下馬評
結構、正しいのが下馬評だ。
常に自分勝手という解釈が優先する。
そして、悔しがる。
どこにそんな意味がある。
もともとない可能性なのだ。
いや、ごめん、少ない可能性なのだ。
もちろん100%勝ちますなんて言ったとしても、それは時にゼロとなり、百にもなる。
それが勝負なのだ。
如何に客観的に準備し、勝利への道筋を作るか、作れるかが分水嶺だろうか。
下馬評は、それでも一般論としての説得力がある。
結構、正しいのが下馬評だ。
常に自分勝手という解釈が優先する。
そして、悔しがる。
どこにそんな意味がある。
もともとない可能性なのだ。
いや、ごめん、少ない可能性なのだ。
もちろん100%勝ちますなんて言ったとしても、それは時にゼロとなり、百にもなる。
それが勝負なのだ。
如何に客観的に準備し、勝利への道筋を作るか、作れるかが分水嶺だろうか。
下馬評は、それでも一般論としての説得力がある。
お殿様が批判したらしい。
こざかしい・・・と。
上目線で排除とかいうことばを吐いたことへのコメントというか、お叱りというか・・・。
そんなところか。
でも、当事者であり、責任を持つ身としては、どうのこうのと気ばかり使っていては、そりゃ小間使いでしかなくなる。案の定、都民ファーストの会の二人が離党したらしい。
思い通りにならない・・・。閉鎖的な運営体制・・・。そして、独裁的な・・・、一人ヒーロー的なふるまい・・・。そういうことに我慢ならないという理由のようだ。
でも、世の中、そんなもんだ。
サラリーマンとか組織人なら、一つでも自分の思い通りにできることはあるか。できないことを察知されれば、すぐに使い捨ての危険もある。具体的には、労働法で保護されているとはいえ、残業うんぬんの数字よりも、成果を上げたかどうかで評価されるのだ。達成していなければ「できないやつ」烙印をおされて、バカ扱いかもしれない。もう、ひととして扱ってくれないのではないかと、普通のサラリーマンなら、疑心暗鬼にもなる。それが普通だ。そこで我慢に我慢をかさねて、生活のために働いている・・・。
つい愚痴がでてくる。でも、それが普通だ。常識だ。
政治家は、とくに若い政治家は、そんなこと気にしないだろうから、どんどんやればいいのだ。やれるまでやればいいのだ。そこで限界を感じて、そこからどうするかってことだろう。
こざかしい・・・。
あの老練な戦術、いや戦略家といわれる百戦錬磨の都知事が、次の一手をどううつのか、見ものである。
ありません。でません。日本語でこの間言ったでしょう。
言い切った。当然か。一回で安倍政権打倒、自民公明与党打倒では、無理かと思わせてどんでん返しの衆院出馬、選挙での第一党獲得、首班指名での・・・、となるか。
次の次ぐらいはと、若狭氏はコメントしたらしい。あんた口を軽く開くんじゃないよって言われたらしい。ここにも宮仕えの姿がある。それもこれもやはり権力闘争の一つだ。
こざかしい・・・。さらさらありません・・・。むなしい・・・。
でも、こざかしさの上にできる二大政党なんてありえない。私はそう感じている。
とにかく、この国の将来をみらいへ、こどもたちへとつないでいく責務はみんなにある。
俳句が9つということは、けっこうな文字数だ。
そこに問題点を置いて、主張を展開するなんていうことができなければならないのだ。
なんらかの提案を自らの考えでだれかに訴えることが本当にできるのだろうか。
そんな少ない文字数でできるのだろうか。やっぱり難しい。
これでも、ほぼ200字をいっているのだから・・・。
いつの間にか、いつうまれたとかいうのをとくにきにしないようにして、気を使うようになった。ほんとかどうかは定かではない。
でも、あまりいいと思わないなら、そうしようと私は考えた。つい、しらない…ふりをしている。つまり、私にすればずいぶんと気をつかっているということだ。
たしかに、この日が自分が生まれた日だと思うのは、親に感謝するということでもあり、自分の心の中でおもうことが大事なのだと・・・。
それでいい・・・。
でも、しっかりと言葉で言ってほしいとか、プレゼントがほしいとかいわれればいつでもあげる用意はしている。でも、なにもしないことが一番のおくりものなのかもしれない。それはつれあいのこころづかいである。
