映画・テレビ

話題の映画について

最近、映画館で見ていない。それは、ひとごみがすきでないということによる。私の話ではない。知りあいのことだ。

映画はなんとなくひとりではなく、複数でみたいと私は思うのでついいかなくなったようだ。

話題の映画が多く出ている。たしかに、その表現力が最近は変わっている。ひとつのことでも昔と違うなにかを表現できてきているように感じる。

より迫力があるとか、えらい人も普通のひととしてのとらえ方をしているとか、当然のことを率直に表に出しているところがアピールするのだろうか。

そして、計算されたものが、一度壊された形ででてくるというような芸の細かさも目につく。わざと逆の逆をいくようなことだろうか。ひとのふれあいにしても、自然な形で表現していれば、それは自然な形で受け入れられることになる。

なんとかして、見てみたい。話題の映画をまた自分で感じてみたい・・・・。

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芝居か現実か

ドキュメンタリーではなくとも映画は、ヒトが考えたものである。筋書きがあり、登場人物があり、そこで演技をしてまとめたものである。

そこで感動するのはなぜだろうか。現実的であろうがSFであろうが、そこに人の感情がでてくると場面で心が打たれることがある。感動しているのだ。

どこにその伝達パワーがあるのか。どこからそのエネルギーはつくられてきたのか。役者だろうか。その媒体は役者の演技だろうか。監督の演出だろうか。シナリオがいいのだろうか。背景音楽とか音響効果だろうか。

それは、受け取る側の心理にもあるだろう。期待感があれば、そこで評価も決まる。期待以上か、期待以下か。当てが外れたなんていうこともあるだろう。

創る側も同じだろう。意図したことができるかどうか、そんな不安があり、できたものに対しても満足いくか不服なのかがあるだろう。

芝居はまねごとだとずっと思っていたのだが、あるときひとつの現実ではないか。その原作を想ったひとの頭の中にあったものが伝わってくることがあるのだろう。その内容は多種多様である。深刻なものから娯楽ものまでいろいろだ。でもそこに伝わるものがあれば、それは現実になるのではないか・・・・。

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女性版の市の迫力

綾瀬はるかという女優がいる。何か特別に輝いている女性に感じていた。でもひ弱な感じであり、あんな激しい立ち回りが迫力をもってできる女優さんだとは思わなかった。

それは、彼女がオリンピックの選手のランナーになったりするコマーシャルをみて想ったことなのだ。

でも、今回のざとういちの演技は宣伝用の短いものだが、迫力があった。演技ってあんなに変わるものなんだと感心した。

やはり、実力のある女優さんなのだと思い、できれば映画館でみてみたいと想っている。

みんな同じことを感じたように私は思う。

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映画館の人気復活

テレビが普及したら、映画産業は需要がなくなる。製作ではなく、興業の方の映画館の必要性についての感想だった。

今、映画館はアミューズメント・コンプレックスになくてはならない存在になっている。でも、この傾向を聴いてからも、私はまだ新しい映画館というものに入ったことはない。興味は大いにあるし、テレビとは違うのだろう。家庭でも大画面になってきているのだから、どこが一体そういう需要を掻き立てるのだろうか。

ひとが大勢でみていることではないか・・・、と私は考えている。ひとりでみても面白くない。カップルで友達同士でみたい。そういう関係のグループがいっぱいいて、そして同じような反応を各場面で示すなら、なおさら自己認識ということでも意味がある。

迫力がちがう。これも理由だろう。

今話題の日本の国技、相撲も同じだ。他のスポーツも同じだ。目の前でくり広がれるシーンはまさにシナリオのない世界であり、想像を絶する才能なんかが見られるものだ。そのつど、映画だから・・・とか、あいつら天才だから・・だとか、想いながらも、それでも・・・、おれにも少しは才能があるかもしれないし、やれそうだなとかいう希望がほんの少し心に芽生えるものだ。

相撲をみれば、おれも強くなりたい。野球をみれば、おれもプロ野球の選手になる・・・・、なんて・・・。陸上の選手の走りを見て、…同じことを想う。実際に走るとか行動するともうすぐだめだ、できが違うとすぐにあきらめざるを得ないことになる。

でもその一瞬、おれにもできそうだ・・・、やってみたい・・・と思う。それがいいのだ。客観的に己をみるのではなく、本当に主観的にのめりこんでいくのだ。それがやはり好きなことをやる・・・・、好きなことなら、下手でも何でも、石にかじりついてでも・・・、やってしまう。

映画館の人気復活とその持続は本物のように私は思う。そういう私はまだいっていない。そんな俺みたいな隠れ需要がまだまだあるのだろう。 

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非難すること、されること

対峙して非難する。面と向かって批判する。それはいいだろう。その非難の仕方はいいだろう。そして非難される方も面と向かって、モグモグするだろう。それもいいだろう。

今、問題はインターネットで面と向かわない、対峙しない形での無責任な非難、批判があまりにも多いことである。そして、心理的にはこういうインターネットのような状況では当然おこるものだということである。

