ。おやじよりもいい演技をしているとも私は思ったことがある。

そんなりっぱな子供たちが、すごいえらい男だったという。もう涙がでて止まらない・・・。

緒方拳という役者は最後まで、自分のスケジュールを管理して逝ったのかもしれない。ご冥福を祈る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アサショウリュウする・・・

どうも最近、アサショウリュウするのがはやっているらしい。なんとも平凡な生活の中で、そんなことをしてとばっちりはこないのかと、心配になる。

そんなことを気にすること自体が弱みを見せることになるのかもしれない。結果としてくみしやすい安易なやつとみられていろいろと悪さを試されるのだろう。そこがいやだなと感じる。

正々堂々としていない。いじいじといびるらしい。それで相手にすれば自分の身の安全を図っているのだろう。すぐにこわもてにでると、出鼻をくじかれることもある。だから、冗談といっときひけるように仕向けるのだろう。

そんなことを想うと、どうも自分勝手というのも大変だとは思う。あの激しい取り組みは一時土俵を去ったら、その数ヶ月後にけいこ不足がでてくる。それは故障とかいうものだ。

そこに甘えがあるのだ。どんどん横綱という名前で強くなるという。上位にいけばいくほど強くなる。それが相撲だと私は考えている。

こんなことばはどっかへとんでいけ・・・といいたい。もっと正しい日本語を使おうではないか。彼はたんにいじけているだけだ。勝手にしていることが、本来の目的である強い横綱になることに反している。それが、何よりの証拠だ。

アサショウリュウするとは、力では立ち向かえないので、いじけてみせることだと私は考えている。決して、格好のいい自分勝手ではない。甘えにどっぷりつかったあんこもちのようなものだろう。おいしそうには見えない。ただかわいそうなだけだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

こどもたちの役割り

こどもたちが元気に遊びまわっていること。地域に子供たちの声が飛び交っていること。子どもたちの目が輝いているいること。

子供に役割は本当はないのだが、社会は確実にその存在を必要としている。

次代につなぐには、命をつないでいくしかない。

伝統文化を次の世代に受け継いでもらうとか、次の世代が受け継ぐのは、この社会の鉄則だ。

こどもたちは、元気に遊び、そして大人になるのがその一番大切な役割だ。そのために、社会がこどもたちを保護していかなければならないのだ。それは基本だ。そして子供たちがげんきな姿をずっとこの社会に表していくには、女性たちの健康が不可欠なのだ。

こどもは、これからの社会のたからものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本の文化としての相撲について

私は子供のころ、ふんどしをするのが嫌で嘘をついた。

校内相撲大会があったのだ。選手に選ばれて喜んでいたら、まわしをしめるのだという。ふんどしをしめるなんて、おれにはできない。そんな恥ずかしい姿にはなれない。とっさにそう想った。

半ズボンをはいた子供は格好悪い。そうふだんから思っていた私は、ふんどしなんてとんでもないことだ。熱があると嘘をついて、教室で一人じっと終わるのを待っていた。頭の中は、いやなものはいやだ・・・、それだけである。頑固なのだ。こどもでもかたくなに自分のイメージを大事にしているからだ。

相撲は嫌いではないが、ふんどしがだめなのだ。

なぜ自分がそう考えたのか・・・。今想うには、格好悪さではなかったのか・・・。それも許せないというぐらいに激しい格好悪さだったのだろう。

相撲は日本の伝統文化であり、そのマワシも一つの大事な文化である。ひとつは大丈夫でもその一方はだめというのは、本当はおかしい。お坊さんの袈裟がいやだというようなものか、それとも、仏教は好きだが、丸坊主はいやだというようなものかもしれない。

ひとつのセンスだろうか。生きるにはそれぞれの個性があり、すべてが理由づけできるものではないのだ。

相撲を日本の大切な文化として継承していくには、どうしたらいいのか。この目でプロの大相撲を一度みておく必要がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

想像の世界

現実の世界を知らなければ、虚偽の想像の世界をつくりあげることはできないだろうか。

芸術家は、この世の中を隅々まで勉強してみて歩くことが必要だといわれる。いい芝居をつくるには肥やしをあげなければいけないという。いいこともそうでないことも、この世にあることはすべて体験することだと・・・。

