旅行・地域

休みは終わるもの・・・

休みは容赦なく終わる。どんなにわめいても泣き叫んでも時間切れになる。

そしてまた仕事に戻る。休みとは来るものだとばかり、想っていた。それは間違いだった。終わるものだった。

そして、また来るものでもある。毎年同じ頃にやってくるのだ。ゴールデンウィークなんて毎年やってくる。一番楽しい時期だ。そんな時は必ずなくなってしまう。仕事が押しのけていくのだ。それでも、必ずやってくる。

休みという言葉は、働く者にとっては、光り輝くものだ。でも現実に手にするにはとても難しいものだ。だから、休みは何もしないでどっぷりとその渦中に浸かりたいのだと私は思う。

正月もそうだ。もう今日で終わりだ。また来年まで来ないのだ。夏休みなんてもう夢見心地だった小学生のころを思い出す。すべてが解放されたように感じた。

それでも必ず終わった。新学期が始まった。そして今、そんなことを懐かしく想っている。もう自分で己の休みをつくるようになった。毎日がそうなることもあるし、まったくそんなことを考えもしないこともある。

もう終わらない、いつまでたっても終わりのこない休みも人生にはある。世の中の一面だけを働きものはみているだけのようだ。いろんなひとがいろんことを考えている。このちっぽけな脳みその中にそんなに広大なものがあるのだ。

もっといろんなことをそれも子供のころにみておくのが、いい・・・。そう私は考えている。

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土地柄を見る

こんなところに住んでみたい。そんな土地が地方には多い。共通点があるからだろうか。

その土地にずっと住んでいるひとは、まさにその土地の生まれ変わりであり、私のような根なし草にはとても羨ましいものだ。親の面倒をみて先祖のことを保護して継続していくことは本当は大変なことだ。

その土地をみるには、その土地の人たちをみるのが一番だと私は思う。そこには、すべてが詰まっているだろう。言葉は、もうその文化の代表のようなものではないか。

物産もそうだ。とくに何もいわなくともおいしさが伝わってくる。だれも食べ物の偽証なんかは考えもしない。畑のものを日々の食卓に運ぶ。地先の魚を食べる。水もそうだろう。

寺社がある。風情がある。伝統の香りがするだろう。海があって、山があって、川がある。日本はほとんどが自然に恵まれている。そんな日本の土地柄を見つけるのは楽しいだろうと思う。

伊豆をみて回りたいと思っている。一日か二日あれば回れる。なんとか種々検討をしてあそこの土地がらを知りたいものだ。でも広範なものかもしれない・・・。

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もみじマーク

農家の軽トラックはほとんどが紅葉マークつきだ。最近批判が多い高齢者の事故がその原因だろう。

そして、ほとんどのひとにとって、ある種の憧れではないだろうか。

紅葉マーク。

それは、健康の証である。農業者には健康な人がおおいということでもあろう。だから、当人たちは名誉だと考えていいのだと私は想う。

はたして、みんな想う。自分はどうだろうか・・・、と。

自然の中で仕事をしているヒトは20年ぐらいちがうのかもしれない。筋肉の付き方が違う。そして太陽の下で仕事をする体力というのは一朝一夕では作れないものだから、とても大事なことだ。

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パリダカについて

来年2009年はチリだという。

ずいぶん離れるものだ。

砂漠というのがキーワードか。過酷という言葉に砂漠は欠かせないようだ。

でも伝統というものは、すぐに崩れる。

持ち込んだものはすぐなくなる。他人に依存することとか、他人へ責任を転嫁することとか・・・、安易なんじゃないかな・・・。

もともとラリーなんてモーリタニアやサハラの人たちは関係なかったのだ。

自然の中に入り込んできてかってに暴れていって、問題があればすぐに離れる。

地域の密着なんてしてない。

単なる為政者のわがままだったのだ。

もうパリダカでもリスダカでもない。もう消えてしまった。南米大陸はまた違う名前にしたらいい。影を引きずらない方がいい・・・。

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くじらのこと

日本人はくじらはほとんど食べない。日本人はさかなはほとんど食べない。日本人はさかな料理が苦手だ。

こんなことを書くと、そんなことはない。日本は水産国家だと否定されるだろうか。実際に魚はいろいろに利用されている。いまや工業原料としての価値の方が、食糧としてよりも多気っくなりつつあるのではないか。

とするとバイオ燃料ではないが、食用にできる割合がさらに減少するということだろうか。

くじらをなぜとるのか。そんな疑問を投げかけられた。なぜ、・・・。食糧として位置づけられていたのは間違いない。そして、今はあまり巷での評判も高くはない。でも・・・、それでも今後の地球規模の問題である人口と食糧のことを想うと、そこに利用せずに人類が生き延びる道はないといえる。

いかにこの資源を持続的に利用していくかが必要なのだ。

でもクジラのこととなると、躍起になる人たちがいる。欧州では食しないのだから、そしてもう照明用の油としての役割もとっくの昔に終わっている。とすればもう用はないということだろうか。

あんまりだような・・・。

日本は後進なのだ。クジラの利用に関しては100%利用してきたのだ。それが本来のこの地球上での礼儀であろう。弱肉強食ということをどう感じるのか、それは様々であろう。強いものが弱いものを壊滅させることはだめだ。みんな了解している。そして、共存していくことだろう。

