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書籍・雑誌

なにもしたくないときどうしてる

わたしは、何もしたくないときは、何もしない。
いやできない。
やろうとしても、足が引っ張られる感じである。
金縛りというやつかもしれない。
心理的なものだといっても、やればできるともいう。
やらなきゃいけないと思うと、できない。
そんなのほっとけとなれば、できるかもしれない。
でもやらない。
いやなときは、だれにでもある。
そんなときはなにもしない。

天地返し

富士山噴火。
火山灰の降った耕作地を蘇らせる手法がこれだった。
宝永山が噴火。
降灰をひっくり返して農地をもどす。取り戻したらしい。
こう聞くと、この前の福島第一の放射能汚染の大地を思い出す。
たしかに表土を耕うんで下に押し込んだという話だった。
同じだ。
ほんのちょっと下に大地のぬくもりとか栄養分とか微生物の細菌類とかが生き残っているのだ。そのちからを借りるという知恵だったようだ。
天地返しの技法らしい。
人間も口から出口までの内臓は皮膚と同じ位置付けらしい。
きっと必要なときには、裏返しするのだろうか。
できるのだろうか。

本の中にあるもの・・・思索か思考か?

いつごろから本ができたのか。

紙ができて、字があって、それで表現する技術があって、また残す技術があってのことである。

結構、難しい。

だって、自分ひとりでこれらの作業をすべてやろうとしたら、大変なことだ。

それは文化遺産になるものだ。

無形文化財というカテゴリーだろうか。

それとも、中身ではなく、本そのものならば、有形である。

だが、私たちの文化や伝統というものは、先人たちの知恵と思索や思考の結果なのだ。

大きな発見をしたひとたちもいる。

この世の中で、自然界の法則を見出した人たちだ。

その大元は、細胞の性質にあるように想う。

ひとはそういう細胞の塊であり、結果である。だとすれば、それは何らかの刺激によって再活性化すると言えようか。

多能性幹細胞の素をいっぱいもっているのだ。

その可能性は、日々の疲労でゼロになっているとも言えるし、そんな希望も消失しているとも言える。

本を眺めていると、どうもうれしくなる・・・。なぜだろうか。だれかが考えたものだからだと想うのだ。

時には難しい本を眺めよう・・・

ついつい安易な方に走る。

本もやさしいもの、興味のあるものしか、手をださない。

だが、時には難しそうな本を眺めてみようではないか。

キーワードは「国家」「予算」「租税」などなど・・・である。

国家ってどうしていがみ合うのか。国家ってどうして軍隊を維持しているのか。戦うためだろうが、なぜそんなことをするのか。

税収と予算。国家の借金。軍隊を維持するために必要なお金を国民に借りる仕組みもあるらしい。

負けたら返せなくなる。負けたら国家の存亡にかかわる。いずれも勝利を絶対条件にしているようだ。

現実に負けた国家は、もう国家ではなくなる。国民もいなくなる。いなくなった国民からの借金は返却できない。国家がなくなるのだから・・・仕方がないとなる。

予算が税収を大幅に超えると言う状況は、どう説明するのだろうか。

借金を返さなくてもよい論理ってあるらしい・・・。

そんなことを述べている本もある・・・・。難しいがその主テーマはそう困難ではなく、日常私たちの身の回りにあることがらのようである。

ものを書くひとになるには・・・

回復は難しい。

そんな状況の中で、身体が元通りに動かせないなら、モノカキになる。

あきらめの気持ちの中で、私はそう決めていた。覚悟すると、運命は如何にもあまのじゃくである。元通りというか、ほぼ回復した。

でも、おっかなびっくりだ。

だけれども、今、モノカキにはなっていない。ということは、うまく回復したのだ。

でも、もうひとつの選択肢を実践していない。なんとか、ものを書く人になりたいと・・・、今、想うのだが、それは贅沢というものかもしれない。

ものを書くことは、ほかの可能性をすべて拒否されてはじめてできることかもしれない。それはエネルギー消費という誤った考えではなく、身体に負担をかけないだろう、決まった日々のスケジュールに沿わなくてもその時の身体の健康状況に応じて動ける自由さが多少はあるということでしかない。