とすると、社会常識とか、ヒトとしての生き方なんていうのは、どういう位置づけになってしまうのだろうか。

そんなことは考慮に値しないといっているようだ。何かを創ることは、イメージを想うことだ。私たちの身体の神経系に刺激を与えることは、それは新しい体験でもある。でもそれは安易なものだ。

想像の世界へいくには、それなりに訓練が必要だ。そしてたぶん生まれつきの才能が一番なのだろう。現実には役に立たないことや、実現できないことを、頭に思い描くことは、楽しいことである。

そして、それがいつか実現するという前提にたてば、ちょっと時空間を先にいっているだけのことなのだ。

もし、宇宙に旅立つとしたら・・・。

想像してみようではないか・・・。もうこの地球には二度と帰ってこない旅立ちだとすれば、この地に何か足跡を残したいとは思わないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

秋はさんまの想い

頭にさんまの図柄が浮かんだ。今年は豊漁だという。たしかに100円しないところもある。

漁業は燃油が高騰していて操業もままならないのに、こういう低価格でいいのだろうかと、心配してしまう。そして、季節の香りを届けてくれる漁業者に感謝している。

秋はさんま。そんなことを想い、いつ食べれるかな、今晩がいいな・・・・、とかイメージ。とすると女房がさんまをさばいている。これからオーブンで焼きにかかるようだ。なかなかやるじゃないかと、感心・・・。

おいしい。最近のさんまは身離れがいい。食べやすい。たぶん新鮮さが、むかしとは違うのだろう。学生寮のサンマは冷凍もので、数年前のまぐろの餌のような痩せたものだった。それでも愚痴をこぼさずに食べた。

秋はさんまがおいしい・・・。これはいつまでも頭にこびりついているだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本の漁業文化

日本の伝統的な産業。その一つは、四方を海に囲まれた漁業だ。

つい最近まで、過疎地の典型として、社会基盤の整備も遅れていた漁村地域は、日本の漁業という大事な伝統文化を継承している。海は自然そのものであり、恵みを与えてくれる代わりに、災害をももたらす畏れ多い存在である。

静穏な時はすごくやさしく、荒海は怒涛の中で暴れ狂うのだ。魚は海にいる。近くの漁場も遠くの海もいろんな魚を求めて、それにあう最低の設備で経費を抑えて挑んできたのだ。だから、荒海がすこし設備を上回れば海上では小さな木の葉と同じだ。大きな犠牲の上に培ってきた漁業技術がある。

日本の魚のの取り方はソフトだ。無理やり、力任せにとったりはしない。昔から漁師は魚との知恵比べをしていた。いろんな方法を使って魚を誘導し捕獲するのだ。

海は天然の冷蔵庫・保管庫だという。そして自然の養殖場でもあり、増殖場でもある。海からもらうのは海の恵みの一部である。必要なときにいる分だけをもらう。それが地産地消というものだ。日本の漁業文化の大切なところだと私は思う。

大量消費という合言葉で、大量生産するシステムは資本の力で経済の仕組みで進められたものだ。小規模零細漁業者は、なかなか沖合・遠洋の漁業資源を利用できないでいた。それが、商業的な資本漁業では大型船を建造し、意のままにありあまる資源を摂りつくし、大量消費というマーケットへ流通させたのだ。地方の過疎地の漁村ではなすすべがなかっただろう。

零細漁村と観光との融合が、ひとつの解決策だった。民宿業が漁村へと導入されたのは人々の自然回帰がなしたものだと思う。

そして国際条約が海にも適用され、1970年以前のようには、自由に外国の水域に入れなくなったのだ。国連海洋法は、資本漁業を大きく変えた。撤退に次ぐ撤退でもう資本漁業は日本には必要がなくなったと言わざるをえない。

こういう日本の漁業文化を守るのは、私たち国民の生活防衛の大事な部分だ。ウナギもマグロもカツオもヒラメもカンパチ・ブリ、タイやハタ類をおいしく食べるにはまず新鮮な魚介として提供しつづけるシステムを守らなければならない。