くじらのことはみんながその背景を少々忘れ初めているようだ。この辺で、正論を日本はまとめて世界のリーダーシップをとるべきではないか。

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年の終わりに想うこと

いつも同じことを考える。

来年どうだろう。何にしようか。もう今年のことは終わりだから、ほとんど何も思わない。

新しい年になにをするのか考えるだけだ。それは、まだ新しいことをやれるという心構えになるのだ。

そして、終わったことはもう良いこともそうでないことも過去のものになる。

さあ、これからどうする。どっかへいくか・・・・。何かをつくるか・・・。

それとも昼寝をするか・・・・。それから、考えるのだ。

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こたえは・・・

答えは「諾威」です。

ノルウェイと打って変換してください。

ノルウェイ→諾威

おわりです。

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テンションの高いひとはほがらか・・・

しょんぼりするなんて考えられない。そんな人たちが住んでいる土地柄というのだろうか、伝統であり、文化なのだろうか。

おっとりしている人たちの多い土地柄もある。なにもかもがゆっくりしていて、それでもしっかりと動いているなんていうのはいい。

テンション。高い。ほがらか。

そんなイメージがある。うらやましい限りだし、本人はそういうことが当たり前でまったく意識もしていないそぶりだ。猫を被っているのではないのだ。

いずれにしても、ほがらかなことはとてもいいことだ。

iPS細胞でそういう部位を作り出すことはできるのだろうか。すくなくとも、悪用ではないだろう。世の中が明るくなるのはとてもいいことだ。

そこから余裕が生まれ、想いやりが生まれるのではないか。思いやり予算なんていうものが沖縄にあるが、それとは違うおもいやりだ。

朗らかにしていれば、テンションが高くなるだろうか。そうでもない。テンションが高いとほがらかに見えるということである。逆はちがうと私は考えている。

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今日の富士さん

今朝の富士やまはとてもすっきりしていた。もうすっかり冬だと告げている。

夏の間中、今年こそ登ろうと、考えていた。

結局、8月が終わり、9月初めの最期のチャンスも行きあました。残念だ。でも来年がある。冬山は無理だ。だから、どうしても来年の7月末から8月いっぱいが限度だ。

今年はなぜこだわったのか。そしてなぜ登らなかったのか。毎日見えるので天候が気になったこと。夏季は頂上がかすんで雲が多いこと、雨のひはどうも行きたくないと思うので、予定を立てなかったこと。想いついて、天候を定めて、その日か前日に決めればいいと思っていたこと。

灯台もと暗しというか、どうも贅沢な選択方法をとってしまった。遠方から来る人はそうはいかないようだ。もう一ヶ月、3週間程度は当たり前だろう。予約しておくことから始めるから、天候は第二で当たり外れのようなものだろう。

今朝の富士さんはとても美しい。久し振りに見た。箱根の山々もくっきりと見えた。

こんな山をまじかに見られるのはとても恵まれている。なんといっても富士は日本一の山だから、なにか郷愁と感じるし、あこがれのような気持ちもある。

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失礼なこと・・・

無礼うちになってしまう。

失礼なことをいっぱいすることはないが、ひとつでもあると、そこで命がなくなる。

弱肉強食の世界がある。

宗教でうっかり、非難めいたことを口走ってしまう。もう、私の命はない。

そんな世界がある。宗教とはひとびとを救うために創られたものだ。そして、考え方の違いに寛容でない。そこに気付かない。

日本は仏教徒が多い。信者だろうか。いやちがう。しらない。だから、私は仏教徒だとはいわない。家は仏寺の檀家だという表現しかできない。

だから、他の宗教に対してときどき配慮がたりない。

飲酒は、麻薬と同じ犯罪。そんなことはあり得ないとしか想像だにしなかったことが、実はちがう。

この小さな体にある命は、そこの土地ではすぐになくなるほど名誉に厳しい。

食足りて礼節を知る。つまり、食が不足している、それも知識という食欲がうまく機能していないのだ。

それでは、どうにもならないかもしれない。

失礼があったらお許しください。でもその前にいなくなっているかもしれない。それを防ぐリスマネが不可欠だし、これからはとても大事になる。ビジネスがとくにそうだ。

偽証行為は、もったいないとか、倫理意識とかいう以前の問題であり、詐欺だということを知らないでいる人もいる。それは、消費者にとって・・・。

とても失礼なことだ。

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いつか来た道

この道はいつか来た道だといつも思うことがある。そして、未知というものがいつか来た道だとも想う。

だから、何をしたいか。そう自分に問いかけたときに、探しものはきっと見つかると思うのだ。そう思わなければ、あきらめている。

いつか来た道だからこそ、そう思えるからこそ、これから何をしたいか、今までやってきたことは記憶の中ではすくないが、もっとあるいつか来た道がいっぱいあると・・・。

そんな道を、いっぱいあるいてみたい。多くのこの道をこの目でみてみたい。そこに大勢の人々の生活がある。あふれている。

ポートルイスの街に大勢の露天商がいろんなものを売っている。警察の規制にもいつものように大きなバッグからすぐに取り出して、また中にしまってお客に働きかける。売れているようだ。みんな客商売に慣れている。生活そのものだ。

この道もいつかきた土地にあった。メキシコシティ、ポートフランスも町中が溢れていた露天商たちが・・・。いつか来た道は、いろんなところで私たちに語りかけている。

そこから、学ぶことが教えられることがある。

これから歩く道が、やはりこれからいく土地のどこかにあるし、どこにでもあるかもしれない。

衣食住のひとの暮らしがそこにあるかぎり、・・・・。

きっと、・・・

いろんなひとの話のなかにそんな多くの道々が隠れていて・・・・。

知らないうちに、私のこころのなかに伝わってきているのだ・・・・、と私は想う。

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日本人の底力は老人パワーだ

世界を自由な目でみて楽しむ。そんな団体に合った。偶然同じだった。成田、香港、インド洋、帰りに同じ人たちの顔が見えた。

みんな元気一杯だ。ご夫婦の人もおひとりで参加している人もいる。添乗員の人がいた。若い男性だった。みんなビジネスクラスだ。そこには自信にあふれた日本の一時を背負った人たちがいた。言葉もフランス語を流ちょうに話し、ほんとにうらやましい限りである。