脳みそを使うことは、かなり疲れる。負担になる。でも、もし身体的にきついなら、それは選択肢になりえないというかもしれない。きついのはそれは脳みそも身体も同じだと私はちゃんと理解している。

なぜそう・・・選択した、いやその時覚悟したかというと・・・、それは足りない部分を補うという仕組みが人間にはあると確信していたからだ。

これしかない。そうひとは想ったら、そこに集中するしかないのだ。いろいろな才能があり、陸上も水泳などの競技も、短距離も長距離もできるひとであっても、すべてを選べるわけではないのだ。

貧しいから、少ないお金を必要な分だけ大事に使うことを知っているのだ。それで、ものを書くひとになりたいと私は想うのだが、どうすべきか迷うのだ。

まだほかにもできること、やりたいことがあるのだ・・・。まだ枯れてはいないということだろうか。まだ芽がでるだろうか・・・。

わからないってワクワクというイメージ?

つい、しかめつらになるような状況ではないか。

わからないことは、いいことではない。

それが、ふつうの感想だ。

だが、ワクワクすると言われると、なにかそんな気にもなる。

わからないが、あるときにわかるへと変化する。それが、ワクワクのわけらしい。

なんとなくわかるだろう・・・。

書店員が選ぶ今年の一冊

昨年は舟を編む・・・というやつだった。

もう映画にもなっている。

たしかに大海を公開する舟だろう。

だが、この世の中には、大型の巨大な船がある。

ハルキムラカミさんは、書店員が選ぶなんていうことではなさそうだ。

ひろい海は、彼にはない。

ちいさな池にみえるのではないか。

歴然としたちがいが、じつはその見え方が大切なのだ。

どんな巨大なものをみても、驚かないなんていうのは、とてもつまらないだろう。

そう想うのは僻みだろうか。

いろんなこころの動きを感じ取れる人間でありたい。

いろいろなことを観て聴いて、話して、そして考えていくひとにずっとなっていたい。

作家という職業

日の目を観ることができるのだろうか。

そんなことで生きていけるのだろうか。

作家という職業に対するイメージだ。

なんにもしていないひとが作家のような人生を送るという意味だと想っていた。

だが、世のなかには寝る間もないほどの売れっ子もいる。

アイデア一つで、おのれの信念ひとつで堂々といきているひとがいるのも事実だ。

本屋の書店で山積みがどんどんと売れていく作家がいるのだ。

このデジタル時代に、なんでだ。

フィリピンは中国領だって?

なんでもかも、ひとのものの、俺のもの。

そんな言葉が平然とでてくるらしい。

中国政府は、フィリピンの小島ではなく、フィリピンそのものが属領だと言い放ったという。でも訂正はされているということだ。

日本列島は沖縄も含めて中国領だ・・・・っていっているかのようだ。

それなら、尖閣諸島は当然中国のものだっていうつもりなのか。

手ごわいはずだ。

今の日本では叶わないはずだ。中国がいくらでも言いたい放題だ。よその国に対しても強気だ。まるでごりおし外交だ。

本屋さんの人気は強いものがある・・・

みんな本を読まないという。

私もその典型かもしれない。

でも、わたしは本屋が好きだ。

それは、なにか安心感のある空間だからだ。

さすがに書店員さんたちはなにか知的なものを感じさせるのだ。

それで人気があるのだろうか。

目で見てそして現代というものを知ろうとする努力はやはり書籍が一番のようだ。

ただ、情報をとるということならば、ネットの方がいいだろう。でも、そこに何かしらの愛着とかを感じるのはやはり本というもののようだ。

本屋さん。そう呼ぶとやはり人気の強さがわかる。

でも、これからどういう形で変化するのだろうか。変化という発展には間違いのないところだとは想うのだが・・・。

どうだろうか?

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