そこに各個人が責務という形で、この社会で何が大事なのかをしっかりと自信をもっていればそういうことはない。グローバル化というところで日本社会では通用していたことがそうではない。良いと思われていることが、実は他人の権利を侵害していたとかいう反対のことがある。ひとのマネをする。他人の畑のものは自分のものではないのだが、人助けという意味では恵みというものもある。

他人に恵みを与えることは難しい。他人から恵みをうけることも難しいものであり、容易なことではない。そこに相互協力という作用がある。

お互いに助け合うことだ。それは、ヒトとしての能力を最大限に払わないと実現しないものだと私は思う。それは、時として誤解されるからだ。私利私欲で行動しているといわれればそうかもしれない。みんなが自分の身を守るのが第一であり、他の人の命より自分のものが大事だろう。

それが制度化されれば公共の利益のために自分を活用することであり、ある種のいいわけは立つ。戦争は公益のためか、戦士は公益のために戦いに参加するのか。いろんな疑問がある。

それだからこそ、基本てきな考えをしっかりともつことが大事なのだ。非難や批判は耳を傾けてこそ中身がわかるものだろう。そこに批判する人のエゴはすぐ見えるものだろう。それを感じてわが身の行動に活かすことが大事なのだ。

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モノづくり

なにかとんでもない世界に迷い込んでしまった。

泣いている自分がいる。映画とかTVのドラマを見て感動している。

モノづくりの先生方が意図したものが、伝わったのだろうか。それとも感受性の問題だろうか。時代の問題意識が共鳴しているのだろうか。

すべて、そんな形でシミュレーションが創作者の中では行われているとしたら、・・・。どんな効果が社会的にあるのだろうか。理想だけではないもの、娯楽目的のもの、いろいろだ。でもどんなジャンルでも心を打つものがある。

アドベンチャーものしかり。戦争ものしかり。恋愛ものしかり。家庭ものしかり。伝統ものしかり。やくざ映画とか、農民物語とか、サラリーマンものとか、政治ものとか、・・・。いろいろなネタがある。そしてそれぞれが感銘を与える。

モノづくりは、心理的なものでは意味がないと、常々おもってきたが、こちらのモノの方が、つまり心理的なものの方が影響が大きいと最近は変わってきた。

なぜか。

それは今はわからない。でも、最後は実体のあるものに変わっていうための、大切なモノという位置づけに変わりはない。私の考えとしては・・・、であるが・・・。

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映画監督

映画って面白い。そう感じたのは子供のころだ。娯楽のない時代、ヒトの記憶力はすごいものだ。覚えて当然なのだ。どんな鈍感なやつでもすごいのだ。

他に何もないとか少ないとかいう状況では、対象を覚えるのは当然だ。メモなんてとる道具もないのだ。頭の中に覚えるだけだ。そんな能力はすぐに退化する。

ある途上国では携帯電話の番号をすべて暗記しているらしい。とにかく、字が読めないかけないとしたら、それはすべて頭のコンピューターで処理する必要がある。だから高性能になる。特化した機能が優れていなければ生きていけないのだ。

映画監督はそんな状況に似ていないだろうか。大衆にあるものを届けたい。自分の頭の中にすべて書き込み、それを具体化する。一個もおろそかにできないものばかりだろう。自分の頭の中にあるものは、その映画監督にとって完璧なものに違いない。だから、彼らはいつも妥協しているのだろう。なぜなら完璧というものはないのだからだ。でも、そうだから、頭の中の完璧さをさらに現場で補完してより良いものにしているのかもしれない。

そんな仕事はとてもしんどいにちがいない。何が面白いのだろうか。おもしろさというか娯楽を大衆に提供することに生きがいを感じているのだろうか。映画監督というのは、まだまだみんなの憧れの仕事なような気がする。

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映画のいろんな描写について

面白いことを考えるお笑い芸人。

何かを探し求めているのだ。笑うというメカニズムをどう表現したらいいのかを追求しているのだろうか。私はもともと面白い才能をもった人たちの集まりだと思っていた。

タレントとは才能のことだし、普通のひとがいくら目指しても不可能なものだと考えていた。

普通とは面白くないことというようなイメージだが、どうもちがうようだ。お笑いのひとの中にも普通の人が大勢いるようだ。要は才能ではなくて集中力によって一時的には可能なようだ。まずはだれかがいつか言った言葉に代表されるのだろうか。それは「ガッツ」とか「やる気」とかである。