そこにあるのはなんだろうか。好奇心。興味。醍醐味。そんなことばが浮かんでくる。

きっと数字がすべてを語ってくれる。力があるのだ。レベルが高いのだ。そんなことが、行動へとつながる。

うらやましいかぎりだ。

底力だろう。日本を背負った力は年はとってもりっぱに世界に目を向けているのだ。

タイヨウエネルギーのようなものではないか。自然に一生を捧げて仕事から得たいろいろな力があるようだ。

老人のパワーは、日本の誇りだと私は想う。もっともっとそこに目を向けてみよう。日本は世界に向けてリーダーシップを自ら発揮すべきときにきているのだ。

米国のお仕着せではなく、自分たちの考えでリーダーシップを発揮するのだ。出来ないわけはない。世界あhひとつだと日本人はもうみんな知っている。そこにパワーの源があるのだ。

ここまで来るには時間がかかった。終戦敗戦のショックがすべての人の心をむしばんでいた。そこから這い出すのは、戦争をしらない世代の力が必要だった。でもそこに引きずってきたのを深く心にしみこませられた世代だ。

パワーを老人からもらえ。そして、日本の危機を救え。太郎を支援してこの難関を乗り越えろ。そう私はこころから叫びたい。

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もうクリスマスがじきにやってくる

サンタクロースってうちにもくるのか。そんなことを私は想っていた。こないだろう。みんな貧乏人のうちにはこないのだ・・・。そう信じていた。

でも、そんなサンタが何かくれたらうれしさ倍増だろう。親がサンタなのだ。子供は親の宝だから、どんなことでもやれることはやってやりたいと思うのだ。

政治家の世襲も、企業の相続も同じようなものだ。かわいいのだ。なぜって宝物だからだ。

クリスマスのプレゼントは実はそこにいてやることであり、一緒にいるという実感を味わい、ずっと経ってから、あああのときはみんなともにいたのだと思いをめぐらすことができるようにしてやることだろう。

何よりもやはり、こころに残るものが大事だ。ものはなくなる。こころに刻めばいつまでものこる。それが大事なのだ。正月もそうだ。お盆もそうだ。命日やなんかもそうなのだ。

じきにクリスマスが今年もやってくる。こんなプレゼントの考え方がいいと私は考えているのだ。

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ソマリア沖の海賊

このインド洋の西北部に最近多いのが乗っ取りだ。中国のマグロ漁船、世界最大のタンカーなどが報じられている。

いったい、身代金をどこから取ろうというのか。世界の端っこならともかく、今はどこでも地球の中心のようなものだ。それも、紛争地帯に近く、艦船も多いところだ。

沖合にでて、拿捕するというのはかなり危険な仕事である。それを難なくこなすのは訓練されているとみられる。普通、素人が軍隊であろうがなかろうが、海での組織的な動きはできない。とすると軍事組織でしかない。それもかなり鍛練しているはずだ。

拿捕して、それを金づるとして身代金を受け取るには、振り込め詐欺以上の組織的なバックがいる。それがあるのだろう。あの海域は、日本にとっても重要なところである。給油だけでなく海賊行為監視行動も国連かまたは国際部隊の一部として参加するのはどうだろうか。

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土地勘

土地勘とは、何だろうか。住む土地では、道路の穴ぼこや落下物や周辺にいる住民の顔さえも暗黙のうちに覚えているということではないか。

つまり、ホームグラウンドとでもいうのだろうか。

ちがう土地はいったときに感じるのは、新しさとか好奇心とかであり、いわゆる土地勘はない。そして、どこか自分の蓄積の中にあるものと比べてみるのかもしれない。でも、それはあまりあてにならない。

たぶんだい丈夫だろう。それは、たぶん・・・でしかなく、当たることはほとんどない。つまり、そこから、そこにあるものから情報として集めて分析していかなければ、いわゆる土地勘というようなものは決して生まれてこないし、出てこない。

土地勘ができそうになるころには、また新たな土地へと移るころになってしまう。そんな蓄積がいっぱい集まると、ほとんど似通っていることに気づくのだ。

基本的な日常の生活や、そこで行われている日常の活動そのものは、どこでも同じであり、ひととひととの交流が大切な輪をつくっているのだ・・・・。

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地方の時代; そこに生きることの大切さ

ずいぶんと時間が経過した。地方の時代といわれてから久しい。

それでも地方は景気が良くない。良くならないといわれている。なぜだろうか。世界が変わったのだろうか。たしかに変わっている。変化している。それが、でも、表面になかなか出てこない。

かつての栄華は、もうない。だから、過去に戻るという発想はないだろうと私は考えている。これからのもの、これから新しいといわれるもの、それは未来というものだが、決して今までの栄華というものではない。

自然な生活空間というようなイメージの地方にしていくことだろう。そこではいろいろな価値観があるのではないか。私は、都会というイメージがもう古いと思うのだ。

ドバイの都市開発ではないが、そこに新たな価値を見出すことも一つであろう。砂漠の中に生活空間、ビジネス空間を創造するというのも一つのやり方だろう。

でも、維持費がすごい。それに見合うビジネスというシズテムであれば問題はない。そして生活となるとちがう。それは、維持費のかからない自然なエコな空間ということだろう。だれもが別荘をもつということはできないにしても、空間として自然を選ぶことができる。そこにいわゆる地方という発想があるのではないか。