クジラも同じだ。今の日本にはクジラを捕獲し、供給できる力がほとんどなくなっている。食糧として必要とされるクジラの肉は市場性がほとんどない。珍味としての価値しかない。でも地魚には根強い需要がある。カツオは季節を代表する魚だ。鮮度劣化のはやいサバ類も冷凍技術の発達と魚の漁獲から流通過程を含むすべての経路での取扱技術が普及し、魚臭さという言葉がもう消えそうな気配すらある。

そこには日本の漁業文化の長い歴史があることを忘れてはいけないだろう。だから、これから資本漁業が復活していくにしても、従来通りの考え方では通用しないだろう。原料魚の安定的かつ経済的確保という命題の中で、消費者の求めるもの、社会が求める品質・量・季節感などをどう演出していくのかが、これからの漁業の課題である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

夢の中で聴いたこと

夢を見ることがある。とても懐かしい気がする。

その中では記憶をたどるようなことはあまりない。面倒なことは覚えていないのだろう。けっこういろんな夢をみているのだろうが、忘れてしまうのだろう。

ちょっといいアイデアがあっても、忘れてしまう。

夢の中で勉強するとか暗記するなんていう手法もあるらしい。本当だろうか嘘だろうか、よくわからないが、個人差のリーブ21の効果と同じかもしれない。

もし毎晩いい夢を見るなら、できるだけ眠る時間を長くするだろう。もし夢で勉強ができるなら、できるだけ起きる時間を少なくするだろう。

現実に身体というものは必要なくなるかもしれない。すべて空想の中で成立する世の中ではそうかもしれない。そうなったら心のときめきなんかは・・・、どうなる。夢見心地というからそれは変わらないのだろうか。でもおかしな世の中だろう。

みんなが想像の世界で生きているだけになったら、脳みそ人間の居場所は、ロボットたちによって格納だなに保管されて、テレパシーでコミュニケーションしているだけの存在になる。そんな世界の経済はやはり貧富の差なんて意味があるのだろうか。

だれもしなない世界。だれも生まれない世界。そのままの状態がいつまでも続く世界。そんなことを夢のなかで聴いたような、見たような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

不自由さについて

自由がいい。自分のことは自分でする。

不自由さとは、そういうことができないことを意味する。怖い。でもだれでもそうなってしまう。個人差はあれども、最後は動かなくなる。

でも不自由なのは嫌だ。元気なうちに終わりたい。そういうことをおふくろはいつもいっていた。動けなくなってひとの世話になるのはいやだ。そうしてご詠歌を隣組の婦人会でいそがしくやっていた。

自由を妨げる。それはだれかの邪魔になるからだ。そんな不自由さは、戦うしかない。闘えない不自由さは老衰によるものか。老衰してもその不自由さと闘わなければいけない。生きている間はどんなことでも、やらなければならない。生きていくことはやはり、戦いなのだ。

それも自分との戦なのだ。いくら知恵をしぼってももうだめだということはある。でもそれでも生きていくには戦うのだ。命ある限り戦うのだ・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自然の石段のながめ

崖に石の階段を築いたのは、家康の没後だろう。この有度丘陵の急峻ながけにどうしてこんな石段を作ったのか。それは、久能ざん東照宮のためだ。

ここ何日間かにわたって、訪問している。最初の曲がりをゼロとすると上まで16の屈曲点がある。その中で8から9までの間が長いようだ。私が気に入っているのは、その石垣である。崖面に自然にまとわりつくような形で石垣がある。石段にそってそこは幾重にもなっていて美しいと感じる。

水はけの問題もよく調整されている。大雨のあとも石段には雨水は溜まっていない。すごい職人の知恵が感じられる。

この石段の眺めはやはり、時代劇だろうな・・・。そんなことを考えながら、降りてくる。小説もいいな。もし若くして体力を制限されてたら、私はなんで飯を食おうかと考えたことがある。小説家になろう・・・。そんなことを想った。なぜだろうか。たぶん、この石段をのぼったときに深層心理として、時代劇の様子をそうぞうしていたのではないか。

自然の石段のながめは、なんとなく風流さもある。足元をみつめて降りてくるとき、ときどきなにか気配を感じるのは当時の侍の姿のような気もする。この駿河の土地の宝ものの一つだ。大事にしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

