役者人生を全うした。
そう息子はつぶやいていた。
三国連太郎さんが90歳で逝った。
役者とはなんだ。
芸にいきるということは、悪いことはなんでも肥やしにする・・・とかいう言い伝えもある。酒、ばくち、おんなとなんでも許されるなんていう伝説もある。
みんなそうなのか?
そんな疑問をこどものころは持っていた。だが、今はひとそれぞれだと想うのだ。
どんな仕事でも、そこに興味を覚えて、それなしには生きていけないというようなことが、ひとには時として起きるのだ。
親子の関係も、それは役者としての生き方からすれば、ただのひとつのしがらみでしかないのかもしれない。
興味のないことには、こころを費やさないというようなことだろうか・・・。
ちょっと疑問はあるものの、まったくわからないことでもないと、素人でもおもうことはある。
ハードランディング。
ソフトランディング。
どっちが中国のスタイルか?だって・・・?
それは、格差社会での両極端を見てどう評価するかという大問題だ。
だって、硬いところから軟らかいところまで裾野は広いのだから、なんとでも言えるようだ。いいものも悪いものもすべて包含されている。大金持ちから極貧社会まですべてある。そんな社会であり、そんな国家だ。
タケヤリから核兵器まで・・・。
天使から悪魔まで・・・。
誠実さから強欲さまで・・・。
つまり論評は不可能だということだ。一個ははじけてもほかの13億の民が代わりを探すことにはなんら不具合はない。一人とか1個とかは、そんな些細な存在は議論にも値しないのだ。
したがって、中国経済の行く末は、地球規模で69億の民を飲み込むか、それともそれに飲み込まれるかのどっちかなのだ・・・。
べつに日本のようにソフトに着陸するなんていう芸当は必要ないのだ。とにかく着陸の目的であり意味であるところの地表に到達することでいいのだ。軟着陸でもハードランディングでもどっちでも支障はないということだ・・・。
これからの映画やテレビのタイトルは、食糧危機を取り上げたものになる。
それは、農産物、水産物などの食糧が不足するからだ。
経済の根幹を占めるのは、人口爆発というクライシスを抱えるこの地球上の根本的な問題だ。それが、自然の自浄作用が消滅し、人為的な対症に依存するようになるにつれて、遺伝子作物のエラーとか障害が表面化し、どんどんとその原産地への圧力が増加するようになる。
そこに甚大な権益が生じて、富裕層の独り占めが始まる。不満は爆発する。人口抑制はすでに始まっているものの、貧困がその地球規模での拡大に警鐘を鳴らしている状況だ。
きわめて危険な政策が地域によっては実行されてしまう恐れがある。自然の摂理に反してコントロールすることは、周辺の環境に大きく影響を及ぼすのだ。人間だけの問題ではない。フードチェインとは食物連鎖として図化されているものの、ひとつ心配なのは、それがこの世界のほんの一部の食糧の連鎖でしかないという点だ。
農産物の価格が高騰することで、そこに食糧の不足があると世界中で認識される。貧困という状況から、それは抹消するという考えになってしまうかもしれない。いのちをかけた戦いが高騰する農産物食糧の価格の前にあるということだ。
グローバル化への批判が今、垣間見られることは確かだ。これしか生きる道はないと言い切る経済界のリーダーたちがいる。政治家も国家の発展という政策の上では、賛意を示し努力するしかないようにも見える。
しかしどうなのか。
それでいいのか。今ある道理、論理で納得してしまうというか、反論のしようがない状況というのは、極めて不自然ではないか。そういうところから、ほころびが出る。出るものと入ってくるものがバランスしなければ、そこに安定はない。
でも、そのシミュレーションはいろいろある。前提条件をあやふやにすることで、そういう総意を得ても、結果が悪いことは防げないのだ。あやふやな前提条件をいかにも明快であるようにひも解くとき、そこにはすでにほころびが見えているはずだ。
車社会がいい例だ。
やめられないのだ。年間数千万台という車が世界で生産されている。途上国の低賃金をあてにそして新たな吸収可能なマーケットをそこに求めて資本は動いているのだ。だが、それでいいのか。