何よりもそこに住むひとの感覚が大事だと私は考えている。なぜならば、それはそこで生きていることを実感するからだろう。

地方の時代の在り方を今、単に昔のいい時代に戻すということではなく、エコな生活空間を楽しむという視点で進めていくことが大事なのではないかと考えている。

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長崎の出島というところ

実際に行ってみるとちがうものだ。日本の歴史の中にしっかりと組みこまれた出島の存在があったのだ。

ハウステンボスにはいっても、出島にはよらないで帰ってきたのはつい数年前のことだった。今回、長崎といえば出島だ。もっと終戦にかかわりのあるところもあるが以前にそこは訪ねている。でもなんとなく、出島はミニチュアランドではないかと思い行くことはなかった。

そこに歴史があった。日本の文明開化に関係するもの、医学、薬学、工学、建築土木などがなまなましい形で発掘展示されていた。小さな国家とでもいうのだろうか。狭い埋立地にびっしりといろんなものが詰まっていたのだと驚いた。

南極基地を思い出した。きっと、いつか・・・、なんて想った。

たしかに、ヒトが生活するということは、どこでも同じだという気がした。オランダのアムステルダムはゼロメートル地帯であり、埋め立て技術は一級品である。そんなことを想わせてくれた。江戸幕府に象を寄贈するつもりが断られたとの由、さぞ大変だっただろう。その後始末が・・・。以前、私の住む清水の三保半島の東海大学文化ランドの一画に花子という象が飼育されていたことを思い出した。たしか引き取り手を求めて転々としていたのだと聞いた。その後、違うところへ再びひきとられて確かそこで終えたと聞いた。動物がちょっとかわいそうでもある。

カステラが長崎名物だ。これも出島からだろう。それとVOCマークがキャノンに鋳こまれていた。製造所のマークだ。有名なやつだ。

狭いなりに中学生、高校生、幼稚園児や小学生のグループも大勢いた。たしかに教科書にあるものを実物で見られるというのは、これは驚異的な教育効果だろう。決して忘れないのではないか。ただ、埋め立て地なのだが、今は、一部を除いて開発の波に侵食されている。だから、どうして出島が陸地にあるのかという風に錯覚する子供たちがいっぱいいるだろう。もっと貴重な遺産は丁重にあつかっていくのがいいのではないか。

坂の町は、とても歩いてみるのは大変だが、歴史の重みを感じさせてくれるところだ。また行きたいと考えている。

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日本人の良さを探そう

日本人の良さとは、なんだろう。

田舎があることだろうか。江戸っ子、浪速っ子、道産子、博多っ子、・・・。それぞれの特徴が際立っているのに、同質性もあるということだろうか。

沖縄の人とアイヌのヒトは似ている。毛深いところが似ている。そして、南方系はそうではないようだ。ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアなどだ。ロシアの人たちもちがう。インドの人もちがう。中国、韓国、台湾、北朝鮮あたりは、ごくごく近いと感じる。でも残念なのは言葉が同じではないということだ。

フィリピンのヒト、東南アジアのタイ、マレーシア、ベトナム、シンガポール、ミャンマー、カンボジアなどはまたちょっと違う。

日本人の良さは、ほかと比べる良さではないように私は思う。自分たちで感じる良さというものがあるように思う。なぜ、幸せと感じるのか。それがどうも日本人として生まれてきたことにあると感じているようなのだ。

確かにこまやかな心配りなんていうのは、日本人の良さかもしれない。あまり、こう考えてみてもいいところは浮かんでこない。

日本人の良さを知るには、外国の人たちに聞いてみるしかないなんていうのは、その良さを否定しているようなものだ。自分たちがいいと思わないで、何がいい人たちの住む国だといえようか。

それでもある・・・のが、日本人の良さだと私は考えている。

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路面電車の風景

そういえば、私の住む清水の街にも、路面電車があった。そして、三保半島へいくJRの列車もあった。

長崎にきた。路面電車が生きている。札幌にもある。

この交通手段はたしかに便利だ。バスよりも安心感がある。それは線路があるからだ。そして不便さも感じる。もうちょっとそこまでいけたらいいのに・・・。

それがレールを敷くということだろう。路面電車の必要性は、その土地の人たちの感じ方次第だろう。そして、他の土地からいくと、昔あったな自分の土地にも・・・、と思えることがいい。

なぜ無くしたのかとかいう理由は問わない。それはそれでいいのだ。

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その土地をみることの大切さ

実際にその土地にいくことはとても大事だ。それは、なぜか。いくと立体的にみえることはもちろん、百メートルは実際の百メートルだから、遠いときもあるし、近い時もある。

九州、長崎とは例の事件があったところとは思われない。凹凸の激しい土地である。それは暮らしに大きな影響を与えているはずだが、これは仕方のないことであり、傾斜地の良さというものもあるかもしれない。それでも、欠点でもあろう。大規模な改善には向かないだろう。そして、そんなことは部外者が思う不遜なことかもしれないと思った。

その土地を愛している地元の人たちは、そこを好きになっているというよりも、それが当たり前であり、そういうことがなければ逆に違和感をかんじるのだろうか。

そこへ行ってみることは、地元の人とは違うのだが、そこが他から行ったものの目なのかもしれない。そういう目が必要なのかもしれないと思う。

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季節の先取り

日本には四季がある。だから、ちょっと脇目を向いていると、景色は変わっている。

ピンクが青になり、カラフルになり、そしてホワイトになる。

春から夏にかけてスリムになり、秋から冬にかけてふっくらとする。日本人のからだも四季によってかわるようだ。

秋は収穫の季節であり、それだけで幸せな気分になる。たんぼのお米あり、やまのきのこもある。うみの魚もいい。ひとのきもちも引き締まり、そして緩むというリズムで動いている。