文化人と現代人

現代は文化人があふれている。

どんなヒトもすべて文化に通じて伝統に詳しい。自分たちの文化、今の世界に生きることと切り離しはできないものだ。無形文化と有形文化。ひとは無形だろうか。有形だろうか。どちらでもある。

伝統ものを作る姿は、文化そのものであり、現代の良さではないか。伝統がなかったころ、文化が生まれ始めたころ、そのころは文化人は存在しなかった。歴史がはぐくんだ伝統文化、そしてそれを支える現代人がいまここにいるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本平のからす

この里山には、からすがいっぱいだ。

からすは頭がいい。意地悪もするようだ。だから、頭上にとまっているカラスには気をつけよう。そして警鐘をならすように、鳴き声を上げる時期がある。

少し経つと、小型のカラスが大きいからすと一緒にいるのがよくみられるようになる。さも子ガラスを心配そうにみている気配を感じる。

里山とはカラスがいてこそ、そういえるのだ。豊かさがなければ、野生の鳥獣は住みついていけない。ヒトの入らない空間を残してやる必要がある。これからもずっと・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

プロの世界とは

どんな集団にもプロがいる。そこで、既得権益を保護している。同じ仲間同士がうまくやっていくのは責任でもあるような姿がそこにはある。

仲間外れにする。脅しである。実際にもある。そうやって異端者を外す。権威を持つ。そこからプロというカテゴリーを作るようになる。そういう組織を持続するには、新鮮な息遣いをさせることだろう。汚い空気と新鮮な空気とどっちがいいですか・・・。野暮な質問ですね。もちろん汚れた空気がいいのだと思うのは私だけだろうか。

その汚れに気づいている人は内部にはいない。では外から見てもらうことが健全性を維持する条件だろう。プロの世界はそんなことに気遣う必要があるし、すぐに権益に絡んでいる人は己から外れるべきだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

底のない網で魚がとれるのはなぜ

まき網という漁法がある。大規模なものからそう大きくないものまでいろいろである。対象魚によって変わるのは当然のことだ。説明するまでもない。

イワシまき網。サバまき網。有名なのはマグロまき網である。カツオも同様にまき網でとる。大量に一網打尽だ。それで、資源に対して脅威となっている。もっとも漁獲は漁船数と漁獲量に比例するから、量を減らすか船の数を減らすかだ。

そのまき網には魚群を取り巻くときの底網はない。マグロはもぐって逃げるのではないか。それはちがうようだ。魚は水圧と水温に敏感である。躊躇する。違う水質のところへいくにはすぐにはいけない。富士山の6合目で十分休みをとり、身体をその高度に適合させる必要がある。同様にマグロも水温の違う水圧の違う環境にすぐにはいかないし、いけない。

だから、ある水深まで囲ってやれば、それで事足りるのだ。魚網を使わない漁法もそういう魚の生態をよく理解すれば可能かもしれない。いるかに誘導させるなんている漁法はすでにあるはずだ。

ひとも同じだろうか。網の囲いのない透明なあみですでに捕獲されている姿はなんとなく哀れである。だれかさんに泳がされているのは、みんな同じだろう。泳がしているひともいるかもしれないが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一億2000万総批評家の時代

一億総ハクチ化。それまで情報を得るのに苦労したということを背景にして、映像主体の情報がとれるようになった昭和30年代前半ごろに言われたことである。

今、人口は1.2億である。そのすべてが批評家だという。だれが批判され非難される対象なのか。そのすべてが対象である。勝手な時代とでもいうのだろうか。自分勝手だ。身勝手だ。みんながばらばらの基準で批判しあう。だから答えは永遠にでてこない。だいたい答えを求めようとしていないのだ。単にうわべだけで批判する技術でしかない。実のない行動だ。

何か言わなければそこでのけ者にされる。そんな勝手な時代なのだ。

この行き着く先は、総犯罪者の時代だろうか。いかに犯罪を無くすかを研究するには、そのものをよく理解する必要があるといわれる。そんな勝手な論理でいいのだろうか。決して良くはない。はまると戻れないことが多いのがこの世の中だ。死の世界から帰ってきたものはいない。もともとちがう世界なのだ。