循環型社会と叫んでも、なかなかその均衡はとれないのだ。循環するものがたとえ0.0001%でもそれは理論として社会を動かし、バランスのないままに不安定な流れに突入するのがおちではないか。そんな悲劇が、ヒューマンエラーとかいう理由で説明されてもだれも驚きはしないだろう。
でも、そこにひとの幸せというものをちょっと考えてみることで、大きく正しい方向が見えるのではないか。日々、質素に食し、この世の中のことを考えるひとたちがこの地球上には大勢いる。いやほとんどのひとたちはそういうことをほんとうにいいと考えているはずだ。
農産物、水産物などの食糧の価格にときどき目を向けることが、これからはとても大切なことになると私は考えている。
危ない場所として、公園がある。
とくに夜間は女の子には、通ってほしくない場所だ。
でも、数年前のニュースであったような話が、昨日のTVドラマの筋書きにでてきた。
このドラマでは男性ではなく女性大学教授だった。被害者は売れっ子であったようだ。
でも、怖いのはだれでもトイレにはいくのだ。それも、日本では特別なエリート用のとか、高級トイレなんてないのだ。大学でも、ホテルでも、共用スペースでは差別していないのだ。
ここが危ない。
たしかにふとなんでもない普通の私達でもそういう感じを受けることはないか。感じることがあるだろう。
盲点は、トイレの見える場所には監視カメラがないということだ。
さすがにエレベーターでの危険性はみんなが察知しているから、監視カメラがばっちりだ。
でも、トイレには公共施設では設置されていない。
なんとなく嫌なものだ。なんとかならないものだだろうか。
生理的欲求は、ひとを無防備にする。そんなところで有名人でもない普通のひとが警戒していたら、余計怪しまれるし、なんともしようがないのだ。でも、怖いものはしょうがない。なんとかならないだろうか。
歩行者天国もそうだ。
そんなところで開放的になっているときに警戒しろとだれが言えるだろうか。
トイレも歩行者天国も、ひとを解放して安心してくださいというのがスローガンではないか。いや、そういう必要なところが危ない。歩行者天国は、いっぱい目がある。でも、そこが危ない。
まさかトイレで犯罪なんて・・・。でも目がない。だから、あぶないのだ。
学校のいじめもトイレから始まることが多い。ワルがカツアゲをするのは学校の物置の裏側路地とか、体育館の物置の片隅だったりする。映画館もその一つだ。
だれにも言っていないが、中学の時に、映画館でカツアゲされた。
そいつ(と思われるやつが・・・)が、工高のクラスメートだったのだ。あいつ覚えているわけはないよな・・・と想いつつ、そのうち忘れた。今、思いだした。
トイレは危険ば場所だ。公共の施設では、もし複数でお出かけなら、ちょっと待っててねと声をかけて、トイレの中では、郷ヒロミの「男の子、女の子」でも大声で歌っていなくてはならないだろうなぁ・・・。
ああ・・・やんなっちゃったな。
危険な場所がトイレなんていうのは、トイレの神様が聴いたら怒り出すだろうな。
もっと短くまとめて・・・。そんな指令が下った。
なぜ、そんなことをする必要があるのか。
それは、コミュニケーションの効率をよくするためだという。
なぜ、そんなことで、逆にわかりにくくなるんじゃねえぇの・・・とふてくされよう。
なぜだろう。そう想って考えよう。
でも、ずいぶん長くなっているぜ。この文章も・・・。
もっと短い文章を書くには、もっと考えをまとめておく必要がある。それだけだ。
だから、のんべんだらりんとした能書きから、まあ努力していくことだろう。それが、その時点での能力だ。だから、できないと焦ることもないのだ。自分のやり方で表現すればいいのだ。自由にやってみることだ。だれも邪魔はしないし、邪魔するのは自分の変なプライドってやつしかない。そんなもの、下手にもっていたりして・・・。でも、下手でもなんでもこんなものがないと人間、ときに落ち込んでしまうから・・・。
もっと短い文章を書くには、もっともっと時間をかけることだ。半分にするには、最初に方針を決めて書き始めて、コアになるものを埋め込んでいって、そこから何度も何度も何度も読んでいって、そしてまた読んでいって、なんどもなんどもやることだ。
