もうすたれてしまったのかなとも思う。
でも、まだあるらしい。
実は、そういう昔の知り合いの会に出た。
なんとなく、入りづらさも感じるものの、飲めばまあまあなじんでいく。
でも、どこかに違和感もある。これって、ひとのつながりだし、きづなともいう大切なものだって気づいてはいる。
年末とか、歳末とか、人生の終末なんていうのもある。
週末は毎週あるのだが、それもいつの間にか月末に代わっていったりする。
年を忘れることは、年齢ではないのだ。
その一年を終わろうというのだ。
なんか変なコメントになったようだ。
いろんなことがなくなっていく。そのうち、一日は同じ一日だなんていう法律ができて、差別扱いはやめろなんていう法律ができるのかもしれない。
元旦も平日も祭日も記念日も、すべては同じ一日なんだっていうのは、みんなわかっている。でも、なにか特別な時間にしたいんだ・・・。
希望の党の話だ。
マスコミが勝手に騒いでいる。
公示日の〆切までわからないって、なんでだ。
70%。50%。
5%。
2%。わからない。でもありうるかも・・・。
政治はなんでもありの世界だから、わからない・・・。そして、ありうるっていってたな。
すごい、引っ張り方だ。どっちがどっちではない。マスコミが勝手にやっていただけの話だ。もちろん、引っ張りだこのコメンテーターや政治評論家は、そこに乗じてなんらか腹に一物をもっていそうな感じもある。
太鼓持ちの超有名政治評論家とテレビ局員のコメンテーターが、言い争う。
後で、上層部から叱られるだろうなんていう、裏話もあった。
その通り、翌日はなんとも顔色がさえない。でも、消されずにでているようだ。
まあ、すぐには首にはできないだろう。正社員だもんな。
ああいう手法に乗せられたのか。乗ったのか。
とくになんにも考えてはいないのかもしれない。
大衆迎合主義とか、ポピュラーイズムだろう。
どっちが報道側もちょっとちょっとだと思う。
出る杭は打とうなんていうキャンペーンか。他局の回し者か。
悪だくみが渦巻いているような報道界が見えてきそうだ。
最近は弁護士が政治家になるのが目立つが、マスコミや官僚は、政治家の供給源だから、そこで経験を積んで、適当にしり込みしない程度で押さえないと、需要があってもそれに対応できないできそこないしか集まらなくなるだろう。
それとも、いつもお目付け役に見張られているのだろうか。こりゃ、やる気がでなくなるはずだ。
まだ、ウルトラCとか、H難度とか、I難度の裏技があるのか。それって何%だ・・・。
0.001%って。嘘だろう・・・。
消費税、社会保障、少子化、エネルギー。
これが今の日本が抱える課題だ。
国際社会の課題は、貧困だ。それが最大のものだ。
これと日本の現状のギャップって何なんだろうか。
ちょっとずれていると想わないか。
日本は行動経済成長を過去のものとしており、凋落の道を歩み、人口は低下していくし、経済は疲弊していく。
世界は貧困をばねにして、これから成長路線を歩もうとしている。
このギャップはなんだ。
日々の生活に苦しむひとたちと、人口構造で来る少子化低成長経済下における将来の苦しみを回避しようともがく国家との差異はどこにあるのか。
他人のふんどし説に甘んじて、このまま疲弊していっていいのだろうか。
すくなくともギャップをどうやって崩していくかを考えなければいけないのではないか。
それは、他人のふんどしではなく自前のボロでもいいから、強い意志と誠実なこころのこもったふんどしということではないか。
やっぱり甘えは、ついつい身にしみついてしまっているようでもある・・・。
視点を変えるまでもなく、現在の国際社会において、人的資源の一番充実しているのは、アジアである。
それも東南アジアである。
アセアン諸国、中国、韓国、日本。
インドもあるし、豪州もある。
なんと地震の多発地帯である。
海底地形でみると、地球のプレートが重なり合う境界でもある。だから、多様な生物がいて、資源も多様なのだ。
経済力も今、一番勢いがある。
そこで、日本は沖縄をどうするか。なんとみんな気付いているのだが、あまりにも米国の属国としての基地問題が表にたつので、言葉にならないようだ。
この東南アジアの中心にあるのが沖縄であり、日本の海洋資源などの利権を決めるEEZでも大きく貢献しているのだ。沖縄県を見直す。
成田空港や羽田空港が中心ではなく、沖縄那覇空港がこの日本を含む東南アジア一帯のハブになることは、夢ではない。極めて実現性の高い計画である。
もっと戦略的な見地から、この重要地点に知力を集中して当てていくことが、日本の将来を決めることになると、考えられようか。
ひとは生まれて死ぬ。
生まれたら死ぬ。
死んだらもう戻れない。
生まれたときにいただいたものはなんだ。それは時間だ。
おれはどれだけの時間をもらったのか。
もう使い果たしてしまったのか。
でも、それは自分では決められないものだ。
毎日をいきることでその時間を認識しているものの、それを多く使ったり、水道の蛇口を閉めるように一日の長短を調節することはできない。
だから、気付くと・・・。もうない・・・。そうなるのだ。
まだまだあるのか?
それはわからない。
でも、やりたいことはある。できるかどうかわからないことだけれども、そういうことをもっともっと考えてみたい。それが俺が考えるやりたいことだ。
だれでも終わるのだ。でも、それまでは・・・。きっと時間を操れるようになる・・・なんては少しも想いはしないのだが・・・・。
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