でも、今の日本はいつも年がら年中「ほっとけない・・・」といっている。季節感がないというより、ワンパターンは司会者のせいではなく、テレビ局や報道関係者の心理に季節感がないからのように思う。

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ふるさとの良さ

明らかにふるさととは、遠くにありて想うものであると私は感じている。それは、ながらく故郷を開けていると、第二のふるさとがだれにでもできてくるからであろう。

でも、私たちは自分が育った自然とか社会の雰囲気というのは忘れないようだ。それは、子供のころのともだちの顔や姿形、ふるまいであったりする。さけの母なる川への回帰のようなものかもしれない。

どこかににおいがついているのかもしれない。方言だったり、顔立ちだったりするかもしれない。

それが、もし遺伝子操作で生まれたとしたら、今言ったようなことはどうなるのだろうか。百万人の同一遺伝子を持つ人たちが人工増殖という方法で生まれたらどうなるだろうか。魚類の養殖では親魚の遺伝子が吟味されて優良な種が採用されるのだが、ひとに充てはめて考えると何か東京の街に同じ顔の人たちがひしめき合っているようで、納得できないものがある。

自然界の多様性というのはそんなにも重要なのだ。他人のそら似ではなく、同一人物そのものというのは、倫理上問題が山積しているようだ。

ふるさとの良さというのは、個人として識別されうるルーツがそこに存在することでもあると私は考えている。

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2日間の旅

150号線、国1、その他使って、ドライブ旅行だった。最近、遠くまで運転することはなかったので、結構神経を使った。いってみれば、臨機応変に対処するしかないのだが、決心するのにきっかけが要る。

えいやっときめればいいのだが、それではなんとなくいやなので、少々自分を説得するために言い訳を考える。自分を説得するのにそんな面倒なことが・・・・、じつはこれが大切なのだ。他人の説得は難しいがやればそれで結果は成り行き次第だ。しかし、自分の場合は、これは失敗できない。そこで、2重人格になって説得する側とされる側が互いに無視していては、人格が成り立たないからという考えに至るのだ。

とにかく、安全運転なのだが、これも運次第と思う。事故を避けるという意味では、スピードを出さないことだろう。重大な事故は速度に比例する。高速を避けて在来ルートを通った。120kmと50kmではその衝撃ははるかに違う。

その代り時間を要する。全体のエネルギーは同じだ。そんな2日間を送った。

遠州灘にある避難港、福田漁港をみてきた。河川港だ。燃料油高騰で網漁船は岸壁に係留されつづけている様子だ。荷捌き場はながらく使用されていない様子だった。50隻ぐらいの網漁船が・・・・、これが日本の漁業の現状だ。もっとも漁期が終盤だということかもしれない。避難港だからその意義は高い。

新しい外側の岸壁には釣り船がやはり50隻以上であろうか、係留されていた。こちらは釣り人が大勢いた。活気があった。

あっという間に2日間は終わった。

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日本という国の力

GPSは一度使うとやめられなさそうだ。そして、ないと結構大変だ。道が未知になってしまう。どうしても、ゆきあたりばったりばかりでは、進めないという気持ちがある。

わかった上で進みたい。そんな気持ちだ。

日本の大動脈は道路網だろう。東海道膝栗毛の時代は宿場町があってそれなりの道しるべがあった。ヒトは旅を好んでしていた。今は、それが世界へと向かっている。

日本という国の力はとても大きいと感じるのは、こういう大動脈に自分を投げ入れたときだ。そして、いろいろな国へいって、日本と比較してしまう。日本は、これからもっとずっと大きく発展していくのだ。

そのためには、地方の力が大事だ。都会と地方の関係は仕事場とふるさとのようなものだと私は考えている。その関係が日本という国の大きな原動力になっている。

私たちひとりひとりの気持ちの集合体がこの国の力になっているのだ。

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地域振興とは

住む地域を快適な所にしていきたい。自分たちのふるさととして大切にしていきたい。こんないいところだともっとアピールして、大勢の人たちに来てほしい。

そんな希望があるのは、どこでも同じだろう。そして、違う土地を見たいというのは、みんなが持っているものだ。では、地域振興とはどんな手だてでやればいいのか。そこが難しいのだ。

特徴のある土地の名物を紹介する。歴史的な遺産とか、天然記念物とか、世界一の水族館とか、何の特徴もない静寂な農村とかもあるだろうか・・・、おもてなしの心だろうか。それとも食べ物だろうか。ファッションだろうか。優越感を与えるような雰囲気だろうか。

どうも私は感違いをしているようだ。よその観光地とかに勝とうとしているだけのようだ。それはよそから客を略奪することでしかない。もっと違う・・・ものだ、地域おこしにいるのは・・・。

何だろうか。つまり、自分たちの土地をまず自分たちで楽しめる土地柄にすることではないのか。自分たち地元の住民が住みやすい、楽しい、明るくて強い街並み空間にしていくのだ。だれのためにといえば、それが地域振興の目的ではないか。

みんなの想いはそこにある。

とすれば、よそから興味をもって訪れてくる。そして、時には、自分たちの土地ではなくちがうところも見てみたいとなって、交流が始まる。そこから、ヒト・モノ・カネという物流が生まれて経済が活性化するのだ。

地域振興というテーマでそれぞれの地元民が切磋琢磨することができる。沖縄のへのこ岬のジュゴンなんて生息域の北限でもう40から50頭ぐらいしかいないのだ。これは、保護対象が変わってもそれぞれの土地がいろんな類似の大切な自然保護の目的をもっているのだと思う。