今朝、普通の生活をテーマにした映画がカンヌ映画祭で受賞したというニュースをみた。何気ない家庭生活をテーマにしたものだそうだ。

普通の家庭の出来事を題材にしている。そこであるインプットが家庭をかき回す。4人家族それぞれが抱える心の問題を捉えているのだそうだ。

ひとつが外れるとそこでの普通の家庭ドラマが大きく変わる。

それが幸せだというのなら崩壊という怖いお話でもある。

普通の子供が将来への希望をもっているが秘密にしている。ご主人は仕事を辞めたのに秘密にしている。それぞれが日々の生活の中で抱える問題をどんな風にしているのか・・・、まったく一般的なものだ。

そんなところに目を向ける監督の頭の中はどんなものか。日常から、問題意識をもって世の中を見つめている人々がいる。そんな流行を追わない映画人がこの日本にまだいるのだ。現実をどう見るか。

とても鋭い視点に私は圧倒された。

でもたぶん映画そのものは見ないだろう。ちょっと心が重くなってしまうような気がするから・・・。でも、気になるニュースだった。

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人気アイドルたち

彼らは、辛辣な話、バカだと私は一時、本当に思っていた。

そして、今、素晴らしい活躍と自由ではつらつとした活躍の姿を見ていると、なんと狭い見方をしていたのかと恥ずかしくなる。

5人の有名なメンバーで構成されるグループなのだ。結成20周年だという。すごく成長したのだと私は、自分の恥ずかしいコメントを超えてそう心から思う。

私がそう思うのは、メンバーそれぞれが個別の特徴を出しきっていることからきている。一人の活躍がほかのメンバーを刺激し、それぞれがまねをするのではなく、個性的な姿をだしている。

バカだと思った私は、彼らの中にかがやく石ころをみていたのかもしれない。もっともっときらきらと輝き、そして、何事もなかったように一般大衆の目線で生活を続けることが、かれらならできるのではないか。そう想った。

そして、過去のスターたちが、おごりとチヤホヤされる中で、自分の心と身体を蝕んでいったような道はいかないだろうと、安心もする。なぜならば、ありのままの自分を大事にして生活していると今の私には見えるからである。

だから人気も冷えないし、ますます活躍していく気がする。ちょっと前の同じグループとは大きな違いがそこに特徴としてあらわれている。

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暮らしと映像

暮らしの中にいろいろな映像が入り込んでいる。テレビ、映画、アルバムなど。音楽は昔から生活の中で重要な働きをしてきた。そして絵画も芸術という分野での素晴らしい活動としてこの世の中に認められている。これらの二つが結ばれたのが今の姿である。

これからの映像の世界はどうなっていくのだろうか。私たちのくらしにどう影響するのだろうか。難しいことがわかりやすくなって、便利になるとかいう効果だろうか。暮らしの中で、どんな映像をこれからみるのだろうか。他の知らない土地のくらしをみること、自分たちの生活を映像で発信することもできる。いろいろと発展する余地がある。その余地とは、私たちの望むものでなければそうはならない。必要なものがこの社会で使われる。それは昔からあったように住み着くだろう。テレビもそうだ。昔はなかった。でも目に飛び込んでくる映像はみんなにわかりやすさを提供した。

そして慣れてしまうとなんでもなくなる。それからが問題だろう。次の変革が求められる。どんなことなのだろうか。目をつむっても見えるテレビなんていうものだろうか。リアルタイムでどこでも見れるテレビなんていうようなものではないだろうか。

どんなシステムで運用されていくのだろうか。しっかりと個人情報の保護をしていかなければならないだろう。暮らしの中の映像は意外と歴史的なものがいいのではないか。そして未来を描くことにももちろん有効だろう。コミュニケーションの方法が変わるなら、それは双方向という通信システムだろう。

でも面倒な気もする。一方通行でいいではないか。そんな声も聞こえる。暮らしに映像を持ち込んだのはずっと昔のことである。今はかなり速度がはやくなったが本質はおなじだろう。

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おしゃれ

よくおしゃれな人がいる。それはあまり関係ないことだと私はずっと思っていた。そんなものはなんのためにもならない。そう考えてきたようだ。だから、変におしゃれな人がいると何かけなすような感覚を抱いてしまう。実は違うのだ。それはそれで何かちがうエネルギーを人に与えているようだ。だから、意味は大きくなっていると気づいた。それはつい最近である。

成長したのだ。新たなことを見出すことができるのは、新たな視点で物事を見ているからだ。そんなに大げさなことでもないが、私は今迄の見方がやはり変わったのだと思う。つい自分本位で考えるのは、時に自分を委縮させることであり、同様に自己を誇示することでもあるようだ。

そういう中で、適切なおしゃれができればいいのではないか。何かこころのバロメータにも使えるのではないか。脳が疲れていてはいい発想は出てこない。ひとりでにアイデアは降りてはこない。そんなとき少し心をあそばせるのがいいのではないか。いつもギスギスとしていては、顔面がしわだらけになってしまう。いつもにこにことする必要はないが、笑顔があればおしゃれも楽しいものになる。

映画やTVのおしゃれはその時のものを反映している。たぶん繰り返しているが、繰り返しがあってこそのおしゃれなのだ。

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