大切なことをもてあそぶのは適当にして、真剣に一所懸命に1.2億の一人にならなければならない。それは、常識人としての生き方である。13億の国でも同じではないのか。そこにはまだまだ格差があるので、1.2億の国のようにはいかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

駿河湾の特徴について

地球物理学的にみてどうなんだろうか。富士山という火山がある。その姿は国の象徴といわれるほど洗練されたものだ。そこに、伊豆半島という島がくっついている。ユーラシア大陸のアジアプレートに太平洋プレートがぶつかってするが海溝を形作っている。フィリッピン海プレートも南西側にある。

駿河湾には、サクラエビがいて、タカアシガニもいる。深海ざめは50種類ぐらいいるのだそうだ。せのうみ(石花海)という浅瀬があり、有度丘陵につながっている。日本平はその一部だ。たしかに自然に隆起した形跡が普通の地図をみていても想像できる。

湾内では昔から漁業が盛んであり、生鮮魚介類に恵まれている。焼津の漁港や小川漁港は有名だし、用宗や清水、由比などの漁港もある。沼津漁港を経て東部にうつればそこは伊豆半島の西海岸になり、駿河海溝につらなる断崖絶壁や戸田漁港がある。それから、数知れない漁港や観光地が東海岸に連なっている。

この湾の深みは富士山の隆起の補償スペースなのかもしれないし、三つのプレートの隙間から噴き出したものかもしれない。そんな深みにはもちろん海流もながれこんでくるので、海洋生物資源の生産力も大きい。

そんな恵まれた条件下にあるので、いろいろな研究者が国内外から注目している。こういう自然環境を活かして地元産業の育成をしていこうと地域ぐるみで活動している。焼津の深層水は平成13年という早い段階で実現し、400mと700mという水深から取水し、種々の用途に活用している。

海の環境汚染も経験している。昭和40年代はもう東京湾と同じく褐色の水色であった。田子の浦だけではなかった。清水港の中も同様に汚染・汚濁されていた。それが、今は戻っている。当時の汚染の気配はみじんもない。汚染源である経済が衰退しただけではない。やはり、次の地域経済振興のステップに向けて環境を整えているのだ。

こんな駿河湾の自然を活かして、富士山静岡空港が平成21年3月に開港する。駿河湾をその地域の架け橋にすれば、伊豆半島や伊豆諸島まで含めた小さな活力のある地域経済圏が見える。それはとても魅力的なものではないか。その基本は地元の住民のおもてなしの心に集約されるものと私は考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子供のころになりたかったもの

子供の頃になりたかったものにはなれましたか?

こんなキャッチフレーズのポスターがある。

明日、2008年7月11日(金)12時15分から午後いっぱい開催される「しずおかイッキュベーションフェスタ2008」のPR文句である。そして、もうひとつ、「ベンチャースピリット」というのがある。「~この道は、自分で選んだ道~」というサブタイトルがついている。

ビジネス。仕事。ベンチャー。

新しいニーズを汲んだ事業をつくりあげる。既存の問題を改善していくことも同じだ。それらは社会に対して働きかけることだ。子どもの頃に、大人になりたいと思った。理由は自分で働いて生活できるからということだったように思う。とにかく早く働いて自分で仕事をするということだった。

歯がゆかったのだ。

何もできない子供の自分がなんの価値もないような存在にしか感じられなかった。

やりたいことは、一人では難しい。

現実に突き当り、興味本位でものづくりの道に進んだ。それでも、子供のころになりたいものではなかった。みんな同じではないのか。何かのためにいろいろとやる。あっちもこっちもある。自分のやりたいことは後回しにするのが普通のことだ。

それでも、こどものころの気持ちはいつまでも残っている。きっと実現できる。ずっと現実になるまで、条件を整備していけば、きっとそこに立っている自分がいるはずだ。

目に想い浮かべてみよう。

今は、こうでも、今にこうなるはずだ。そこにイメージがあれば、かならずそこにいつかだれかと一緒に協力して、そこに・・・・。夢は大きい方がいい。だれも苦情はいわない。夢を描くにはおおらかな自由なこころがあればいいのだ。