そこで出てくる開発の話は、環境と自然保護と地域経済の活性化などの総合的なものでなければならない。いろいろな選択肢があるのだ。それが持続し、双方がまたは関係者がすべて納得できる計画案があるはずだ。きずかないだけだ。

つまり、みんなの想いを目に見える形で創造していくことだろう。それがそこに住む地元の人たちの幸せにつながること、それが続くことが第一の条件になるだろう。

いつも大切なものを忘れてしまうのは、わざとではないのか・・・。ヒューマンエラーは意図的なものではないはずだが、どっかでボタンをかけ違えると変な整合性の取り方になってしまうようだ。

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評判のお店 まぐろの料理

いつでも人だかりしている。二時過ぎでも駄目のようだ。

それは、清水の河岸の市にあるお店だ。今日も観光客がいっぱいだ。

活気のない商店街に比べて、やはり新鮮な魚介類は魅力があると見える。

場所柄がいいのだろうか。

その市場の中に数軒の料理店があるのだ。そこで一店だけ、行列ができているのだ。一度入って、私はそこへは行かない。いつも並ぶのは観光客に対して悪いからだという理由だ。

でも、ならんでも食べたいのはどんなのだろうか。私にはよくわからない。

新鮮なまぐろはおいしい・・・・。他にもおいしい店がならんでいるので、ぜひみなさんもその行列をみにきて他のお店でお昼を食べて行ってもらいたいものだ。

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地域に生きる

今年は、ふるさとで小学校の同級会に春、参加した。そして、秋、大学の県の同窓会に出た。ふるさとは幼馴染であり、はじめてでた。同窓会は県単位のもので、20年ぶりぐらいであろうか。

どちらにも共通するものを感じる。そこには、その土地でずっと活躍している姿であった。土地に根付いて生きている姿は、とてもうらやましい気がする。そこには地域格差とかいうものはすでにないようだ。

自分たちの生活の場であるその土地が一番だと主張しているように見える。それが現実なのだ。どんなにつらくとも、そこには一番楽しいものがあるのだ。

地域にいきる姿は懸命で美しく強さを感じるものだと、私は生まれて初めて想った。

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ちゅら水族館の面白さ

海洋博が行われたのは、ずいぶん前の話である。そのた跡地が海洋公園となって、その中に水族館がある。

目玉は3頭のじんべいざめである。マンタもいる。そのた群れをなす魚類がいる。大型水槽というもののあるスケールメリットが発揮されている。そのリミットがどこなのかは、つぎの水族館に対するイメージがでてこないとあきらかにはならないだろう。

私たちは、この次どんなことを実現していくのだろうか。海洋公園というものの良さはわかる。そして、その施設維持と動物の飼育という点での苦労・研究成果などがないと、なかなかいい運営はできない。

ちゅらの面白さは、口でいうようりも一度いってみることだ。ほとんどの入場者が1時間から2時間も大型水槽の前でじっと感動を胸にしているのがわかる。喫茶店は満員である。ずっとお茶を飲みながら見ていたいのだ。

人工的に自然を作るのだから、それは大変なことである。素人でもいきものを飼育するのはとても大変だと感じる。金魚でも大変なのだ。病気があるし、そこで罹患すれば、終りである。

ちゅらの面白さは、スケールだろう。そこに目をつけて計画したひとの先見性はすごいものだ。これから水族館、動物園、植物園など自然の生物を対象とする施設の存在価値は増していくと考えられる。

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いざ沖縄へ・・・

初めての調査にいくことにした。

沖縄。

初めての沖縄。

何をみて何を感じてくるのか。

私は、現実を縮図としてみるに違いない。

基地の移転、サンゴの問題。

これから、どういう形で今あるものを利用して生活を豊かなものにしていくのか・・・。

そういうテーマをもっていくことにした。

いざ沖縄へ出発だ・・・!!

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連休とイベント

各地でにぎやかにいろいろな催し物が行われている。たしかに地方は活気がないのだが、こういう単発のイベントは結構な人だかりをしている。

地域おこしには、古い伝統の祭りと新しい視点でのいろいろなイベントが必要のようだ。この私の住む静岡市の清水地区は、合併により静岡市となっている。まぐろの町としてのイベントが清水駅の海側の広場で開催された。じつは、ほかにも清水区の運動会があり、連休のイベントは大変な競争ではないかと思われる。

運動会は玉入れ競技だ。9月の地区予選大会ででた選手の方が、都合ででれないというので、代役であった。なかなか地域の活動も大変なことである。役員さんたちの努力がその基盤になっている。

イベントもテーマになるものが大切だ。清水はマグロ、まぐろは清水というような感覚が地元住民にはある。でも最近の遠洋漁業の衰退はその流れを変えてしまっている。国内のマグロ産地が有名となる一方で遠洋漁業のマグロはちと頭打ちである。

また違う流れも大きい。蓄養マグロや養殖マグロの話題性が大きい。これらの先にあるのは人工的な育成・捕獲にあるのだが、これらは自然の中での生産を狂わせるものとになるかもしれないと危惧される。どの程度、これから天然・自然のままということに対して評価があるのかは目下、手探りの状態にある。

ところで玉入れなんて・・・・、小学生の運動会と考えていたのだが、なんと私の成果はゼロであった。そんなものかもしれない。これがオリンピック種目での代表だったら、惨敗の責任をとるかレベンジというところだろうか。