とするといらないところが落ちていくのだ。勝手にぽろぽろとおっこっていくはずだ。そして、そこに隠れているものがでてくる。そんなことを私たちは頭のなかで想っていたのかというようなことが入っているのだ。大事なことは、あまり目だたないことが多いらしい。
もっともっと短い文章にするには、ながい文章をいっぱい理路整然と書くことだ。そう私は想う。でも理路整然というところはちょっとおまけかもしれない。
理路整然と書こうとすると、論理が狂うのだから、おかしなものだ。
もっと短い文章を書くには、あまり多くのことを考えないことが一番重要なのだ。
シネマはTVの出現でだめになる。
自転車は車の出現でなくなる。
そんなことはなかった。
代替と想っていたものが実は、違う見方で生き残るのだ。
ひともそうではないか。もう年だからそろそろいいのではないか。
今映画ははやっているらしい。
そして、儲かっているのかが気になる。
どうなんだろうか。
映画が脚光を浴びている。すごい数のシネマが制作されている。その内容は実写はもちろん、CGを駆使した超近代技術の粋を集めたようなものまで、アニメもあるし、多様な内容だ。
戦争映画、アクション映画。恋愛もの。ヒーローもの。
私が一番最後に映画館でみたのはずいぶん昔のことだ。ゴッドファザーというマフィアものだった。映画音楽がいい。でも、もう内容は忘れた。映画音楽のメロディだけ覚えている。
映画ってなんだ。
どうしてTVができて普及しても、シネマシアターは復活できたのだろうか。不思議なことだ。同じような機能のものが、共存する世界なのだ。車社会でも自転車は流行の真っ最中だ。エコで健康にいい。まさに現在にぴったりの乗り物だ。
その辺で見かけるスポーツ車で大の大人が載っているのは、シャシーがアルミ製だとかジュラルミンだとか強化ファイバー製なのだという。数十万から百万円を超すものまである。軽い。
シネマ・シアターがすたれずに復活しつつあるのはなぜだろうか。広い空間ですぐれた作品を鑑賞できるのは、ある種の安らぎを与えてくれるからだと私は考えている。
それは、引きこもりとは違う開かれた空間でのプライバシーとでもいうのだろうか。
なぜ、いま。そういう疑問について答えよう。
あまりに世界はグローバル化したからだ。世界のどこへいっても通信事情はもはや変わらない。だから、未知のものごとへのあこがれが強くなっているのだ。
現実にあるものは、大災害とかのことで、それはとても心配だが、すぐに情報として伝えられる。すぐに既知になる。
だから、未知に対する果てしない興味がシネマに人々を惹きこむのだ・・・・。
だめ中学バレーボール部。その女性監督の教師と生徒のがんばりを描いた映画のようだ。
まだ見ていない。たぶん映画そのものはみないだろう。
でも、なにか目に焼きついている。主役の先生がかわいい女性だからかもしれない。
生徒たちが、おれたち頑張るから、目標達成の暁には、馬にニンジンではなく、俺たち男の子に先生のオッパイを見せてくれ・・・というものだ。
男の子にもオッパイはあるのだが、どうしてだろうか。どっかで機能が重複している意味があるような事態が起こるということだろうか。たしかにDNAのいたずらと言えなくもない男女の性差なんだが・・・。
おっぱいバレーの戦果はどうだったのだろうか・・・。
本当に疲れてしまう。ミステリーは楽しいのだが、どこかちくりとこの胸の中を触られているようで、すっかり疲労困憊する。
清張シリーズ特集では、作品がすぐにわかる。とにかく心理描写がすごいことになっている。はらわたをむしり取られるような感じがわかるだろうか。
私は決して犯罪者ではないのだが、とても似たような犯罪心理はわかる。おれもそうなってしまうのかとか、どうも見透かされているとか想うのだ。
もし過去の過ちがあれば、とても自首せずにはいられない・・・。そんな感覚になる。
だから、終わったとたんにつかれてしまう。そして面白いのだ。緻密に組まれた網の目がある。ミステリーの醍醐味なのだろうが、少々、疲れてしまう。
ひとのこころをいたずらにもてあそぶのは、小説の中で十分な気がする。現実なら、とても耐えきれない。そんなに感情移入させられてしまっているということだろうか。
松本清張ってどんな人だったのだろうか・・・。
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