どんな場所にいようとも、どこで何をしていようとも、想像し、そして想像し、また想像するエネルギーとパワーがあれば、きっと何か想うものを創造できる。そのためには、小さな光をまずその胸に刻み込んで忘れないようにすることだ。

可能性は探すことから始まるのだと私は思う。想いがなければ何もできないし、それがあれば何かができるはずだ。

見つけられるはずだ。子供の頃になりたかったものを・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

プロの仕事をする

どんな時にもいい仕事をしたい。そう考えている。それはとりもなおさず、プロの仕事をすることだ。

では、プロとは何か。素人に毛の生えたようなものではないのか。難しい。秀でている才能があり、最善の仕事ができる。他の人にできないことができる。みんな嫌がる仕事を進んで出来る。みんながやりたいことをよりよくできる。単なる名称だけのものもある。

文化や芸術では本人がそれを主張するしかない。もちろんその成果を認めてくれるひとやそしきや権威が必要になる。でもそれでいいのか。他人の評価を受けようとすることで、判断できるものではないはずだ。医者はプロだろう。お坊さんもプロだろう。政治家もプロだろう。職業はこの世の中にあるプロの製造場所である。大勢のプロがいるこの世の中は、とても楽しいものに思える。

食べ物のプロ。魚、肉、牛・豚・鶏、野菜・農産品・果物。生産者のプロがいて流通のプロがいて、消費する消費者というプロがいる。それを批判する批評家というプロもいる。みんながプロなのだ。こと生活に関しては消費者はプロの中のプロである。とうことは、みんながプロなのだ。

教育の世界では、先生がプロであろう。それは、きびしく鍛練された精神と肉体を駆使してよその子供を教育する。この社会の次代を担う世代をはぐくむものだ。それでは、大人はこの社会の生活のプロだろうか。素人ではない。でも最近だれも私はプロだとは言わない。後ろめたさがあれば、それはプロとしての面汚しになる。

私は、みんながプロとしてこの世の中を生きていくことで、私たちの社会がよくなっていくと信じている。プロの仕事をするには、そういう決意と覚悟がいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

絵の世界

もし許されるなら、絵描きになりたかった。

それもファンコッホとかピカソとかゴーギャンとか一風変わったものが表現したかった。

それは、大きな間違いだった。だれに許してもらうというように考えていたのだろうか。それはだれでもない自分だということに気付かずにいたのだ。だれかが自分の人生に横やりを入れて無理やりに従わせているという錯覚を抱いていたのだ。

それは、でも少し考えると、ひょっとして自分ではなくて社会に対する自分のこころが反映されたものなのかも知れないと・・・、想ったことがある。そうなのかもしれない。自分のこころを見つめないで何が文化を論じられようか、そこに一世を風靡するような画家になれるわけもない。才能を信じることができないのが普通の人間であろう。でもあるかもしれない。できないと理性で考えるとやはりできない。

それは歩くことだって同じだ。一度失った歩行機能を回復するには大きなエネルギーが要る。とてつもなく大きなものが必要だ。精神力がすべてなのかもしれない。あとは身体能力だがそれは五十歩百歩だ。泳ぐ・走る・飛ぶ。そんな軽業師のようなことが、普通にできる。それが世界一になるとすごいだろう。そんなに機能としては変わらないのに競うと大きな差がある。でも、そんな大きなものは望んでいない。できないことはできない。

その代りわたしは絵がとても好きだ。何かを論じるのではなく、単に眺めているだけでいい。それもあまり意味もなくである。いいなあと感じる心が私は大切だと思うからだ。

理由はないけれどもそういう感覚が好きなのだ。絵はいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

文化人と野蛮人

文化人の反対は野蛮人。はたしてそうだろうか。

もちろん、否・・・である。なぜか。それは、文化人とみんながそう思い、他の人たちを野蛮人と呼んだからだ。それだけだ。文化人とは自己評価であり、他人を野蛮人という集団は、どっちの呼び方が正しいのか。