地域の人たちが、地区予選を経て集まっているところに、何か久し振りに地元に常駐しはじめて基本的なものが変わったと感じる。

いろんなイベントに出て、人々の話や活動を見ていきたいと、今、私は考え始めている。

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見ること、知ること

見たことのないものを見てみたい。

知らないことを知りたい。

いけない土地を見てみたい。

行く前に、今は多くの情報があふれている。知りたいその生きたい土地の情報がある。そうしたら、知らないことを知ることができる。

そうしたら、もういく必要はない。見る必要はない。でもちがうと私は考えている。

実際にこの身体をそこに持ち込んで、この眼でみてみたいというのは、そこに感じることのできるものがまったく違うからだ。

頭でっかちになると、それはそこでバランスが崩れてしまう。それ以上、好奇心も興味もなくなるだろう。そんな架空の世界と現実の区分をしっかりとわきまえて生きていこう。面倒ではない。

じっさいにこのふたつのまなこでみることはまったくべつのものをたたきこませてくれるのだと私は思う。だから、見ることで知ることが大事なのだと私は考えている。

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世間の実態とは

飛んでいるひとたちがときどきいるようだ。私たちの生活は普通だとおもっていると大間違いだ。世の中には、貧富の差とか、貴賓の差なんていうものもある。貴族は生まれながらにして尊い存在であり、貧民はそういうものでしかない・・・。

今、そんなことを言うと笑われそうだが、実態はそうなのだ。

古来、賢人は愚人を捕虜にして使役した。働くことは汚いことと尊い人たちは考えてきた。それが世間の実態だ。

セレブというものがそうなのか。昔の貴族はほとんど落ちぶれているから、そこにセレブはいない。みんなに認められた富裕者ということだろうか。

でも、どうしてそんなことに憧れるひとがいて、そうはやし立てるひとがいるのか、私にはとても不思議でならない。

ひとは衣食住に恵まれればそれで幸せだといえないか。この体とこころはそれで十分ではないか。人並み以上だとちやほやされても、その逆でもいいではないか。

世界には、いろんな世間がある。表で論評しているひとたちは、世間の実態というものをしらないだろう。そこにあるのはきっともっと普遍的なひとの生き方なのだ。

ところが変わってもその本質は同じだ。それが実態ではないだろうか。

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地方の時代; 思いこみを変えよう

地方経済は壊滅状態だという。でも地方の人たちがみんなで中央都市に迫ってきたりはしていない。

なぜだろうか。

それは、地方の本当の良さを知っているから、その地方で「時代」を創ろうという発想があるのだ。地方でも、中央と周縁はある。そこで、本当は地方と中央というイメージを変えてみたらどうだろうかと、私は考えている。

それは、中央で基本的な仕事をしている人たちはとても大切な部分である。組織の中枢で長中期的な政策を束ねているのだから、とても重要なものだ。そういうところをほんとうの田舎にしてはどうだろうか。中枢部を分散して周縁に配置するのだ。

環状線の拠点ができる。そしてその環境は昔からの理想的な日本の姿にするのだ。

そして、イメージを転換する。発想を転換すれば、そこでの成果も大きいはずだ。まずは、先入観念を無くしてゼロから、またはマイナスからはじめてはどうだろうか。

地方の時代とは、地方でこれからの日本や世界の環境政策や開発、国際協力の方針について考えることなのだ。そこから発信する情報は、当然ながら世界を凌駕することができる。

地方の時代とは、地方の良さをみんなが認識することである。一時的な便利さではなく、健全な政治や経済をはぐくむために、地方という空間を十分につかうための手段である。

東京を地方にする。地方を中央にする。地方参勤交代制度のようなものでもいい。そして、ニホンの田舎の庁舎をNYKとかアフリカの地方に持つのもいいのではないか。

まず、地方の時代の発想を変えることだ。それが地方の時代の始まりになる。

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季節の変わり目

ほんのちょっと、季節の変わり目を間違った気がする。あっという間の10月だ。

この月は、最後の4分の1ではないか。もうそんなときなのだ。大みそかがそこに見えるようだ。ちょっと心構えが遅れたようだ。まだ終わらないでほしかった夏の季節とでもいいたい心境だ。

そんなときは、来年の夏に期待することだろう。

でも、・・・・。いろんな想いがある。いるのか・・・・、いられるのか・・・、生きて・・・。

日本の社会が健全に続いていくのだろうか・・・。そんな不安もある。

そして、どんな風になっていくのかという期待感もある。どっちが大きいかの違いだ。そんな期待はプランにすることだ。

ちょっと遅れてしまった・・・。そう感じたのは、期待プランが実はまだできていないからだ・・・。

こころがまえがまだ・・・、なのだ。

あまりに、あっというまに季節の変わり目が現れてしまったので・・・。

来年の夏の前に、今年の秋、冬があるのだ・・・。もっと楽しまなくてはならない・・・。でも計画がまだ浮かんでこない・・・。ちょっと心構えをつくる時間がいるのだ。ちょっと・・・。

ちょっと、タイム・・・・。

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天気予報と予定

一気に駆け上がる。そんな気がいが必要だ。

今年の夏は、十分に時間があった。油断したようだ。なぜって、天気がよくなければ行きたくないと欲張ったせいだ。すべてを満足するという姿勢では計画はできないし、停滞するようだ。

富士山登山。30年ぐらい前に途中で下山した苦い経験がある。高山病で家族親戚みんな途中で降りてきたのだ。今年は登るぞと決意した。

毎日、毎週、今日明日の天気・・・。できるだけ雲のないときを狙っていたのだ。毎日、目の前に見える富士山がある。あそこに今日も何万人かが登っているのだと思うと、とても残念だ。