こどもからおめでとうといわれるのは、またべつのものらしい・・・。でもわたしにはそういわないので、ことしもだまってそういっている・・・、こころのなかで・・・。いつまでもげんきにいてほしい・・・と想っているだけでしかないのだが・・・。
日記。それは三日坊主の代表だった。
それが、今、何かを毎日ノートに手書きで書き、そして、ブログにも別途の目的で書いている。どうしてそんなに好きになったのか。
それは、ある秘密を会得したからだ。自分の気持ちをコントロールすることは意外に簡単だ。素直になることだ。そして、表現することの難しさを知ることだった。つい冗談を記すことがときに大げさになる。それが、すべての基本になる。ありのままを記す。気持ちを素直に表す。そこに、エコひいき的な妄想があってはいけない。続かない。
続けるには、自分の手で、頭で文章をつづることだ。それは楽しいことだ。主語と述語とその他の方法で表現できることはいっぱいある。
そんな楽しいことを、他人の誹謗中傷につかってはもったいない。私は、いつも誰かを批判するとかいうのではなく、世間の事実を知り、そして書くという作業を続けたい。
文はどんどん短くなる。そういうのがわかる。頭が勝手にばらんすをとったりする。手が勝手にうごく。そんな感じを味わうのもいいものだ。
何のためにブログをかくのか。以前、その目的は何かという点について考えてみたことがある。結論はとくにないのだが、やはり、考えること、すなわち思考の試行であり、試行かなとも思う。
今、150の記事を書いてきたようだ。まだまだだ。とても自分の思考を試行しているとはいえないのが実態だ。目標を私は1000記事においている。もう息切れという状況では決してない。やはり、表現力もないし、心から溢れるパッションもない。そういうのんべんだらりんとしたものでも、それはそういうものだという特徴なのか。そんな勝手なことを言えるのがいいのだ。
ブログの目標はある時までに何かを追求していくのだが、それはやはり数ということになる。文章は短い方がいいという。でも意志が伝わらないし、意思も伝わらない。それは自分にそういうものが欠けているからではないか。
いろいろある。でもそういう心の断片をとくに意識しないで、つくっていくのがいいのだと私は考えている。ブログの目標はなんでもない。自分の心の断片を1000の形に残していくことだ。
何気なくブログを利用している。ふと目的って何かなと思った。とくに大勢の人々に伝えたいことがあるわけではない。それは違う手段と方法でやればいいことだ。ではなぜだろう。暇つぶし、日記、趣味・・・そんなところだろうか。
デジタルデバイドという対処策。年配の人にとってはそれが一番ではないか。何か新しいことをやる。茂木健一郎さんの脳の科学そのものである。何か新しいことをやると脳が刺激を受けるのだ。モーツアルトの音楽は脳に刺激を与える。本当だった。リラックスすることは、サンマの頭の例にもれず相通ずるものがあるらしい。
これはとてもいいことを知った。私はそう思った。そのもう一つの例は写真情報科学誌というものがある。最先端の科学情報や最新の自然k学の情報を分かりやすい図や写真で解説している。40過ぎごろから、新たなことをするのは面倒・・・、若い人にまかせればいいなどと思うのはみんな同じではないだろうか。
ITの普及は人の命を伸ばした。それは人の脳に刺激を与えたからではないか。大きな刺激の結果として、すこし遅れているとか、おおきく遅れているなど、そういう意識をみんなに与えている。それはおおきな成果であろう。だれも今何がどうなっているかしらないなら、デジタルデバイドはあり得ない。
そこにブログの意味があり、本来中高年層でも若い層でも、モクテキとして見ていいのではないか。次にどんな革命的なことがあるのか。マンガみるといいのではないか。今、ロボットの発達が著しいようだ。ひとは一昔前の想像のカセイジンになるのも単なる冗談ではないようだ。何もすることがなければ、人は何もしなくなる。そのためには、ヒトはやはり自然のままでいた方が良いと私は思う。質素な生活という贅沢を精一杯味わって生きるのが一番だと思う。でもそれが難しい。すぐに溺れてしまう我が身があるのだ。
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