ある時は文化人であり、ある時は野蛮人になる。それではまったくの操り人形ではないか。それなら単にひとと呼べばいい。文化人とは時になりたい種類のものではあるが、あまり気にするようなものでもない。ちがうだろうか。

平凡な普通のひとになるのが一番難しいことではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

やめ時

何をするにも終わりを考えなさい。

それが私が手に取った起業ガイドブックの中身だった。そんなことを聴くために買ったのではない。一瞬そうおもったのだが、これは核心をついていると考えなおした。

すごい人がいるものだ。

次の一手というのは、そういうことなのだ。始めるときに終わりをすでに考えている。

人生では、生まれたときに自分で赤ちゃんが心の中でそう想うわけはない。

だから、親が段取りをして育てるのだ。そう考えると、どうも責任をしっかりと果たしているのか疑問だ。やめ時というのとちょっとニュアンスは違うが、もともとDNAに刻みこまれているのが、そういうものではないか。

やめ時は、このブログにもあるのではないか。

もういうことがなくなればそれがやめ時だろうか。だれか教えてほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伝統と古代人の夢

楽しい世界を夢見る。

建造物をつくる。それは何かを残すためである。

その時代の夢を残すために伝統を創る。それはとてもいい考えだと私は思う。

なかなか古代から未来へ物事を伝えるのは難しいと思う。

今、そういうものを運ぶ手伝いを私たちは伝統という船に乗せて運んでいる。古代人はそんなことをどうやって思いついたのだろうか。どうして伝えたいと思ったのだろうか。未来はこうなるというのと、古代の私たちはこんな風だったと起点を忘れないようにする目的だったのだろうか。

そこには、古代人のこころが宿っている。夢として描くことを本当は伝えたかっただけなのではないのか。己の権力を残すことだけといった方が、より人間的ではあるような気がする。それは、違うだろう。権力者はやはり、大衆人民のことを考えていたに違いない。

古代人の夢の中にある宇宙ステーションはどんな形だったのか。世界中の国々にある乗り物をみるとそこに原型がのこっているような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分の文化

文化的な生活。

そのための生活改善。

そんな運動が地域で取り組まれていたようだった。どんなことを文化というのだろうか。自分にとって文化とはなんだろう。文化的生活ってなんだろう。そんなことを疑問に思う。

なんとなく面倒なことが文化ではないのか。

伝統芸能というのはりっぱな文化だろう。私はそういうことに携わっている人たちを知っている。感想は大変だなということだ。それだけ、本人にとっては歴史とかかわりあうことで、なにか違うものの手に入れているのだろう。私にはそういうものがわからなかった。

自分でそういうものを探すと、それは結局、地元とか地域の伝統・文化ということになるのだろうか。どこにもその地域の歴史家という人たちがいる。自分たちの文化を大切にするこころはやはり大切なものだ。

ふるさとを離れた人たちは日本にいても何か糸のきれたタコのように伝統文化から遠ざかっている。

心理的なものが大きい。

それが、海を越えてしまうと日本そのものが自分のふるさとであり、日本の文化伝統がすべて自分のものになったような錯覚を起こす。そして、そういうことに無関心な自分をそれも日本の伝統だとか勘違いしている。

そんな時に、もう一度、自分にとっての文化と何かを考えるのが大切なことだと、今、考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中興の祖

コメントするのは易しい。そして難しい。千差万別の評価がある。でもコメントは自分の考えを伝えるものだから、受け取る側の評価に左右されるべきものでは本来、ないと私は思う。

もちろん、そうなのだ。

今日は、コメントの与える印象に好奇心を抱いた。より相手をたたえる表現がやはり受け入れやすい。だめだ、だめだ、だめだ・・・というよりも、これから大物になるとかいう評価の方が良い。受け入れやすいという意味だ。実際にいいかどうかではない。その評価対象、コメント対象の行為がどうという話ではない。

評価というのは難しい。基準がない。またあっては意味がない。自由に幅広く見ることがいいのだから・・・。それをまるでがんじがらめにしているところがある。

そんな中で中興の祖という表現で評価した人がいた。

たしかに受け入れやすい。私たちはどんなことにでも前例となるとても優れた事例を歴史的にみれば持っているのだ。もっとも