結局、今年はあきらめた。

そして、秋がきた・・・。沖縄に行ったことがないので絶対いくと決めていた。時間はある・・・。そんな想いでいると、台風だ。欠航する飛行機。これでは仕方がないと保留している具体的プラン。

今、思案中だ。それでも、台風15号がいるし・・・。それそうではあるが、このあとどうなのか。

天気予報を気にすると、どうも優柔不断になってしまう。時間によって決めた方がどうもすっきりとキメラられるようだ。運動会とか大事な行事も同じだろう。前日に豪雨であってもその日は快晴なんてこともあった。

ハリケーンなんて気にしないでいったら立ち往生とか、ブリザードでNYKのホテルに3日間缶詰なんていうこともあった。

天気用法はどうも留意事項がいっぱいあるようだ。反省するも何もやはりできるだけ事前に安全な行程を組むことは絶対にしなければならない。

私的な行動は、でもできるだけ欲張ってみたいのも事実だ。

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アジアの真価

日本を含むアジア地域の力は大きい。

それは、この地域全体に流れている食べ物であり、衣服であり、文化ではないのか。太平洋の島国でも大陸から渡った痕跡がそこかしこに見える。

日本の神社仏閣は同じような形でもっともっと素朴なものが島しょ国にはある。そして大陸には山岳地帯、海岸地帯、砂漠や広大な陸地をもつ平野もある。その根幹には大河がある。自然の恵みを長年にわたり、運んできて人々の生活をはぐくんだ河川である。

もともとの文化はどうも中東から来ているらしい。そこから東西南北へと分散したのであろう。どんどん自然条件の厳しいところへと人々は移動して、生活の場を築いてきたのだ。

アジア地域の住民はどこか共通している。宗教の流れもあるだろう。仏教と他の宗教とのかかわりもあるだろう。どんな心情が仏や神々というものを創造したのだろうか。荘厳な人間の行いでもある。

無限大の世界。

時空をかけるこころの存在。

そんなものが多分、どこかの宇宙の果てからやってきたのではないか。生物としてきたのか、神々としてきたのかは知る由もないが、何か神秘的である。

そういう源流が、すべての文化の発祥地がアジアにある。このアジア地域の共通の意識があるように思う。そういう一体感がもっと具体的になれば、そこにこの地域の真価がでるのだと、私は考えている。

アジアの真価に期待しようではないか。そのいいところは心ねの優しさではないかと私は想うのだが、どうだろうか。

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楽天家になろう

もがいている。必死になってもがいている。

それは、楽天家になりたいからだ。なんでものんきに考えられる人間になりたい。そんなひとがこの世にはおおぜいいるようだ。もともと私たちは他人といういわゆる無関係なひとにたしては冷たい。

だから、だれもが批判し、非難し、批評をする。それが、生きている証だとだれかがいっていた。その対象はだれでもいいのだが、できるだけとばっちりを回避する必要がある。そして、あまり害のない無関係に近いひとを餌食にする。

そんなことが、じつは一人ではできない。だからグループでやる。そこにもリーダーがいて、ひとりではできないリーダーが同調をもとめる。そして、批判・非難が具体的になる。

でも、そんなの関係ない・・・。だから、楽天家になろう。それでいいのだ。こだわらない生活、こだわらない生き方が私たちにはできるのだ。

でも、考えよう、もう一度だけ・・・。

楽天家になるには、すべてのリスクを網羅してやっつけることが必要だとしたら、・・・。あなたならどうする・・・。やっぱり、うじうじしていても、悲観論者でもいいか・・・。

そんなあなたはりっぱな楽天家のようだと私にははっきりと見えるのだが、納得できるでしょうね。なぜならあなたはりっぱな楽天家だからです。

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捨てられた古いトンネル

海べりの突端を回る道路。へんなふくらみがありくさむらがある。

それは、昔修行僧が手でほったトンネルだった。もういらないので、放置されているのだ。歴史遺産ではないのか。下手すると自然破壊とも言われそうなことだが、困っている村人の安全な通行を確保するために、何年もかけて構築したものに違いない。

でも、放置されている。もういらない・・・、そう村人がいっているようだ。

たしかに役割を果たしたら、そこで終わりなのだが・・・。でも、何か大切なものが、困っていることに懸命に尽力した僧侶や村人のいにしえの姿が見えてくる気がする。

それは、日本海の越後から奥羽に向かうところにある。車で通るとわからないが、ときにはあるいて何気なくそんな遺産をみつけることが大切だと考えている。

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じっとしているのは・・・

じっとしているのは、もうひとつ残っているものがあるからだ。

どっかへ出かけたい。でも、残りがあるから・・・。

どっかへ行きたい。でも、終わっていないから・・・。

どこへでもいいから、出かけていきたい。でも、もう少しだから・・・。

がまんしよう。もう少しだから・・・、・・・・そうしよう。

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シンプルな社会をつくろう

海洋深層水の取水施設が注目されて今各地でもてはやされている。

内容は異なるが、かつてのボーリングブームのような気がしてきた。たしかに、健康志向ということで、深層水イメージを温泉とかそういうものとダブらせて利用するのは、ひとつの工夫のあらわれである。いいことである。

でも、シンプルがいいと、この社会はできるだけ、簡素な方がいい。

自分たちの生活、とくに食生活もシンプルがいい。同様に、複合施設で成果を多面的にあげようという計画を立てることは、どこかで制約がでてくる。需給バランスが崩れる。深層水はいろいろな原材料として利用されているが、その施設をリラクゼーション施設とか、健康施設として利用した場合、どうなるだろうか。

もっとシンプルな目で見直してもいいのではないか。何か、おまけみたいな存在で健康ブ